「美神局長、本当にお一人で……?」
髪を短く刈り込み、防弾ジャケットに身を包んだ男が、目の前に立つ女性に確認するように声をかける。
亜麻色の髪を結い上げた女性は無言で頷いた。
煌々と輝く月の光の下、二人が立ち並ぶのは関西方面から首都へと続く高速道路。
今日これからの作戦のために、そこは完全に通行止めとなっている。
普通であれば反対の声が大き過ぎて不可能なのだが、あらゆるツテを駆使し、この作戦を実行に移したのだ。
「ここは私一人の方が都合が良いんです。
厚沢二尉、貴方も後方に下がり、自分の役目を果たしなさい。」
凛とした響きに、男は力強く敬礼をし、その場から離れていった。
自衛隊との合同作戦である今回に失敗は許されない。
だというのに、ただ一人でこの場に立っているのは何故か?
「……来た。」
視線の先から流れてくる妖気に、美智恵は神通棍を構える。
車の通りが無い深夜の高速道路に、風が吹き抜ける音だけが響く。
そして遥か彼方に浮かび上がる三人の人影。
―――― 予想以上に、速い……!
三つの影は上体を屈め、まるで四足獣の如き体勢で迫る。
車などまるで相手にならぬ速度で、三人は駆ける。
舞台は広大な高速道路だ。美智恵を抜こうと思えば、幾らでも隙間はある。
だが、三人は一直線に美知恵に向かっていた。
次第に明らかになる三人の容貌。
先頭を駆けるのは病的なまでに痩せた身体を持つ長身の男。
次に駆けるのは、まるで子犬のような瞳の愛らしい少年。
そして、最後尾を駆ける、どう見てもボロ布にしか見えない衣装を纏う女性。
三人一組の妖怪、
鎌鼬である。
人の姿でありながら、人ならざる速度で駆けるその姿は、あまりに異様と言えた。
だが事前に報告を受けている美智恵は眉一つ動かさない。
迫る三人を迎撃すべく、自身も駆け出した。
三人の身体が、月の光を浴びて妖しい光を放つ。
身体が光っているのではない、身体から伸び出た薄い霊波刀が光を放っているのだ。
まず先頭の大男が跳躍し、上空から美智恵に踊りかかる。
美智恵の視界に映る、上空から襲ってくる男と、後に続く二人。
二面からの攻撃に、通常なら足を止めて防御に専念する所だろう。
だが、美智恵は足を止めず、むしろ今まで以上の速度で走りぬけた。
美智恵の意図を察し、先頭を走る長身の男の顔から薄笑いが消える。
身を屈め自分の足元を潜り抜ける美智恵へ両腕の霊波刀を伸ばすが、一瞬早く美智恵が通り抜けていた。
どれだけ速度があっても、飛行能力の無い鎌鼬は上空での姿勢制御ができない。
一人目を抜いた美智恵に、二番目の少年の目が細まる。
先程までの小動物のような瞳から一変し、狩る者の瞳と化していた。
「あァ、ははぁ……」
狂気に彩られた声と共に、両腕両脚から霊波刀を伸ばし、ミキサーの如く高速回転する。
美智恵の全身をバラバラに斬り刻まんと放たれた、かわす隙間の無い空間攻撃。
「ハァァァァッ!!」
裂帛の気合と共にアスファルトを踏みしめる。
美智恵の強大な霊力を注がれた神通棍が光を放つ。
振り下ろされた閃光は、美智恵に迫る刃を正確に打ち砕いていた。
薄く伸ばした霊波刀は攻撃範囲こそ広いが、それ故に脆くなる。
美智恵の周囲、砕かれた霊波刀がアスファルトの地面に散らばり蒸散していく。
返す刃で自分を切り上げようとする一撃を、少年は慌てて身を捻って回避する。
かわしざま、完全にかわしきれなかった神通棍が少年の頬をかすめた。
無理な体勢で身を翻した少年は、着地の姿勢を取れずアスファルトの地面にしたたかに全身を打ちつけて転倒している。
視界の隅で少年を追いつつ、美智恵は最後尾の女性に備えた。
女性の伸ばした指先から薄い霊波刀が現れ、美智恵の目元を狙って振り抜かれた。
二番目の少年に対応するために足を止めていた美智恵は、先手を取ることができない。
上半身を横に反らしてその一撃を回避する。
体勢を崩した美智恵に、女性は呆とした表情で唇を舐めた。
血が通っていないかのような白い掌、新たな霊波刀が顕現する。
それは今までの薄い刃とは全く違った、長大で分厚い刃。
まるで人狼の使う霊波刀の如く洗練された刃が、美智恵の首を切断せんと迫る。
だが、その軌道をあらかじめ読んでいたのか、美智恵は反らした身体を回転させる。
遠心力を乗せた強烈な切り上げが女性の腹を打ち、軽々と吹き飛ばした。
吹き飛ばされた衝撃で、地面を滑りながら女性は身を起こす。
咄嗟に刃で受けた為、ダメージは殆ど負っていないようだ。
「すごいですね、
貴女。私達兄弟の連携を完璧に防がれたのは初めてです……」
ゴホゴホと咳き込みながら、青白い顔をした長身の男が言葉を投げかける。
入院着のような物を纏い、死の病に瀕しているかの如く痩せこけたその姿。
そして紡がれる理知的な口調は、人間の警戒心を解くための擬態なのだろう。
普通の人間であれば、病人から助けを求められたなら何の警戒もせずに手を貸そうとする筈だ。
「うんうん、今までの人間は最低でも手足の一本は失くしてたのに。お姉さん、凄いよ。」
二番目の少年が、大きな愛らしい瞳を輝かせながらはしゃぐ。
楽しげな口調とは裏腹に、歪んだその表情は狂気に彩られている。
一人目の長身の男同様、半袖にショートパンツという少年のような姿も、人間に近づく為の擬態なのだ。
神通棍がかすめた頬は人間の皮膚が破れ、獣の口元が露になっていた。
「アナタ……綺麗な服を着ているのね。それに、自信と活力に満ちた、とても良い顔をしているわ……
アナタの皮を使えば、楽に獲物が寄ってくるのかしら……」
呆とした口調で呟く三人目の女性。
美智恵の霊感はこの女を一番警戒していた。
身に纏う、ボロ布のような衣服は前者の二人とは明らかに異なっている。
それはつまり全身好きな場所から霊波刀を出現させる事ができるという事。
長身の男は両腕、少年は両腕両脚から霊波刀を出現させていた。
事前調査でも、二人は決まった部分からしか霊波刀を扱う事ができないと報告を受けていた。
だが、この女は違うらしい。全身のいたる所で霊波刀を扱えるのだ。
美智恵も最初は信じられなかったが、破れた衣服がそれを証明していた。
前の二人が人間に近づく為の擬態をしている中、この女だけが違っている点も気になる。
どうやら普通の妖怪の思考回路を大きく逸脱しているようだ。
美智恵のGメンの制服を『綺麗な服』と呼ぶのも、普通の女性のセンスからすれば違和感がある。
いや、そもそも目の前の相手に正常なファッションセンスがあるとは思えない。
彼女が身に纏うのは、色も素材もバラバラの布切れを、何枚も身体に巻きつけているだけなのだ。
そしてその全てに、赤黒い染みがこびりついている。
そこに至り、美智恵はようやくその衣装の意味を悟ると共に、相手の異常性を再認識した。
これは、輪切りにされた被害者が着ていたもの――――
「私は、アクゼン。」
「僕はダイバカゼ。ダイバって呼んでね。」
「……ヤマミサキ。」
痩せ男、少年、女性。
三人は順に名乗りを上げた。
相手に名乗るのが、彼らなりに相手を認めた『証』であるかのように。
月明かりの下、男が一人歩いている。
柔らかな光に照らされる周囲には、人の気配はおろか、文明の匂いすら存在しない。
剥き出しの大地と、鬱蒼と茂った木々。周囲に響くのは虫の鳴き声のみ。
明らかに人間は立ち入らない――立ち入れない――獣道。
男の胸に浮かぶのは、唯一つの感情。
何もわからぬまま異国を放浪し、戦いを繰り返してきた。
そして、この国に戻ってきた今、その目的は一つ。
男の向かう先にあるのは、かつて暮らしていた隠れ里。
見知った道を歩く男の足取りに迷いは無い。
男の足音と鍔鳴りが闇夜に響いていた。
三人の鎌鼬と対峙する美智恵。
先程は完璧に彼らの連携を防いだが、それには理由があった。
彼らの加速状態からの連携は、現状あれだけしか確認されていなかったのだ。
一体目が上空から、二体目が広範囲攻撃、そして三体目が足を止めての強力な一撃。
加速がついた状態では、取れる攻撃の選択肢に限りがあるのだろう。
今まで犠牲になったGメンや、民間のGSの報告からそれだけは事前にわかっていた。
そしこ、ここからは全く未知の戦闘となる。
加速がついていない状態では、彼らの連携の幅は無限に広がると予想された。
だからこそ、独りで。単独での戦闘を選択したのだ。
相手の狙いを自分だけに絞るために。
先程の一連の動きも、知っていたからこそ回避する事ができた。
先読みが出来ていなければ、無傷で済ませる事は出来なかっただろう。
間違いなく高速での戦闘になる。となると、手傷を負うだけで致命的。
単独での戦闘は他者を助ける必要は無いが、自分が助けられる事も無い。
勝負は最初の一瞬。それを逃せば自分の勝機は殆ど無くなってしまうだろう。
ならば、選べる選択肢は一つ。最初で全てを出し切るのだ。
「さあ、かかって来なさい……!」
右手で神通棍を構えながら、懐から精霊石を数珠繋ぎにした物を取り出す。
そして、それを左腕にきつく巻きつけた。
「……結界、ですか。どうぞ御自由に。」
「ひゃー大変だぁ。そんなことされたら僕たちは手も足も出ないや〜♪」
アクゼンが静かに呟き、ダイバはおどけた仕草でくるくると回っている。
ヤマミサキはククッと小さく喉を鳴らし、二人の耳元で囁く。
「発動させる暇なんて、与えるんじゃないわよ……
アクゼン……ダイバカゼ……遅れたら、わかってるわね……?」
冷たく響く囁きに、二人はびくりと肩を震わせた。
先頭を駆ける自分達が相手を崩し、最後尾のヤマミサキが首をはねる。
状況に応じて連携の幅は無限に広がるとはいえ、それが彼らの基本戦術だ。
故に、彼らの中でもっとも強い力を持つのもヤマミサキである。
「でも、別に間に合わなくても構わないわ……結界が解けるまでの間、アタシはアナタ達で遊んでいる事にするから……」
独り言のように呟くヤマミサキだが、それを聞いた二人の表情が一変する。
先程までの芝居がかった表情が消え、狩りに臨む獣の獰猛な表情へと変化する。
だがその獰猛さは、追い詰められた怯えにも見て取れた。
「そう……良い子達ね……ちゃんと、次で終わらせましょう……」
それを合図に、三人の鎌鼬は同時に美智恵に襲い掛かった。
銀の少女は無心で駆けていた。
微かに周囲に漂う、忘れようも無いこの残り香。
今朝、港で嗅ぎ取った時は何かの間違いであろうと、自分の勘違いであろうと思った。
だが、こうして追跡をするようになって確信した。
この先にいるのは、父の仇であるあの男なのだと。
何故、消滅した筈のあの男がまた現れたのか。
あの男の目的はわからないが、舞い戻ってきた理由は想像がつく。
自分を倒した美神への復讐。
自分を裏切り人間に味方した人狼一族への復讐。
この二つのどちらかだろう。
そして、この匂いの続く先は――――自分の故郷でもある人狼の里。
優しい長老、気の良い仲間、もしも彼らに何かあれば。
そんな事を考えるだけで、激しい怒りに塗り潰されそうになる。
駄目だ。身体は熱くなっても、心は平静でなければ駄目だ。
美神除霊事務所の一員として除霊という実戦を積み重ねてきた今なら良くわかる。
怒りや焦りといった感情は、己の動きを硬くし、鈍らせる要因にしかならない。
全ての力を引き出すには澄み切った精神が必須となる。
だから今は、全ての感情を胸の奥底に沈め、唯ひたすらあの男を追う事だけを考えるのだ。
血に飢えた三体の鎌鼬が美智恵に迫っていた。
左前方からアクゼン、そして右前方からダイバとヤマミサキの二人が地を滑るように襲い掛かる。
――――正面が空いているのは罠……!
三体の動きから、瞬時に美智恵は彼らがわざと逃げ場を作っている事を見抜いた。
彼らの連携は、極々僅かだが、微妙なタイムラグがあった。
美智恵ががら空きの前方に移動することで、そのタイミングのズレが相殺されるように計算された連携なのだろう。
このままこの場を動かなければ、先程と同じように個別に捌く事ができる筈だ。
だが美智恵は――――
「……予想通りにかかってくれましたね。」
アクゼンが、美智恵が前方――自分と残り二人の間――に飛び出したのを見て安堵の声を漏らせた。
まるで最初から曲がるつもりだったかのように、アクゼン達は直角に進行方向を変化させる。
それは重力や慣性の法則をまったく無視した動き。人や獣には不可能な動き。
先程までの直線的な動きから一変し、三体は渦を巻くような動きで美智恵に迫る。
右後方からダイバが、左後方からヤマミサキ、そして正面にはアクゼン。
先程の微妙なズレがあった連携と違い、三体はそれぞれの霊波刀を伸ばし、寸分の狂いも無く同時に美智恵に襲い掛かった。
――――そう……迎え撃つなら、同じタイミングである事がベスト……!
全身方位を三体の鎌鼬に囲まれながら、美智恵の精神は冷たく研ぎ澄まされていた。
彼女は強大な霊力とそれを扱う冷静な判断力の他に、もう一つ異能を備えていた。
その時、アクゼン達は、美智恵の左腕に巻きつけられた数珠状の精霊石が一瞬光を放ったのを確認した。
だが、視認できたのはそこまでだった。
次の瞬間、三体の鎌鼬は鮮血を吹き上げながら地面を転がっていた。
高速の世界に住む彼らが、美智恵の動きを目で追う事すら出来なかった。
己の血にまみれながら、呪詛にも似たうめき声を上げる。
「アア……アアアアアアアーーーー!!」
「……嘘だ、僕が……痛い、痛いぃいぃぃ!!」
「腕……腕……腕……腕……アタシの、腕……ッ!!」
腹部を貫かれ、そのまま横に裂かれたアクゼン。
肩口から袈裟懸けに胸の辺りまで切り裂かれたダイバ。
右腕を肩の付け根から斬り落とされたヤマミサキ。
三体とも、これほどのダメージを受けるのは初めての経験だった。
対する美智恵も、神通棍を杖代わりにして身体を支えている。
吐息は荒く、その全身には極度の疲労からくる玉のような汗が浮かんでいた。
数珠状にして左腕に巻きつけていた精霊石全てに、細かい亀裂が走っている。
――――後一回、もってくれれば御の字ね……
膨大な霊力を内包する精霊石をここまで酷使するなど通常の術法ではない。
8個もの最高級精霊石を、一度に並列励起させる事で発生させた、瞬間出力数千マイトもの莫大な霊力を己の内部に取り込む。
普通の人間がそんな事をすれば、負荷に耐えられずチャクラが壊滅的な被害を受けるのだが、美智恵には膨大な霊力を肉体に留めず、その全てを使い切る手段があった。
それが美神美智恵と美神令子の親娘に備わった異能。時間跳躍。
それは本来、落雷による膨大なエネルギーを霊力に変換し、それを利用して時間跳躍を行う能力。
しかし、先程美智恵が使用したのは、それを応用する事でより実戦向けにカスタマイズした術法だった。
時間に干渉する霊力を、『跳躍』ではなく『停滞』に利用する。
周囲の時間の流れを遅くする中で、自分だけがその影響を受けずに行動する事ができる。
つまり、一部の神族や魔族が使う『超加速』を擬似的に再現したものだ。
時間に干渉する素質こそ先天的なものだが、だからといって、時間への干渉は人間に可能な業から逸脱している。
一個あたり数億円はしようかという上質の精霊石を惜しげもなく使用し、それでもなお実際に流れる時間の一秒程度しか時間を停滞させる事ができない。
美智恵としては先程の同時攻撃はむしろ望むところだった。もし時間差攻撃で来られれば、術が解けた時に疲労で動けない所を襲われていた筈だから。
『超加速』は人間の限界を超えた術であるため、出費やリスクが馬鹿にならない。
だがそれらを踏まえた上で、それでも尚、美智恵はこの選択肢を選んだ。
美智恵にそこまでさせるほどに、彼らはあまりに多くの人間を殺していた。やり過ぎたのだ。
「有り得ないィぃ……人間が、我らの知覚を超えた動きをするなど……ぉ……」
ゴボゴボと口から血泡を吐きながらアクゼンがよろめきながらも体を起こす。
何をされたのかわからないが、自分達が相手の持つ武器に斬り裂かれた事は理解していた。
霊的な急所を外れていたおかげで即死は免れたが、重傷には変わりない。
だが、出血による疲労や、初めて体験する全身を駆け巡る痛み以上に、彼は激しい怒りを覚えていた。
斬り裂く側の筈の自分が、逆に相手に斬り裂かれたのだ。しかも相手の動きを目で追う事すら出来ずに。
他の二人も同様に、怒りに身を震わせながら、傷ついた身体を無理やりに起き上がらせている。
「この、アタシが……人間に斬り落とされた……ッ」
斬り落とされた右腕を拾い上げるヤマミサキの足元に、小さな壷のようなものが現れる。
壷の蓋を外すと、そこには粘度の高い透明な液体が湛えられていた。
切断された右腕の断面部に液体を塗りこみ、それを元に戻すように自分の右肩の切断面に押し付けた。
――――鎌鼬の霊薬、か。しかもかなり上等ね。
美智恵は舌打ちするが、霊力に焼かれた傷口はそう簡単に癒えるものではない。
かろうじてくっついた様に見えるが、その傷が完全に癒えるには長い時間が必要になるだろう。
ヤマミサキは他の二人にも薬液を塗りつけるが、あくまで応急処置にしかならない。
深手を負った彼らに、先程までのような鋭い動きは取れない。
だが、それを理解しながらも、美智恵への怒りが彼らを死地に走らせる。
既に呼吸を整え、神通棍を構えなおした美智恵にとって、動きを鈍らせた彼らを各個撃破する事などたやすい。
後一度までなら『超加速』も使用可能なのだ。
「あ……」
小さく声をあげ、ダイバが立ち止まった。
怒りに任せ、美智恵に飛び掛ろうとしていたアクゼンとヤマミサキも、怪訝な表情でダイバに目をやる。
ダイバは胸元を己の出血で真紅に染め上げ、夜空を見上げるように佇んでいる。
すうっと大きく息を吸い込むと、皮膚が破れた頬から覗く獣の口元が三日月状につり上がった
双眸を細め、口元を歪ませるその姿は無邪気な喜びに満ちていた。
その視線は相対する美智恵を越え、首都の方向へと向けられている。
「ああ、なるほど……ダイバカゼは良い子だね……後で御褒美をあげるわ……」
「……相変わらず、良い鼻をしている。うっかり見過ごす所でした。」
ダイバの姿から二人も何かに気付いたのか。
既に彼らの視界に美智恵は映っていない。
傷口から血液を噴出しながら三人は美智恵に襲い掛かる。
だが、彼らは構える美智恵を無視し、その脇をすり抜けた。
美智恵を抜くや否や、最初に現れたときのように加速状態に移行する。
傷が開くのも構わず、彼らは猛然と走り去って行った。
「……ちっ。私で全部始末できれば良かったんだけど。
まあ、良いわ。当初の予定通りに事は進んでいるのだから。」
視界から彼らが消えたのを確認し、美智恵は先程別れた厚沢二尉に連絡を入れる。
彼らが手強い獲物一人を狙うより、大勢の獲物を狙う可能性は、美智恵とて最初から考慮に入れていたのだ。
「あー、もう! あの馬鹿ってば何処まで行ってんのよ!」
夜の山に少女の苛立った声が響き渡る。
月の光を浴びて輝く金色の髪は、その美しさで見る者の目を釘付けにするだろう。
もっとも、今彼女の周囲に人の姿は皆無だが。
相棒のシロを探しに出たのは良いが、まさか都会からこんな山の中まで足を伸ばす事になるとは思っていなかった。
事務所を出てすぐにシロの残り香を発見し、そこから先行するシロを追ってひたすら歩き続けていたのだ。
正直そろそろ面倒になっていたのだが、横島にあれだけ啖呵を切った手前、手ぶらで帰る訳にもいかない。
「それにしても、この道って確か……」
周囲にぐるりと目をやり、見覚えのある景色にタマモが眉をひそめる。
以前、一度だけシロについて人狼の里に行った事があるのだが、その時にこの辺りを通った覚えがあった。
「これだけ心配かけておいて、ただの里帰りだったりした日には……」
ぐーで殴ってやる。
そう決意を固め、再び山道を登り始めるタマモだった。
「厚沢二尉、目標確認しました!」
「よし。撃ち方、始め!!」
高速道路の分岐点で自衛隊の部隊が陣を構えていた。
関東方面と東北方面、二又に分かれる場所、その片方を塞ぐように部隊が展開されている。
精霊石ライフルの射程に入ったのを確認すると共に、厚沢の号令が飛んだ。
その令に従い、一斉射撃が開始された。
――――我々の任務は奴らをもう一方の分岐点に追い込む事。
美智恵との戦いで深く傷ついた鎌鼬。
超高速で飛来するライフル弾が更に彼らの肉体を削り取っていく。
刃で弾こうにも、傷つき消耗した身体ではその全てを防ぐ事など出来ない。
全身から激しく血液を撒き散らしながらも、彼らは足を止めない。
それどころか、美智恵にやられた傷が開くのも構わず、更に速度を上げていく。
――――今の消耗した奴らなら、結界陣で確実に動きを封じる事ができる。
そう。ここに陣を張る自分達はあくまで囮。
ライフルによる狙撃で倒せるなら、それはそれで構わない。
だが本命はもう片方の分岐点に美智恵が仕掛けた結界陣。
鎌鼬のコンディションが万全なら、加速をつけた一撃で結界を突破される恐れがあった。
しかし今なら、美智恵が与えた深手に加え、自分達の射撃によって相手は著しく消耗している。
結界に追い込めば、それで片をつけられるだろう。
しかし――――
「あ、厚沢二尉ッ!」
「馬鹿な! 奴等、突っ込んでくるだと!?」
隊員の一人が叫ぶと同時に、厚沢も異変に気がついていた。
鎌鼬は結界陣が敷かれたガラ空きの分岐点の方へ向かわず、一直線に自分達の方へ向かっているのだ。
追い立てられている獲物が、逆に猟師にまっすぐ向かってくるような事がありえるのか?
「撃てッ! 奴等を近づけさせるなッッ!!」
弾幕は更に激しさを増し鎌鼬を撃ち抜いていく。
だが、急所のみを防御する彼らの足を止める事はできない。
既に人間の皮膚はほとんど残っておらず、剥がれた皮膚の下からは血に塗れた獣の肌が露になっている。
そして闇色に塗り潰された双眸に浮かぶ、真紅の眼光。それを目にした時、厚沢は理解した。
彼らは手負いの
獣などではない。血に飢えた
化物なのだと。
「ねー、何か通行規制かかってるみたいだけど、本当に良いの?」
「おいおい、ここまで来たのに諦めんのかぁ?
せっかく花見やるんだから、やっぱ思いっきり騒げるとこの方が良いじゃんよ。」
「そーそー、だいたい通行規制の区間見たか?
この辺の山全部を立ち入り禁止にしてんだぜ。そんな馬鹿みたいな話があるかっての。」
若者が十数人、缶ビールや食べ物を入れたビニール袋を手に歩いている。
どうやら地元の大学生が花見のために、こっそり禁止区域に立ち入っているようだ。
主だった道路は自衛隊の手で通行止めにしているのだが、そこはやはり地元の人間。
抜け道の一つや二つは知り尽くしているのだろう。
確かに街灯一つ無い山の中でなら、どれだけ騒いでも周囲に迷惑をかけることは無い。
実際、周囲に民家は見えず、ひらけた空間に咲き誇る夜桜は、絶好の花見場所といえた。
青いビニールシートを敷き、花見の準備を整えると、リーダーらしき若者が元気良く乾杯の音頭を取るのだった。
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