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箒の空




むかし、むかしのおはなしです。







今という日から、ずっと離れた時のこと。

今という場から、ずっと離れた国のこと。

森の奥深まった所に、小さな小さな小屋にも見える家一つ。

ひっそりと住んでいるのは老婆と少女の二人組。



老婆は巷間で魔女と呼ばれる存在で、少女はその孫でありました。

現役魔女と魔女見習の二人は、見た目はいかにも魔女っぽく

毎夜毎夜サバトの宴に興じていたり

生贄として年端もいかない赤子を攫ってみたり

そうして近隣の村を恐怖のどん底に沈めていたり

――――――などということは、噂としてさえ全く無く

キノコを取ったり、山菜を摘んだり、時々野兎を狩ったり

あるいは、薬を売るなどして生計を立てながら

のんびりとまったりと、日々を過ごしておりました。

今日も今日とて薬をさばきに、老婆は箒片手に空を舞います。

ええ、箒一つ在れば空だって飛んじゃいます。魔女ですから。





老婆が外出している間、少女は箒で庭掃除。

まだまだ子供の彼女が任せられてたお仕事一つ。

ふと手を止めて少女が仰いだその先は、雲一つも無い青い空。

森の中でぽっかりと開いたその場所からは、高い高い空が見えておりました。

そんな空に立ち向かうように、あるいは太陽に挑むように

眼光も鋭く少女は、箒を鋭く突き上げました。

それで何かが起こったのなら格好もつくのでしょうが

空は悠然と変わらず、降り注ぐ陽射もただただ暖かく

躍起になってぶんぶんと箒を振り回す少女だけが、先程の光景とは異なる要素でした。

その姿はよく言えば微笑ましく、悪く言えば単なるお馬鹿で。

程なくして帰ってきた老婆は、少女の奇矯な振る舞いを心配することもなく

代わりに呆れた様な表情を浮かべました。







届かない空へと手を伸ばすのは、少女の日課ともいえる行動でした。

何時までも自分を飛ばせてはくれない、空に対する抗議でした。

そんな少女の不満を、老婆は笑い飛ばします

一から飛ぶために作った箒じゃなければ、空を飛べないと言うのです。

そんな忠告に、少女は耳を貸しません。不満を隠そうともしていません。

だって彼女が手にしている箒は、小さな頃から使い続けている愛用の箒なのですから。






青い青い空は何時でも高くて、視線さえも果てには届かなくて

いくら少女が使うにはまだまだ長く在ろうとも

大きさに限りある箒などでは、空の端さえも辿り着ける筈も無く

けれど少女は毎日のように、上空を見上げては箒を高くへと掲げます。






そんな毎日が続いて、次第に時は流れました。

止まる事も無く、緩まる事も無く

ただただ静かに、変わらぬ動きで今を未来へと。







――――――――――――――――――――――





今日もひっそりと、その小屋じみた家は森の奥に控えておりました。

家に住んでいるのは、箒で庭を掃いている老婆が一人だけ。他には誰もおりません。

手を止めた老婆は、目を細めて空を見上げました。

背を伸ばして立つだけでも困難になった近頃でしたが

さすがに、空さえも仰げないほどに老いてはいません。

瞳に映り込むのは、眩く光る群青の空と散りばめられた千切れ雲。

老婆は箒を持ち上げるようなことはしませんでした。

手にしている箒は、昔からずっとずっと使っている愛用の箒。

幾ら年月を経たとはいえ、老婆も空を仰げないほど耄碌してはおりません。

でも、子供の時にようにその箒を高く、高くに掲げ上げるには

少しだけ、ほんの少しだけ、彼女は年を取り過ぎておりました。





結局、掃除に使っていた箒では空を飛ぶことはできませんでした。

けれども庭の掃除だけは、ずっとずっと同じ箒だけを使い続けておりました。

空を飛ぶ時にでも、祖母から継いだ以外に自分専用の箒を作ろうとはしませんでした。

そして今。かつて少女で在った彼女は、かつて老婆と共に暮らしていた少女は

最後まで空を飛ばせられなかった箒を、もう肩の高さまでも持ち上げられなくなった箒を

胸に抱えるようにしながら、抱き締めるようにしながら

遠く視線を飛ばし、飽くこと無く空を見詰めていました。

其処にはないものを、見えないものを見ようとするかのように。

あるいは、空が其処に在る事を忘れないかのように。




どれほどの間、そうしていたでしょうか。

首を元に戻した老婆は、庭の掃除を再開しました。

葉っぱを掃き集める、規則正しく静かな音が森の中に響きます。

空は変わらずに青を称え、ただ浮かぶ雲ばかりがその様子を変えておりました。





鏡のように澄み渡る、晴れの空が在りました。

鉛の鈍重さを思わせる、曇りの空が在りました。

涙を零しているかのような、雨天の空が在りました。

風と共に姿を変える空に、同じ姿はありません。

でも、そうして見せる表情を多彩に変えていようとも

何時だって、空は其処に在りました。





そして、時はまた流れます。

留まることはなく、早まる事も無く。

何処か冷たさを以って、弛まず今を過去へと。





――――――――――――――――――




年月が流れても、小さな小さな家は昔と同じ場所にありました。

けれども、全てが不変とはいきません。

老婆はおりませんでした。少女はおりませんでした。

その家には、もう誰も住んではいません。

誰かが住んでいたのだろう跡だけが残っています。

その中で、取り残されたように壁へと立て掛けられた二本の箒。



そのうちの一本が、小さな音を立てて倒れました。

強く吹く風も、地の震えも無い中で。

時刻は深夜。無人の住居が保つ寂しさも一際に際立つ時間帯です。

箒に触れる者はおりません。立て掛けなおしてくれる手はありません。

ただ刻々と時間だけが過ぎてゆきます。

満天に散りばめられた無数の星々も

冴え冴えとした光を降らせる満月も

微々たる動きで見せ方を変えてゆきます。

そして、そんな空の姿を、箒は覚えておりました。




箒に眼は在りません。

箒に耳は在りません。

箒に肌は在りません。

それでも箒は、少女に掲げられた空を覚えておりました。





朝靄に霞む空を掻き回しました。

昼時の空に漂う雲を切ろうとしました。

静かな夜空に浮かぶ月目掛けて突き挙げました。



過去、空に立ち向かう少女は不満そうでありながら

同時に、同じくらい楽しそうでもありました。

夜空と相対した時など、最後には大の字になって寝転んで

箒を胸に抱えてから、視界いっぱいの空を見詰めていると

まるで、星の海を下にして空を飛んででもいるかのようで。

なんだかおかしくなった少女は、優しくない空に向けて笑顔を返しておりました。

箒は箒でしたから、一緒に笑うことはできませんでした。

でも、笑いたいと願うことはできました。





空を飛びたいと、願うことができました。






それからずっとずっと時は流れて

老婆も、少女も、家からは去って久しく

少女の望みは叶わずに砕けたままで

ひたむきな願いだけが跡には残り。



そして今。



誰の手を借りることも無く、宙に浮いている一本の箒。

誰が目にすることも無かった、ちっぽけな願いの欠片。

驚くであろう老婆はおりません。喜んでくれる少女はおりません。

それでも箒は、確かに空を飛んでおりました。

誰かを乗せるように、大地に対して並行に。

柄を突き出すように前にして、ゆっくりとゆっくりと。



一度だけ、家を振り返るような仕草を箒は見せました。

家の壁に立て掛けられているのは、何度も使われた一本の空飛ぶ箒。

けれど今は空を飛ぶどころか、動く様子さえも在りません。

そんな姿を振り切るようにして、箒は再び空へと向かい合います。







こうして、飛べない筈の箒は高く高くへと飛び立ちました。

何処へ向かうでもなく、目的とする何かが在るでもなく

ただ朝日が昇ろうとしている空へと向けて。




――――――――――――






むかし、むかしのおはなしです。



かつて、その地には魔女と呼ばれる者達がおりました。

けれど、変わり続ける時代の中でその血は途絶え

自由に空を飛んでいた魔女の姿を、直接知る者も少なくなって。

そんな移ろい行く日々の中、流れる噂がありました。

魔女を乗せもせずに空を飛ぶ、一本の箒の噂。



その信憑性を高めたのは、森の奥深くで見つけられた箒の存在でした。

風より早く青空を駆けたという逸話から、『青き稲妻』と名付けられたその箒。

きっと二本の箒は、対を成す形で作られたのだろうと誰もが噂をし合いました。

折りしも空飛ぶ箒が見かけられた時刻は、夜を目前に控えた黄昏時。

暮れなずむ空へと浮かぶ、魔女不在の、箒だけのシルエットは

何処か寂しくもあり、何処か滑稽でもあり。





現実離れしたその光景に、何時しか人々は名前を付けました。

炎に包まれたような、真っ赤な空を飛ぶ箒に

狐に摘まれたような、偽りじみた幻想の風景に



そう―――――――『炎の狐』と。










むかし、むかしのおはなしです


飛べない箒はただの箒だ(挨拶

そんな感じでお久しぶりです。豪です。
時期的にはクリスマスとか年末年始のお話でも投稿できれば良いのですが
これが、まったくネタが浮かびません。困ったものです<他人事か

そんなわけで(どんな訳かは気にしない方向で
箒のお話です。大地の代わりに大空を掃く箒のお話です。
空を自由に飛びたいな。恐らく、誰もが一度位は思い浮かべるであろうフレーズ。
大人になるにつれて薄れて行くそれを、ずっとずっと忘れなかった箒のお話でした。

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