10767

Still Love Her 〜失われた風景〜


    【―――美神除霊事務所の皆さん、ご無沙汰してます。
     美神さんは変化ないと思いますが、おキヌちゃんにシロ、タマモは元気でしょうか。
     こっちは相変わらずです。盆地だけに夏場の暑さは洒落になりません。
     大阪が近い事もあって、空気の匂いは懐かしいですが、妖怪や霊障の類は東京よりもジメジメしている気がします―――】




 何度も読み返したはずの手紙を、また冒頭から追って見た。
 待つ間の手持ち無沙汰だったのもあるが、寒さしのぎにポケットへと入れた手が封筒に触れたことがきっかけだった。
 京都産だという和紙は滑らかで、少し皺ばんでいるものの赤子の産毛のように心地良い。
 文面の一文字一文字が酔漢の足取りさながらなのは、使い慣れない万年筆のせいだろう。
 困惑していたであろう書き手の表情が不意に脳裏に浮かび、タマモはくすくすと忍び笑いを漏らした。

 足元の枯れた紅葉をゆるゆると掻き回した風は、数メートル先を通り過ぎるバスが巻き起こしたものらしかった。
 少しだけの肌寒さが、開いた襟元と胸元から覗く素肌を掠めていく。
 サテンのように黒く濡れたチョーカーをなぞり、両サイドをレースであしらったその隙間を潜り抜ける。
 タマモは一瞬だけ身を震わせると、肩をそびやかすようにしてコートを羽織り直した。

 下ろしたばかりのアイボリーのハーフコートは、ベルトを締めずとも、程好い温もりを孕み上半身を包んでいた。
 見かけだけなら女子高生程度といったところか。少し切れ上がった目元と薄化粧を加えれば、年齢はより判然としなくなる。
 深めにカットしたコットンのシャツとタイトスカートは、自分専用のクローゼットの奥から引っ張り出してきた。
 黒いニーソックスの足元には、美神令子にチョイスしてもらったウッド・ブラウンのブーツ。
 大人っぽさを意識したコーディネイトは、振り向く男たちの視線の数で証明されていた。

 秋も深まったとはいえ、今日は珍しくも暖かな気候に恵まれている。
 バス・ロータリーを正面に、公園もすでに並木から植え込みの花々、枯葉に至るまで秋模様のピークを迎えていた。
 据えられた手すりに軽く腰掛けてじっとしている分、世界の進む様が見える気がする。
 枝を離れた紅葉の流れ落ちる様は、人の存在を排してただ幻想的であった。

 日は既に西へと大きく傾いている。
 手紙を丁寧に畳み、コートの内ポケットに仕舞いこむと、タマモは周囲を見回した。

 寒さには少しだけ耐え抜く自信がある。
 とはいえ、長々と待ちぼうけを食わされるのは、さすがにしゃくである。
 募る苛立ちが、形良く整えられた両眉をすぼませようとしたその時、転じて喜色混じりの驚きに跳ね上がったのは刹那であった。


 「横島っ」


 突然の呼びかけに、和装姿の青年は目を見開いた。


 「あれ、タマモ?」


 手にした革張りのトランクの重さも忘れたように、横島忠夫は呆けた風情で佇んでいた。










                            《 Still Love Her 〜失われた風景〜 》










    【―――先日、先生と共に、いきなりイギリスに行く羽目になりました。
     3泊4日という旅程でしたが、『簡単な研修みたいなものです』という先生の言葉に騙された気が今もしています。
     中世の、やたらに強い騎士が2人ほど吸血鬼となって甦ったそうで、とりあえずなんとかどつき倒して、成仏させてきました。
     へとへとになった身体に、ウィンザー城で貰ったフィッシュ&チップスはかなり美味かったです。―――】





 平日の夕刻であったが、駅近くに店を構える英国喫茶『コッツウォルズ』の玄関を潜った2人は、すぐに窓際の空席を見出せていた。
 ダークブラウンに塗られたオーク材のテーブルを挟み、革張りの座椅子がライトを反射して艶めいている。
 タマモに奥の座椅子を薦めると、横島はその反対側にさっさと腰を落ち着けた。
 やって来たウェイトレスに、タマモはココアとブレンド・コーヒーを注文した。

 自然な笑顔で一礼を向ける彼女の品の良い態度に煩悩をくすぐられたものか、後姿を見送る横島の笑みはだらしがない。
 タマモが投げかけてくる針を含んだ視線にすぐ気付くと、さり気なさを装いながらお絞りで汗を拭う。
 すぐナンパ的行動に出るか、あるいは飛び掛らなくなっただけでも、進化と評価して良いのかもしれぬ。
 類人猿が二足歩行を学んだのと同レベルかも、とはさすがにタマモも口にはしなかったが。

 彼と再会するのは、およそ半年振りだろうか。
 眼差しや佇まいにいまだあどけない少年らしさを残しつつも、和装というコーディネイトが単なる少年と断ずるにはそれを阻む雰囲気を醸し出していた。
 カーキ色のマフラーを丁寧に折畳みながら、横島はタマモへと口を開いた。


 「よく分かったなぁ」

 「美智恵さんに聞いてきたから」


 帰りの新幹線の時間と、自分が向かうであろう駅の入り口の双方を指して、横島は問うていた。
 Gメンへの報告書を提出し、美智恵との顔合わせを済ませた横島は、その足で東京駅へとタクシーの進路を向けたのだった。
 その後すぐに美智恵からの連絡を受けたタマモは、ウィンドウ・ショッピングを素早く切り上げると、駅へと向かっていた。
 公園で30分以上待っていたんだけど、とは心の内だけに留め置く。乙女の矜持というモノである。


 「タマモが居るって事は、もしかして皆も?」

 「おあいにくさま。美神さんはGメン絡みの仕事。おキヌちゃんとシロは学校よ」

 「なるほどな・・・・・・って、お前も学校のはずだろ?」

 「いっとくけどサボりじゃないわよ。おキヌちゃんは課外講習で、シロは筆記試験があるんで来られないだけ」

 「そうか。皆、頑張ってんだなぁ」


 横島の言葉には返さず、タマモは手にしたカップからココアを一口含んだ。
 時間に余裕があるのが自分だけだというので、事務所内で一波乱あったのは秘密にしておこうと思ったのだった。
 美神はおかんむりであったし、おキヌとシロは指を咥えたまま、恨めしげに見つめてきたものである。


 「横島も忙しそうね。美智恵さんが言ってたけど、あちこち飛び回ってるそうじゃない」

 「あー。今回も数時間しか居ない上京だからな。我ながらこき使われてるよ、まったく」


 変わらないのは青のイメージだけかな、と彼を一瞥しながらタマモは思った。
 厚手の紬は松煙染めの蒼黒で、羽織は柿渋染めの茶色。襟元から除く紺色というコントラストは冬支度を意図したものであろう。
 それにしたって、と何度見ても思わされる横島忠夫の変化振りは、ちょっとしたカルチャーショックであった。
 なにしろ学生時代の面影は、相変わらずどこか抜け気味な表情と、お世辞にも整ったとはいえぬ頭髪に見出せる程度なのである。

 バンダナは外してしまったし、水気のないかさつき気味だった肌も、今は瑞々しい血色を秘めている。
 外見の印象こそ変わらぬものの、厚い生地の下の肢体は、規則正しい生活と栄養を得てさらに引き締まったことだろう。
 未成年だけど社会人ともあろう者が万年着たきり雀で居られるか、との発言を聞いたときには思わず我と我が耳を疑ったものだった。
 初めて和装姿の横島を見た日のことは、今もはっきりと思い出せる。

 己が周囲を思い返せば、美神にしても近年はスーツ姿を見せる事が多くなった。
 それまで万年ボディコンのイメージがあったのだから、時代を考えれば、その流行の流れ行く素早さに唖然とせざるを得ない。
 そもそも年中、季節感を問わず、ミニスカートにも等しい露出過多な薄着をするなど、ファッション概念の欠如以外の何者でもないのだが。


 「和装は良いんだけど・・・・・・あんまり陰陽師かぶれするんじゃないわよ」

 「なに言ってんだ。水干や烏帽子、着込んどるわけじゃあるまいし」


 含んだばかりの水を急いで飲み込むと、横島は微苦笑交じりに返答する。
 タマモの陰陽師に対するイメージは、固定観念というには少々嫌悪の念があらわだった。
 横島の執り成すような口調にタマモは、だが拗ねるような眼差しと口調で返していた。


 「横島のいじわる。知ってるでしょ? 私、苦手だって」

 「なんとなく、だろ? 気にすんな。じきに慣れるだろうさ。きっと」


 グラスを卓上に置くと、横島は袂に手を通し、腕組みをした。
 正面から見つめてくる視線の、どこかくすぐるような柔らかさに、タマモは膨れっ面を見せた。


 「前世は前世、今は今だっての。『宿世の業』なんて今時流行らんし、似合わんって」


 特にお前にゃな、と言い終えて笑ったその口元は、『にぱっ』とオノマトペを背後に貼り付けたくなるような明るさである。
 お気楽そのものの在り様に、タマモは深々と溜息をつく。
 額を押さえたまま、机へと突っ伏したくなった。





    【―――夏の七夕の日には、北海道の五稜郭へと向かわされました。
     『夏休みの宿題程度のものですよ。なに、簡単簡単』という先生の言葉には、今も大いに反論したいところです。

     幽霊を1人、引率していったんですが、その幽霊はなんとかの有名な新撰組の『沖田総司』でした。
     しかも本当は女の子だそうで、かなり可愛かったです。そこらのアイドルよりも遥かにきれいです。
     言っておきますけど手は出してませんよ? なんぼなんでも天然理心流の猛者相手に懸想したら、叩き斬られます。

     話を聞くと、あの『土方歳三』に会いたくて会いたくて、うちの近所の神社の境内で泣いていたそうです。
     そこを先生が見つけて、事情を聞き、俺に案内させようという話になりました。―――ここらへんすごい理不尽だと思いますが。
     彼女も彼女で、とっくに死んでるので、長旅での労咳の発作の心配もなくなったと、えらい喜んでました。

     結果から言えば、飛行機で出発したんで、その日のうちに―――ちゃんと七夕の夜に、総司ちゃんと土方さんは会えました。
     後はあまり話したくありません。バカップルに付き合ってるとろくなことがないのは良く分かってますんで。―――】





 「こないだ、ケイくんに会ったわよ」

 「そっか。元気してたか?」

 「うん。すっごい張り切ってた。『兄ちゃんの式神になるんだー』ってさ」


 人気者じゃない、と添えられた一言に、横島はコーヒーの湯気の向こうで、はにかむような微笑をたゆたわせた。
 パピリオにシロ、ケイといった年少組に共通項を見出すとすれば、それは今、タマモの目の前に居る男への敬慕の念であろう。
 ケイにハーモニカを―――横島はブルースハープだと言っていたが―――教えていた時など、パピリオにシロがやきもちを焼いて、一騒動が起こったこともある。

 この男には案外、小学校の教師という役回りが似合っているのでは、とタマモには思えた。
 和装姿の青年教師。妖怪小学校勤務。生徒達に振り回されながらも、人気の名物教諭。
 押し進めていた想像が途切れたのは、横島の訝しげな声であった。


 「・・・・・・何が可笑しいんだ?」

 「ん、なんでもない」


 ワンテンポ置いたタマモの返答は、笑いの波長と同調していた。
 好意的なものでなければ、横島もむくれていた事だろうが、さすがに大人気ないと思ったのだろうか。
 コーヒーを黙って含むことで、腹の底に流す事にしたらしかった。


 「それはそうと、もう少しまめに帰ってきなさいよ」


 想像の余韻を楽しんでいたタマモは、ようやく笑いを収めると、新たな話題へと繋げた。
 カップの中へと視線を落としていた横島は、彼女の呼びかけにすぐさま反応した。


 「あー、すまん。ここんとこ仕事が妙に増えてなぁ。押し付けられる身の切なさってやつだ」


 口で言うほど、現状への不満を燻らせる表情ではなかった。
 東京を離れて得た経験が彼を強くしたのか。それとも諦観ばかりが増えたのか。
 知っている青年のはずなのに、その在り様を過去形で考えねばならぬ事は、タマモに改めて不可視の隔たりを知らせていた。

 無自覚な日々の流れが積み重なりすぎたような気分も交じったか、ココアの苦味が強めに舌を突いた。
 少しだけ凛々しさが増したといえば怒るだろうか、それとも何気無いような顔をして交わされるだろうか。
 タマモはカップを受け皿に戻すと、今年の年末は戻れるかどうかを横島に問うていた。


 「んー、寒いのは苦手なんだよなぁ」


 両の掌を忙しなく擦り合わせながら、横島は苦笑した。
 店内の暖房は外界の寒さを隔てて、十分に効いていた。
 静かにカップを受け皿へと下ろしたつもりだったが、少しばかり高く響いた音に、タマモは眉を顰めた。


 「居心地、良さそうね」


 擦り合わせていた手を止めると、横島は素直に頷いた。
 嬉しさの色は深く、逆に、昔の落ち着きのなさが色褪せている。
 手にしたカップの、残り少なくなったココアを覗き込むように、だが意識には入れぬままタマモは沈黙していた。





    【―――京都の飯は美味いです。
     もちろん、東京は東京で美味かったし、おキヌちゃんや魔鈴さんの料理だって、思い返すとすごく懐かしくなって、今すぐにでも食べたくなります。

     先生の家に来てから、かれこれ一年ちょっとになりますけど、なんかそんな気が全然しません。
     もうずっと昔から居たような、そんな気分になることは時々あります。
     先生の奥さんにもお世話になりっぱなしですし、娘さんとも仲良くやれてます。

     この前、娘さんの小学校であった運動会に、先生たちと警護がてら行って来ました。
     六道女学院と提携を結んでるとは聞いてましたけど、一番驚いたのは、この学校では競技になぜか妖怪の参加も許可されてるそうです。
     借り物競争のときなんかは、『一反木綿』や『ぬりかべ』が・・・・・・・・・】





 カウンターの奥から聞こえる、沸き立った湯が薬缶の蓋を押し上げる音は、どこか郷愁を誘っていた。
 絶えぬ潮騒が途切れたかと思うと、何かを煮込むような音に続き、煎った香ばしさが店内を漂い始めた。
 香りの選別には疎いが、上物の珈琲である事は横島にも容易に察しがついた。
 BGMのピアノ独奏と共演するように漂う音色の中、2人は沈黙を続けていた。

 ふと気がついたように横島が腕時計を見やると、次の瞬間には表情を少し改めていた。
 出発時刻に向けて、そろそろ足を運んでおいた方が良いかも、と判断したらしかった。
 歩いても十分な時間だが、ぎりぎりで駆け込むような慌ただしさは望ましくない。
 珈琲の香りを意識から外しながら、タマモに声をかけると、横島は卓上の伝票へと手を伸ばした。


 「そろそろ行くわ」


 脇に置いていたマフラーを手にした途端、声は確かな硬さで、横島の耳朶を打っていた。


 「ねぇ、横島」


 立ち上がりかけた横島の動作を止めたのはその口調ではなく、見上げてくる眼差しの、さらに奥の光であった。
 彼女の視線を受け止めた途端、横島は微かに、だが棘らしきものが胸の何処かに刺さるのを感じた。
 それは何故か、怯みにも似ている気がした。


 「アンタ・・・・・・ひょっとして、さ」


 椅子に腰を戻すと、横島は正面からタマモの問いを受け止めた。
 とりあえずは姿勢だけかもしれなかったが、それを受けてか、タマモの両肩は少し下がったように見える。
 彼女の問いは喉に詰まることなく、真っ直ぐに発せられていた。


 「帰って来たく、ないの?」

 「どうして、そうなる?」


 問いを理解した途端、『きょとん』という擬音に相応しく、横島の両目は丁寧に丸められていた。
 思わず問い返す形で言葉を投げてしまったが、タマモはそれには答える様子はない。
 視線を先頭に、全身をじっと向けてくる彼女の雰囲気は、お為ごかしや言い逃れを許さぬようなところが、確かにあった。
 横島も自然、首を傾げながら解答を模索し始めていた。


 「んー、そうだなぁ・・・・・・帰る場所があるのは嬉しいけど、今はまだその時じゃない、ってとこだな」


 頭を掻きながら横島は、だが誤魔化す風ではなく、タマモの眼を見つめ言葉を紡いだ。
 収まりの悪い頭髪が一層くしゃくしゃの様を見せていく。
 タマモが納得しかねているのは、その視線と続ける無言の様子で分かった。
 さらに語を続ける必要性を感じたか、面倒臭げながらも、横島は思考と発言の双方を進めた。


 「ぶっちゃけ、そもそもオレは、GSになりたくてなったわけじゃないんだよな」

 「・・・・・・はぁ!?」


 今度はタマモの両目と口が綺麗に円を示す番だった。
 驚きに広がる表情は、クールを売りにする彼女には珍しく、しかも幼げな可愛らしさである事を、横島は内心可笑しく思った。


 「辞める時は辞める。多分、キッパリとな。そうでなきゃこんな危なっかしい商売なんて、割に合わんやろ」


 GS志望の動機からして不純極まりないものであったから、職務に対して刻苦勉励などという境地には無縁であった。
 ハイリスク・ハイリターンの業種であるから、実力者ともなれば実入りは大いに良かろうが、生命の危険も段違いである。
 高校時代の進路相談で、『美人の嫁さん見つけて、退廃的な生活を送りたい』と堂々と言い放った精神性は、勤労を美徳とする価値観に最初から屁をかましている。
 雇い主の美貌に目が眩み、『ちちしりふともも』を追いかけていれば良かっただけの時代が、妙に懐かしかった。


 「怪異の類は日常茶飯事、恨みに呪いに妬みに惨事。魔界の王とも戦わされた日にゃ、命がいくら在っても足らんわい」


 人生ろくでもない事ばっかりだよなぁ、と不貞腐れたように横島は零した。
 生きていようと死んでいようと、思考回路がまともでない奴らが多すぎるとしか思われなかった。
 高校卒業と同時に、京都に修行に出てからの当初、その意識は強まるばかりであった。

 とある女の子が亡くなった飼い犬の霊を見送るような、必要な通過儀礼ともいえる霊障に携わることもあった。
 その真逆に、高校生の色恋沙汰で刃傷沙汰が起き、猟奇殺人事件にまで発展し、その事件解決と除霊を担ったこともある。
 ストーカーがタコやイカのような魔物を召喚し、女性を襲おうとした事件では、すんでの所で救出・除霊には成功したものの、呪詛返しで加害者が死亡した。
 どいつもこいつも地獄で味噌煮込みになって鬼どもに喰らわれてしまえ、と吐き捨てた事も一度や二度ではない。
 実際、式神や妖怪を使って『かるーいお仕置き』をくれてやった事もあるが、これは内緒である。


 「でも、まぁ・・・・・・」


 静謐な湖面を微風が凪いだように、横島の視線がふと静まった。
 窓越しに映る空の遥か向こうは、山吹色の残滓を留め置いている。
 じきに濃い藍色と深奥の黒色で塗り潰されてしまうだろう。
 それらを横目にしながら、横島は溜まった息をこぼし、また手を擦り合わせた。


 「アレだよ。力のある奴が居るとする。ヒーローでもアイドルでもなんでも良いけど。子供たちはそいつを見て憧れる。憧れるかもしれない。そしたら憧れを受けている方はどうする?」


 タマモは、ただ聞いていた。聞くだけにしていようと思った。
 諧謔の成分が多々含まれているものの、彼の笑みと共に紡がれる言葉は、引き込み、そして引き込まれる優しさを孕んでいた。
 店内を漂う香りは、すでに紅茶のものへと転じていた。
 それは深く、典雅で、甘やかであった。


 「多分、もっと頑張らなきゃ、って思って、影でこっそり努力しなきゃならんし・・・・・・きっとするんじゃないかな。捻くれた奴だろうと単純バカだろうと、そこは変わらん・・・・・・と思う」


 コーヒーは残っていたが、今は水が欲しくなったらしい。
 横島はグラスを取り上げ、2口ほど含むと、更に続けた。
 彼にしては珍しく饒舌だと、タマモは視線を逸らさぬままに思った。


 「『本当の自分はヒーローなんかじゃない』って逃げ出すのは簡単だけどさ。せっかく応援してくれてるんだし、自分もその道を選んでなんとか頑張ってるんだし。辞めるにしたって、その日までメッチャ気張って、そんで惜しまれながら去る方が辞め甲斐があるんじゃないかねぇ。バンドやスポーツ選手だってそうだろ。見栄っつーか自慢っつーか、そんなんばっかじゃなくて・・・・・・まぁ、子供たちが好きになってくれた自分を、いつか好きになれたら・・・・・・なんて思ったりなんかしちゃったりするんじゃねーの?」


 横島は語を置くと、不意に眉を顰め、右手で両方のこめかみを揉み解し始めた。
 柄にもない事を喋りすぎたとでも思ったのだろうか、への字型に曲げた口元は、隠した目元以上に気恥ずかしさを語っている。
 ピアノの旋律は、踏んだペダルとピアニッシモの相乗効果で、消え行くように終焉を告げた。

 時計の秒針は、綺麗に30回を刻んだ。
 既にBGMはギターとピアノによる夜想曲へと切り替わっていたが、互いの会話は途切れたままである。
 揉み続けていた手を離し、目を上げる。絶句とまでは行かぬものの、横島は寸刻呼吸を止めた。
 机を挟んだ対岸からは、タマモが変わらずひたむきな視線を投げかけて来ていた。

 どうもこれまでとは勝手が違うようである。
 横島は脳の半々で、状況打破への模索と神の救いへの懇願を行っていたが、結局数秒で真情を吐露する事に決めた。


 「んー・・・・・・だからさ」


 両手で包み込むようにカップを弄びながら、厄介な荷を押し上げるように言葉を出した。


 「もうちょっと、な。マシな奴になりたいんだ、オレ」


 ウルフ・ボブ・カットとでも言うのだろうか。
 両耳側を長くした髪型の中から、つくしのように生えた2本の触角が、春風に遊ぶように、嬉しげに揺れる。
 一瞬閉じた瞼の裏に、そんなヴィジョンを見た気がした。


 「格好良くなりゃ、女の子にもモテるしな」


 前向きなんだか後ろ向きなんだか、自分でもおかしくなるような理由だが、それで十分だと横島は知っていた。
 今度こそ言い終えたとばかりに横島は腕を組み、タマモを見返した。
 心なしか胸を張り気味なのは、せめてもの矜持の表れであったろうか。
 今度の沈黙もまた、秒針とBGMの共演が一段落するまで続いた。


 「・・・・・・アンタ、ってばさ」

 「ん?」


 小首を傾げながら、ようやく反応を示したタマモに、横島はカップに残ったコーヒーを口元に運びながら返事をした。
 卓上に両肘をつき、顎を支えながら投げかけてくる上目使いの眼差しは、長い睫の奥で海面の月光のようにキラキラと光っている。
 横島にしてみれば、二回のあくびと鼻ほじりの後では、どうしてもおざなりの風味が抜けきれないでいたが。


 「ヒーローになりたいんだ」

 「冗談でもよせやい。んな大役は美神さんに任せるわ。疲れるのはまっぴらごめんじゃ」


 温くなったブレンドを危うく吹き出す寸前、横島はなんとか唇で押しとどめた。
 苦さで二乗作用となったものか、仏頂面は樹齢を重ねた木目のように濃い。
 くすくす笑うタマモは、そんな表情にも構いはしなかった。


 「そんなこと言ってるけど、実は舞妓さん遊びで忙しいから、とかだったりして」

 「バカいえ。あれはとってもお金がかかるの」

 「なんで知ってんのよ!?」

 「つ、付き合いだ、付き合い!」


 遊び癖を追及されて腰砕けになる亭主と、それを糾弾する女房のような有様である。
 空になったカップを下げに来たウェイトレスが耳にし、思わず吹き出してしまっていた。
 横島としても赤面モノであったが、タマモの方も彼以上に頬を染めており、ぷいと顔を背けた。

 そろそろ出るかと伝票を取り、腰を上げれば、自分が払う払わないのやりとりで、同じウェイトレスに笑われる始末である。
 『ありがとうございました。またおいで下さいね』と嬉々として、それでいて優しげな彼女の声音が、両人の赤面を一層濃くした。

 ドアを潜ると、空は既に星の煌きを見せていた。
 人の行き来やバス・タクシーの交通量こそ変わらぬものの、夜風は少々強まり、すっかり冷え込んだ空気は素肌に優しくない。
 大丈夫かなと横島が思考した途端、『くしっ』と吹き出したくしゃみの主は、やはりというかタマモであった。
 自分のマフラーを外すと、横島は呆れ顔のまま、彼女の首元にカーキ色のそれを巻いていった。


 「ったく・・・・・・ファッションだかなんだか知らんけど、風邪引くようなのはあかんぞ」

 「あ、ありがと」


 もう一言くらいは言っておくべきかな、と考えていた横島は、だが面倒臭くなってやめた。
 彼女が見せた寸刻前の驚きは、口元までをマフラーに埋めながら、『ほわほわ』と微笑む表情へと転じている。
 タマモの姿は、横島の毒気を抜くのに十分すぎるモチーフであった。

 横断歩道の手前で、明滅する信号機を見ながら、横島は吐息が白い事に気付いた。
 苦手な人ごみの中で、幾人もの人が上り下りする階段を自分も歩きながら、タマモも吐息が白くなっている事に気付いた。
 恋人同士ではないのだから、腕を取って歩くシチュエーションなど、当然ない。
 自分の足取りの速度など気にした事もないから、見知った者がいつの間にか隣に立っている事など、極自然な事だと思う。

 駅の構内へと進み、エスカレーターと階段を幾本も経て、券売機で入場券を買い、プラットホームに立つ。
 吹き抜けていく秋風の冷たさなど、厚手の着物、もしくはマフラーにコートがあれば気になどならない。
 ベンチに腰を下ろしていたタマモが、横島の眼前につと何かを差し出したのは、缶コーヒーを干してすぐの事だった。


 「ほら」

 「ん?」


 小振りの紙袋は、横島も知っているデパートのロゴを、赤地を背景にフランス語表記で掲げていた。
 横島の片手に納まったそれを、タマモは悪戯っぽい目線で眺めやっている。


 「・・・・・・お土産か、ひょっとして?」

 「ひょっとしなくてもお土産よ。なに言ってんだか」


 すぐに開けようとする横島の頭を、タマモは軽く叩いた。
 ありがとな、という感謝の言葉と、可笑しいほど丁寧に懐へと仕舞いこむ仕草は、タマモにとって、この日一番の記憶になった。


 「んじゃ、お前も元気でな」


 ぶっきらぼうなはずの、お前という一言が妙に、耳に優しく聴こえた。
 高まる耳朶の熱さを振り払うように、顔の中心線に力を込めると、タマモは少しだけ語を強めて言い放った。


 「今度はもっとゆっくりしていくのよ。電話もいきなり入れない。日帰りで、しかも仕事のついでだなんて認めないんだからね」

 「わーったわーった。今度はちゃんとそうする。連絡もなるべく余裕をもって入れます。すまん、堪忍してぇな」


 困ったように眉を傾け、片手を差し上げて拝む横島の姿を見た途端、タマモは不意の既視感を重ねていた。
 深紅のバンダナ。藍色のジーンズ、ジージャン。よれたシャツと草臥れたスニーカー。
 女性への嗜好にへらへらと笑み崩れ、食欲補完と自己の安全確保に恐々とする姿。
 除霊時の泣き叫ぶ様と、思い掛けぬ活躍に一喜一憂する、その表情の数々。

 あの日の横島も、今の横島も変わらぬ。枝葉も根も同じくする一本の木なのだ。
 多分、土に水、陽光に雨風の土地柄があるように、この男は何処に在ろうと、吸える物は吸い取り、生い茂っていけるような木なのだろう。
 時には竹のようにふらふらと揺れ、でも折れることなく伸びていくような―――否、それは少し買い被りすぎであろうか。

 昔と変わらぬ軽薄さを見出したタマモは、口元を綻ばせた。
 漏らした吐息は、先程よりも大分軽かった。





 ――― 博多方面行き・新幹線『かなえ4号』、まもなく発車いたします。ご乗車になる方は・・・・・・





 「いってらっしゃい」


 タマモの声音が響いた。
 雑踏のざわめきをすり抜けたそれは、横島の眼前で、リンドウのように咲いた。


 「ん、いってきます」


 息が突っ掛かったような感覚が、横島の胸腔の奥底で転がった。
 一瞬を置いて返した言葉は、照れくさげな少年のものであった。

 劇場の開幕のような発車ベルが鳴り響き、寸刻を置いて、空気音と共にドアが閉じられた。
 斜めに走る雨滴の跡や埃に汚れた窓の連なりが、重たく転がる音に続いて、緩やかに進みだす。

 タマモがVサインを出せば、横島は親指を立てて返す。
 10を数えぬうちに列車は速度を上げ、轟音と振動を残し、走り去っていった。
 動物の顔にも似た車体の後ろ正面を見送りながら、タマモは遠い警笛を聞いた。





 ――― 『山のあなたの空遠く 幸い住むと人の言う』・・・・・・・・・か。





 次第に緩やかになる風が、九房に分かたれた艶やかな金髪を受け止めながらも、タマモは身動ぎ一つせぬままで居た。
 国語の時間に、妙に心に残った詩が在った。
 何処の国の、どんな詩人が詠んだのか。寂寥ゆえか、募った希望ゆえかは分からぬ。

 数え切れぬ人々の口の端に上ったであろう詩を心の内に吟じながら、彼女は踵を返した。
 再び帰ってくるであろう背中を、もう見送る必要はないと気付いたからである。

 とりあえず染まった頬と緩む口元を、事務所に戻るまでにはきちんと引き締めておこうと、タマモは決意していた。





    【―――いろいろ無理難題を潜り抜けている日々ですが、とりあえず元気でやってます。
     また休暇が貰えたら、東京にも顔を出しますね。

     美神さん、おキヌちゃん、シロ、タマモ。
     元気で。


                                  横島忠夫



     追伸

        今年も京都の夏祭りで、先生の名代として鎮護の任に携わってきました。
        神主さんが撮って下さったので、その時の写真を送ります。時期外れですみません。

        ―――蛍の群れは、今年もすごく綺麗でした。】
















                             おしまい
ご無沙汰しております。お久しぶりのロックハウンドです。
今回、たかすさんのイラストに添える形で、SSを書かせて頂きました。
秋模様のGS世界。どうぞお楽しみ下さい。
そして、たかすさんには心から感謝いたします。ありがとうございました。

http://gtyplus.main.jp/cgi-bin/gazou/imgf/0051-img20071102002155.jpg

[mente]

作品の感想を投稿、閲覧する -> [reply]