針を髪にくぐらせ、麻の目に糸を連ねる。
窓の外には響くセミ時雨。
日が翳りだしたのに合唱はまだ真昼のように。
昔、寺で暮らしていた頃にもこうやってセミの声を聞きながら裁縫をしていた事をキヌは
思い出していた。
彼女がはじめて衣を縫ったのは、もう300年以上昔のことだ。
寺で一緒に暮していた子供達の野良着を何着も拵えて何度も繕った。
擦りきれた端切れを寄せて、育ち盛りの子供達のために少し裾を折り返して……
記憶の中で続くのは数え歌。
和裁を教えてくれた老婆が唄っていた調子外れのリズムは、針の動きに合わせたものだった。
当時とは比べようも無いくらい細く強くなった針と糸は、彼女のリズムを早めていく。
遠い記憶。
今思えば有り得ないほどボロボロの布だったけれど、子供達はいつも喜んでくれていた。
これも、あの子達のように、喜んでもらえるだろうか?
最後の糸を口づけるように噛みきって、紺がすりの襟を持ち上げた。
立ち上がって、和装には少しばかり背が高すぎる彼が着る姿を想像する。
きっと照れたような微笑みとお礼の言葉。
……手をとって抱きしめてくれたり。ロマンチックな言葉に続けて、名前を呼んで。
思い余って言葉を告げたら、口づけで返してくれたり。
「おキヌちゃん、横島クン来たわよ、まだー?」
妄想の領域に到達した思索を遮ったのは、扉の向うから聞こえた美神の声だった。
霧散した思考に頬を火照らせて、
「あ、ごめんなさい、もうちょっといいですか」
と、扉越しに声を張る。
何ヵ所かに差した仮縫いの糸を抜き取れば完成。簡易に折り畳んでから、急いで用意した
自分用の浴衣に袖を通す。
麻布を当てて、帯を一文字に。
ドアの外から、キヌが仕立てた家主用の浴衣を褒める叫びと打撃音が聞こえて、その称賛の
声への軽い嫉妬を込め、髪を纏めて軽く紅を差した。
「おキヌちゃん、なんか今日は大人っぽいな」
キヌがリビングに足を運ぶと、いつもの少年にいつもより上機嫌な家主がコーヒーを
運んでいた。
「そうですか?」
望んだとおりの言葉を受け取れたのが嬉しくて、気恥ずかしくて。
「いつもは子供っぽいですか?」
なんてちょっとむくれてみた。
「あ、いや、そうじゃなくて……浴衣はやっぱ色気があるっつーか」
続く彼のしどろもどろの弁解にキヌが微笑めば、流れるのは柔らかな空気。
「ふうん、あたしを誉めた時と熱の入り方が違うわね」
なんて呟いた美神が一瞬だけ本気の視線だったのに気付いたけれど、深く考える
のは止めておく。
……今に始まったライバル関係ではないのだし。
「今、シロちゃんとタマモちゃんも着替えてるから、横島さんも着替えちゃって下さい」
紺がすりを帯と一緒に手渡すと、横島は本当に驚いたようだった。
「え、だっておキヌちゃん、美神さんやシロとタマモの分まで作ったんだろ?」
キヌが浴衣を仕立ててくれる、というのは彼女達にとって、とても嬉しい出来事であった
らしく、サンポ中や除霊の最中にも何度もはしゃいでいた。
だから、まさか自分の分までなどとは、少しも考えていなかったのだ。
「和裁は楽なんですよ。今はミシンもあるし」
最後に縫った男物の浴衣だけは何となく全て手縫いで済ませてしまったのだけれど、
特に言葉を足すこともなく、微笑んで腕を伸ばす。
「あ、ありがとう」
温泉旅館で何度か着たような浴衣とは違う重い生地。
赤くなっているキヌの指先に刹那、息が詰まった。
(こっこれはっ、なんちゅーか、いいんか?)
着る物は買う物。
それが当たり前として育ってきた彼にとって、それは殊更に特別な贈り物のように思えた。
現代に生きる男子。
家政の授業の経験ぐらいはあるけれど。
着物を縫う手間は想像も出来ない。
「お、お、おおおおおっ、とそれじゃ風呂場借ります」
ひったくるように慌てた調子で浴衣を受け取り、彼はリビングを飛び出していく。
「いかん、いかんぞ、あの場でおキヌちゃんに飛び掛ったらただの犯罪者じゃねーかっ」
という彼の呟きを聞き取れたのはどうしても帯が上手に結べずに助けを呼びに来たタマモ
だけだった。
夏祭り。
キヌが生まれた時代のお盆の祭は、もっとしめやかに行われていた。
篝火を焚いて、先祖の霊を迎える厳かな儀式だったのだ。
身寄りの無かったキヌは世話になっていた住職の手伝いをしていた記憶ばかり浮かぶ。
彼岸から道が開かれる特別な時期。
人々は日々の生活の中で薄れ行く大切な人の記憶をたぐり寄せ、慈しむ。
盆はそんな時期だったのだ。
「せんせー、拙者もタコヤキー」
あーん、と口を開けて彼の腕に寄りかかるシロの姿に眉を寄せるこの感情は、お盆には
相応しくない気がした。
それで気を逸らすために、
「美神さん、あんず飴食べませんか?」
と、最後尾を歩く女性に声をかけたのだけれど。
……先ほどまでの自分と同じ表情がそこにあったりする。
「あ、うん、良いわね」
気が付いて。極上の笑み。
これを彼に向ける素直さがあれば、勝負なんてきっと一瞬で終わってしまうのに。
「お互い大変ですね」
「なにが?」
ちょっとふてくされたみたいに。恥かしがり屋の意地っ張り。
「色々です」
あんず飴やに駆け出す、嫉妬がちのおくびょうさん。
甘くて酸っぱい真っ赤な飴は、シロちゃんとタマモちゃんにはまだあげたくない、なんて
少しだけ意地悪を思ったり、する。
こんな風に他人とお祭に行くなんて、いつ以来だろう。
キヌが手渡してくれたあんず飴を齧って、美神は思う。
高校二年の時かな。
千穂に無理やり引っ張り出された、浅間様の祭。
……先生に弟子入りして、西洋の神学に傾倒していた頃だったから、日本の神社に足を
踏み入れるのがなんとなく後ろめたかったりした。
「お祭りタダちゃんの伝説を見せてやろう」
自信ありげに射的に挑む後姿。
浴衣の袖を無造作にまくって。
コルクをおもちゃの銃に詰め込む姿はむやみに楽しそうで。
「ふっ、銃の扱いで遅れをとるとは思わないでほしいわ」
などと後ろから参加表明をしてしまう。
元々、馬鹿騒ぎが嫌いなたちじゃない。
「がんばってくださいね」
彼女の応援の声はどっちに対してなのか。
落ちそうな香水のビンを狙ったコルクは跳ね返って、横に立つ少年の額にあたっていた。
「あてっ」
……倒れなかったからまだ、彼女が景品をゲットできたわけではないようだ。
お祭りに行きたい、と騒ぎ出したのはいつもはクールな狐娘だった。
「だってお稲荷さんのお祭りなのよ?奉られてるわたしが行かなかったらうそじゃない?」
稲荷神社と九尾の狐の間にどれほどの隔たりがあるかはともかく、妙な説得力に納得して
しまったのを覚えている。
元々祭好きな性格の人狼はともかく、出不精の美神も一緒に行くことになったのは、
キヌが二人に浴衣を縫う約束を交わした時、彼女がポツリと羨ましがったせいだった。
「美神さんの浴衣も仕立てますよ」
そして一緒に行きましょうね、というキヌの言葉に頷いてしまったために。本人いわく
不本意ながら、同行することになったのだ。
(連れて来て良かったかな)
美神が三発目のコルク弾でゲットした香水のビンを嬉しそうに振り回してはしゃぐ狐娘に、
心からそう思う。
……横島が三発目にゲットした狸の縫ぐるみを抱えている人狼が少しだけ元気がなさそう
なのが気にかかるけれど。
「美神さん、わたあめ、わたあめだって」
子供みたいなタマモには、キヌが縫った浴衣の明るい色に似合ってとてもとても微笑ましい。
「ったく、無駄遣いはダメって言ったでしょ」
そう言いながら、シロの分も、と二つ買い求めてしまうのはお祭の空気のせいなのだろう。
「はい、シロの分。どしたの大人しいじゃない?」
美神に告げられて。
少しだけ、動揺しつつ。
「そんなこと無いでござるよ」
と、笑ってみたりする人狼。
それはつい、さっきまで横島にまとわりついていた様子とあまりに裏腹で。
「横島クンがなんかやった?」
などと、明確にしてしまうのは少しだけこわい言葉を美神から引き出してしまう。
「なっ、せんせーのせいではないのでござるっ」
「わかりやすいわね、アンタも」
バンダナ少年は、お祭りタダちゃんの本領を見せるべくキヌと一緒の金魚すくいに夢中に
なっていた。
美神とシロはその姿をちらりと眺めた後。
併せて吐息をしてしまう。
「もうちょっと先かなって思ってた。ゴメンネ」
美神の言葉が優しすぎて。
シロは返すべき言葉を探せない。
「うわはは、俺にすくえぬ金魚はおらんのじゃっ!!」
悪者っぽい叫びを上げつつお椀いっぱいに金魚を積み重ねる彼の後ろ頭をどついて。
四つのビニールに分けて貰った金魚。
出目金入りは、シロの手に回った。
冷たい手水で手を清め、拝殿に手を合わせる。
さほど広い神社では無いから、喧騒を避けるというわけには行かないけれど、本堂の鳥居を
くぐれば出店も無く、かすかな明かりに聞こえてくる虫の声。
「意外だわ。なんか、ここも馬鹿騒ぎしてるかと思った」
水風船のヨーヨーを三個手に下げて。
タマモは閉ざされた本堂の格子戸をじっと見つめる。
……微かに感じる霊的な波動、でもそれはそれ自身が持っていたというよりも、信仰と
いう人の力によって与えられたもののようだった。
「ここはお参りする所ですからね」
拝殿に向かっていたキヌが少し遅れてタマモに応える。
確かに一行以外にも、何人かが鳥居をくぐり、お参りをしている。
……もっとも明らかに静けさを求めて来ている男女もいたけれど。
「出店だけ見て帰っちゃうやからも少なくないけどね」
心当たりがあるのだろう。
美神の言葉に横島が頭を掻いていた。
「不思議ね」
空を見上げて、振り向いて。
タマモの言葉はあまり脈絡が無かったから、込められた思いに気付いたのは同じような
立場のシロだけだった。
「まったくでござるな」
風を受けて並ぶ浴衣の少女たちがその不思議さを気に入っている事だけは保護者たちにも
伝わってきて。
「さ、もう一回り。裏にも出店あるみたいよ」
などと、一番らしくない女性が声をかけてしまう。
裏手から聞こえてくる盆踊りの曲に足を向けて歩き出した中、そっとキヌが伸ばして
みた手は、残念ながら彼には気付いてもらえなかった。
気温のせいもあるのだろう。
髪を上げている二人の女性にどうしても目が行って。
彼は何度もかぶりを振る。
(……今日は皆できてるんだしなー)
煩悩魔人。歩く性欲。スケベの具現化。
彼を表す言葉は幾つもあるけれど、そういう欲望より大事なものぐらいは、ある。
あるのだと知ったのがつい最近だから、あまり自慢にもならないのだけれど。
「せんせー、一緒に輪投げしませんか?」
ついさっきまでまとわりついていた一番弟子が、なぜか気弱に袖を引く。
それは彼が射的で構える美神の尻に執着してしまった時からだ、とわかっていたから、
少しだけ苦笑して。
「おう、勝負な」
などと不自然なほどに笑って彼女の頭に手を置いた。
「負けないもん!」
彼女の瞳が一瞬だけ悲しそうな色を湛えたのは見ないふりをする。
構って欲しいと子ども扱いしないで欲しい。
そんな風に揺れている心に引きずり込まれてしまったら、無くしたくない何かを失って
しまうのがわかっていたから。
(ずるいの、かな)
手始めに投げた輪は、プラチナプロンドの外国女性のヌードが描かれたライターを捕らえ。
どっぷりんとした乳に視線を奪われつつ。
かつて、そんな姿になったシロを思い出したりしたのは、人には言えない。
「楽しかったですね」
祭のあと、一番元気だったのはキヌだった。
疲れきったタマモは仔狐になって美神の頭上。
同じくくったりと半ば寝ているシロは、横島の背。
「ったくな、ガキだなーこいつらも」
自分の言葉で暗示をかけつつ、彼は背中の少女を背負いなおした。
柔らかいものが背中にあたって。
伝わる体温以上に汗を流しつつ。
「また来ましょうね」
祭りの土産にキヌが唯一買っていた扇子を広げ、横島を扇ぎながら告げた言葉。
彼女がわざと外した言葉を拾って、
「またみんなで来ような」
なんて応えたりする横島。他意があるのか無いのか。
どちらにせよキヌは笑みを返すしか出来ないのだけれど。
……あと、どれぐらい『みんな』で一緒に過ごせるのだろう。
来年?再来年?
裾を上げて作ってもらった浴衣を作り直す頃。
きっと『みんな』じゃなくなる日が来るのだな。
そんな風に感じながら、タマモはまどろみの中に落ちていく。
その日がまだ遠いといい、と望みながら。
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