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【夏企画】女と女とイドの中

近くの神社の森で、みんみんぜみがうたかたの声で鳴いている。

美神は報告書の最後の欄にサインを入れ、使い慣れたボールペンをからり、と放り出す。
まだ窓を開ける気にはならないが、少し風も出てきたようで、窓の木々が葉を揺らしているのが見える。
差し込みかけた西日が手元を照らすのを機に、美神は事務仕事の手を止め、皮張りの椅子に背を預けて大きく肩を伸ばす。

「もう依頼も来なさそうね。今日はここまでにしましょうか」

そう言いながら、美神はとんとん、と書き終えた書類の束を整える。
ちらりと机の脇の時計に目を向ければ、銀行はもうやっていないが一般の会社はまだ終わりでない、微妙に中途半端な時間。
とはいえ、企業からの依頼ならばこの時間に来るはずもないし、一般の顧客ではどんなに急いでも、せいぜい事情を聞くので精一杯だろう。
それくらいならば自分一人でも充分だし、特に用もないのに三人も四人もオフィスにいる必要もない。

「あ、もう終わりっスか?」

ずっと待機していた横島は、読んでいた雑誌をぱたりと閉じ、立ち上がってマガジンラックに戻す。
何の未練もなく片付けられたとこをみると、さほど熱心に読んでいたわけでもなさそうだった。

「しっかし、ここんとこヒマですよねぇ」

「お盆明けなんていつもこんなもんよ。だいたい、夜もこう毎日暑いんじゃ、悪霊たちも出る気なくしちゃうんじゃない?」

「それもそうっスね」

自分の部屋の寝苦しさを思い出し、横島は苦笑いを浮かべる。
あんな部屋じゃ、暑くて睦み合うことも出来やしない。
隣にも向かいにも人がいる環境じゃ、さすがに開けっぱなしというわけにもいかないし、さりとてそう頻繁に外泊する余裕もない。
どうやら、まだしばらくはフラストレーションの溜まる日々を強いられそうだった。

「何かあったら呼び出すかもしれないから、一応そのつもりでいて」

「了解っス。明日は?」

「今のところ予定は入っていないけど、とりあえずいつも通りに来てくれればいいわ」

たぶん何もないと思うけどね、と言いながら美神は肩をすくめる。
さすがの彼女も、いささか暇を持て余している様子だった。

「わっかりました。んじゃ、お先に失礼しますね」

そう言って歩を玄関ではなくキッチンに向けたときに、出てきた人と鉢合わせする。

「あ、横島さん、上がりですか?」

トレイに乗せたアイスコーヒーを美神の机に置きながら、おキヌは少し残念そうに聞いた。
せっかく横島の分まで淹れたのに、無駄にしてしまうのはもったいない。

「うん、今日はもう何もなさそうなんでね。先に上がらせてもらうよ」

軽くそう言いながら、横島はひょいとアイスコーヒーを取り上げ、ずずずっ、と一息に飲み干した。
そうこうしているうちに、トントンと階段を降りてくる足音がする。

「先生、お帰りでござるか? お疲れ様さまでござる!」

「・・・おキヌちゃん、私にも何かジュースちょうだい」

屋根裏部屋から降りてきたシロとタマモが顔を見せる。
相変わらずシロは元気一杯だが、タマモは暑気あたりのようで覇気がない。
何も熱気の溜まりそうなところにわざわざいなくても、と美神などは思うのだが、何をしていたのか、一日中部屋に篭りっぱなしだったのだ。

「じゃあ俺、上がります。お疲れさまでした」

「お疲れさま」

「お疲れさまでした、横島さん」

「明日また迎えにいくでござるよー!」

「んーーー」

「そう毎朝毎朝来なくていいっちゅーの!」

早朝の襲撃予告に横島はつい文句をたらす。
いくら夏休みとはいえ、早朝マラソンに加えてラジオ体操まで毎日参加させられてはたまったものではない。
とはいえ、昨今ではそれをめぐって殺人事件などが起きる御時世でもあるから、あながち馬鹿にしたものでもない。

『お疲れさまでした、横島さん』

「おう、人工幽霊一号、また明日な」

開いたドアから迫る熱気に「あちぃー!」と叫ぶ横島の声がしたが、やがてパタンと閉まる音がすると、途端に事務所の中が少し静かになったような気がした。





グラスの中で、残っていた氷が、からん、と音を立てる。

「美神さん、これ、もう下げちゃっていいですか?」

「・・・あ、う、うん、ありがとね」

「もう一杯いりますか?」

まだ明るい窓の外を見つめてぼんやりとしていると、おキヌがアイスコーヒーのおかわりを薦めてくる。
つい、その誘惑にも駆られたりするが、あまり水分を取りすぎると宵のビールが美味くない。

「ううん、もういいわ」

と、やんわりと断わってまた黙考に耽る。
もしも彼女が煙草を嗜むのなら、細身のシガーでも似合いそうな風情だった。

ゆっくりと一本吸い終える頃、静かに部屋の片づけをしていたおキヌがそっと声を掛ける。

「・・・あの ・・・美神さん?」

「・・・ん? なあに?」

「どうしたんです? ぼんやりとしちゃって・・・」

振り向いてみると、心配そうな顔つきでおキヌが美神を見つめている。
部屋の隅に目を向ければ、テレビの前に陣取ったシロとタマモも、怪訝そうな顔をしてこちらの様子を窺っていた。
結構な音量で流れているゲーム音楽が、今はじめて聞こえていることに美神は内心驚きを隠せない。

「ご、ごめんね、ちょっと考え事をしてたものだから・・・」

「大丈夫ですか? 何か心配事でもあるんですか?」

「大丈夫よ。大したことじゃないんだから・・・」

「それならいいんですけど・・・」

美神はなんとかして場を和らげようとするが、おキヌの顔に浮かんだ不安は一様には拭いきれそうにない。
奥の二人も、まだ立ち上がりこそはしないものの、コントローラーはもう手にしていない。
遠目にも興味津々なのが嫌でも伝わってくる。
静かにこちらを見つめる三つの視線が、ついぞ美神を惑わせる。

「そ、そうだ、おキヌちゃん、今日はまだごはん作ってないわよね?」

「はい、ご飯もこれから研ぐところですけど・・・」

「そしたら、今日は外で食べることにしない? たまには気分を変えてみるのもいいんじゃない?」

「まあ、美神さんがそう言うなら別にかまいませんけど」

おキヌは軽く首を傾げて同意する。
美神がときたまに外食したがるのはままあることだったが、こうも唐突なのははじめてだった。
後ろでシロとタマモがはしゃいでいるのが聞こえたが、あえて振り向かずにじっと見据えている。
別に脅されているわけでもないのに、美神はさらにしどろもどろになって言葉を紡ぐ。

「な、なんだったら、よ、横島クンも一緒に、さ、誘ってあげてもいいわよ? か、彼も家でお腹を空かせて待っていることでしょうし・・・」

「―――!」

「そ、それとも、おキヌちゃんたちは二人で別のところへ行く? だ、大丈夫よ、お金なら心配要らないから―――」

「美神さんっ!!」

言わずもがなのことを口走る美神を、おキヌは一喝して止める。
けして大きい声ではなかったが、部屋にいる者たちの動きを止めるには充分な気迫だった。

「―――どういうことですか?」

「だ、だっておキヌちゃん、横島クンと付き合っているんでしょ? それくらい、私にだって・・・」

「そういうことじゃありませんっ!」

「そういうことじゃないって言っても―――」

おキヌが何に怒っているのか判らずに困惑していた美神だったが、はたと気付いて口を噤む。
自分は日本で、いや、世界でも最上級のGSと自負しているが、こういった不慮の事態には弱い。
私もまだまだダメね、と心の中で自嘲するが、おキヌの口から零れ出そうな台詞に注意を向け直す。

「美神さんだって横島さんのことを―――」

「ストップ!!」

静かな怒りに燃えるおキヌを片手で制し、じっとその目を見つめ返す。
僅かに険しさを増したその目は、互いに交錯しあって離れようとはしない。
永きにわたる一瞬ののち、ふう、と肩を落として美神は息を吐いた。
不意に机の引出しを開けると、何かを掴み取って、部屋の奥でいったい何事かと息を潜めていた二人のほうへ近づいていく。

「ふたりとも悪いんだけど、今日は外で食べてきてちょうだい。何でも好きなものを頼んでいいから」

そう言いながら、きょとんとしているふたりの前に財布を差し出す。
黒皮の財布は普段、厄珍堂などでの買い物に使っているもので、もちろんカードなどは入っていないが、それでも結構な重みがある。

「ついでに、横島クンも誘ってあげて。あのコも食いっぱぐれるとなると可哀相だしね」

「―――それは嬉しいのでござるが、一体どういう風の吹き回しなのでござる?」

「・・・子供だからといって、隠し事というのは気に食わないわね」

シロは心底不思議そうな、タマモは少し慳貪な顔つきで見上げるが、もはや美神は動じることはない。

「隠すつもりはないんだけどね、本当に知らないほうがいいってこともあるのよ」

どういう意味でござる、と聞きかけるシロを押さえ、タマモは年不相応な表情を垣間見せるが、それもすぐに掻き消えてしまう。

「―――まあ、いいわ」

「悪いわね」

「本当にそう思っているんなら、貸しにしておいてあげるわよ」

素っ気なくタマモはそう言い放つと、つい、とそのまま部屋から出て行ってしまう。
探るような会話についていけないロは、どうしたらよいのかと助けを求めて、困惑した表情をおキヌの方へ向ける。
デスクの横に立ったままのおキヌの顔が、ほんの僅かだけ縦に振れた。
どうにも腑に落ちないシロではあったが、今はおとなしくその命に従うことにし、急いでタマモの後を追いかけていった。

駆け足で降りていったシロが閉めるドアの音が聞こえると、美神はやおら上を仰ぎ見て言の葉を継ぐ。
だが、それは天井から響く、静かな声に遮られた。

「人工幽霊一号、悪いんだけど―――」

『オーナー、ひとつお願いがあるのですが』

「―――何かしら?」

『はい、実はこの連日の暑さで私も少々疲れておりまして、出来ましたら少しお休みをいただきたいのですが』

初老の男性を思わせる低く、落ちつきのある声を耳にし、美神は軽く笑う。
天井を見て笑うなど、事情を知らない他人が見れば、さぞや滑稽なことに違いない。

「ええ、いいわよ。少しくらいなら」

『ありがとうございます。もしも、何かございましたら遠慮なくお呼び下さい』

「呼ぶときはどうしたらいいの?」

『そうですね―――玄関のドアを開けていただければ結構かと存じます』

呼び起こすのにわざわざ玄関を開けろ、というのは些か芝居じみている気もしたが、美神は特に何も言わなかった。
それでは、という声とともに、屋敷の気配が、ふっ、と消えた。





ふたりきりになった応接室は、どこか他人の住居のような気がして、なんとなく居心地が悪い。
窓から差すぬるい日差しが、誰もいないソファをしきりに暖めていた。

「おキヌちゃん、何か飲む?」

美神は逃げ込んだ先のキッチンから声をかけるが、やはり返事は返ってこない。
軽く舌打ちをして、冷蔵庫からビールの缶を二本取り出して部屋へと戻ると、向かい合う椅子に座るおキヌが暗い面持ちで出迎えてくれた。

座るやいなやに缶ビールのタブを引き、あからさまに喉を鳴らして流し込む。
もちろんビールぐらいじゃ酔えないのはわかっているが、少なくとも渇きを潤すことはできるし、酔った振りをすることもできる。
だが、せっかく我慢していたビールの味は、思っていたほどに美味くはなかった。

立て続けに二本目のタブに指をかけたとき、おキヌが真顔で問いかけてきた。
引き起こし損ねた美神の指は、微かに炭酸の漏れる隙間を作るだけに終わっていた。

「美神さん、一体どうしちゃったんですか?」

眉を寄せて覗き込むおキヌの顔には、不安と不審と困惑の表情が張り付いている。

「ここのところ、ずっと様子が変じゃないですか。何かを考えて塞ぎ込んでいるかと思えば、今度はやけに陽気になったりして。今日だって急に外でご飯食べようとか言い出したりして・・・」

「大げさねぇ。私にだってたまにはそういうときもあるわよ」

「そんなの嘘です! さっきだって、あんなこと言い出したりして・・・」

おキヌの言う、あんなことがなにかは聞くまでもないのだが、素直に口にするのもつまらない。
意地の悪い顔にならないように注意して、空とぼけてみせる。
その顔に気付いたのかどうか、おキヌはあっさりと釣られてしまう。

「あんなことって、なに?」

「私と横島さんのことです!」

思わず口元が緩むのを、美神はなんとかこらえることができた。

「だって、おキヌちゃんと横島君が付き合っているのなんて、見てればわかるじゃない。今さら隠すものでもないでしょ?」

「それはそうかもしれないですけど・・・」

「一応は仕事場なんだから、あんまり目の前でいちゃいちゃされたら私も困るけど、プライベートのことまでとやかく言うつもりはないわよ」

先程うろたえていたのとは別人のように美神が諭す。
その落ちついた物言いにおキヌも頷くが、まだどこか納得できずにいた。

「・・・でも、美神さんは本当にそれでいいんですか?」

「それで、とは?」

「・・・だって、美神さんだって横島さんのことが好きなんでしょう? なのに無理して我慢しているなんて、美神さんらしくないじゃないですか!」

心底から心配そうなおキヌの目を見て、美神はつい笑い出してしまう。
決して下品な笑いではないが、それでもおキヌの気持ちを逆なでするには充分だった。

「どうして笑うんですか! 人が本気で心配しているというのに!」

「・・・ご、ごめんね・・・そういうつもり、じゃ・・・ないんだけど・・・」

美神は息も絶え絶えに、憤懣やる方ない様子のおキヌに弁解を試みる。
ただ、おキヌの顔を見れば効を奏しているとは思えなかった。
たっぷりと一分ほど笑った美神が、ようやくに息を整えて向き直る。

「・・・そっか。おキヌちゃんは私が横島クンを好きだと思っているのね?」

「違うんですか?」

「全然違うわよ! 別に横島クンのことが嫌いなわけじゃないけど、付き合ってどうこうしよう、なんてつもりはさらさらないわよ?」

「・・・本当ですか?」

疑わしそうな目でおキヌが覗き込んでくる。
信じる信じないは勝手だが、これ以上は身の証の立てようがない。

「本当だって! そりゃ、前には気になってたこともあったけど、今はもうそんなつもりはないんだから」

何でもないことを強調するためか、美神は目の前で手のひらをひらひらとさせる。

「だいいち、おキヌちゃんたちはもう、いくとこまでいっちゃったんでしょ? それなのに今さらちょっかい出したら私がバカみたいじゃない? そんなの、私は嫌よ」

そう言って美神はテーブルの上の、開け損ねたビールに手を伸ばす。
だが、気が抜けた上にぬるくなったビールの味は、このうえもなく不味かった。
なんとか口に含んだものは飲み下したものの、あとはもう手の届かないほうへと押しやるのみだった。
テーブルの上を滑るビール缶の動きを、おキヌは目の端でじっと捉えていたが、やがて小さく唇を震わせながら呟く。

「―――ルシオラさん、ですか?」

「えっ?」

「ルシオラさんに先を越されたから、先に奪われたから、もう横島さんのことなんかいらないって言うんですか? そうなんですかっ!?」

三度激昂するおキヌの声に、美神は虚を突かれた格好で固まってしまう。
ついぞ見たことのない勢いで怒るおキヌの姿に戸惑ったこともあるが、理由はそればかりではない。
ルシオラ、という、ここしばらく聞き慣れなかった女の名前が染み透るのに、僅かばかりの時を必要とした。
自分たちの間に、あれだけ大きな波紋を投げかけて消えた女魔族の幻影に、美神は残されていた最後の方程式を見出した。

もはや疑うものは何もなく、足りないものは何ひとつない。
だが、それは本当に正しいのか、という疑念が晴れはしなかった。

「―――おキヌちゃん」

内に秘めた興奮に、美神はまたのどの渇きを覚える。
だが、あの不味い代物に手を出すつもりなどなく、さりとて立ち上がる気力もない。
張り詰めた肩の力を抜き、椅子に背を預けておキヌの名前を呼ぶ。

「・・・なんですか?」

「悪いんだけど、ビールを一本持ってきてくれる? まだ冷蔵庫にあると思うから―――」

「美神さんっ!!」

はぐらかされたと思ったおキヌが気色ばむが、美神は一顧だにしない。
おキヌはしばしの間相手を睨みつけていたが、こうなると梃子でも動かないと諦めたか、深く息をついて立ち上がった。
去り行く背中に詫びることも忘れ、美神はじっと椅子に持たれかかったまま、日の暮れた窓の外を眺めている。

ビールを頼んだだけだというのにもかかわらず、おキヌはすぐには戻ってこなかった。
さっきまで赤焼けていた空も徐々に消え、街の明かりがぽつりぽつり、と灯りはじめていた。
いつもなら部屋を灯すものも今日はなく、美神は少しずつ外の青みに染まっていった。

ついぞ忘れかけていた頃、おキヌが丸い盆を手に戻ってくる。
そこには、頼んでおいたビールの他に、籠に盛った枝豆と小鉢がいくつか乗っている。
少しばかり険悪な雰囲気になっていたとしても、さすがおキヌと言うべきか、手ぶらで戻ってくるようなことはしない。
顔を見れば、茹でている間に冷やしでもしたか、先程よりは少し角も取れているのがわかる。

ただ、手にするビールが二つ、それも缶入りなところをみると、このまま笑って許してくれるわけでもなさそうだった。
乾杯の合わせもせずに開けられた向こうの缶が、無言で自白を迫ってくる。
美神は黙って枝豆を一つ二つ口にし、小鉢の和え物を箸で突ついていたが、やがて観念したように口を開く。

「・・・そう、おキヌちゃんの言うとおりね」

「―――――」

「あの時、ルシオラに先を越された、という気持ちが美神令子にあったのは事実だわ。ルシオラに奪われた横島くんなんかもういらない、と考えていたのもそう―――でもね、今の私は違うのよ」

「違う、とは・・・?」

「今の私は、本当に横島クンのことをなんとも思ってないの。もちろん、彼のことは嫌いじゃないし、大切な仲間だとは思ってる。でもね、男と女としてどうとかいう気持ちは、横島クンには悪いけど全然ないのよ」

「そんなっ・・・!」

息を呑むおキヌの姿を見て、美神は小さく笑みを漏らす。
過去の経緯がどうあれ、自分の男を狙う女が敗北を見とめたのだから、本来ならば喜ばしいことのはずだ。
しかし、おキヌはまるで自分が嫌われでもしたかのようにショックを隠せないでいる。
こんなところにも、美神令子の遺産ともいうべき、微妙な人間関係が残されていた。

「なんで・・・ なんで、そんなこと言うんですか? 美神さんはあんなに・・・ あんなに横島さんのことが好きだったのに・・・」

「さっきも言ったけど、横島クンのことが嫌いになったわけじゃないのよ。たぶん、美神令子のままだったらまだ彼のことは好きだろうし、あなたに易々と取られちゃうような真似はしなかったはずよ。でも、私はそうならなかった。それだけのことよ」

「・・・どういうことですか?」

淡々と話す美神の様子に、おキヌはどこか腑に落ちないものを感じた。
努めて冷静に客観視しようとしているのだとしても、何かどこかが違う。
まるで、赤の他人のことを話しているかのように感じられる。

己の正体を探り出すおキヌの視線にも関わらず、美神は自分でも意外なほどに落ちついていた。
この後のことを考えれば考えるほど、ネガティブな思考に陥ってしまうのだが、どこかそれを楽しんでいるのが自分でもわかる。
自分にこれほど芝居っ気があったのかと、我ながら驚くぐらいだった。

「実はねおキヌちゃん、私はあなたが知っている美神令子ではないのよ」

そう言って美神はにこり、と笑う。
宵闇に映える美しい顔は、薄ら笑いを浮かべて歪んでいるように見えた。





「な・・・なにを・・・」

突然の美神の告白に、おキヌは二の句が継げぬまま固まってしまう。
だが、それには構わず、美神はつらつらと流れる水のように話す。

「あの時、アシュタロスに魂を奪われた美神令子は死んだのよ。それはおキヌちゃんも知っているでしょう?」

「そ、それは・・・」

おキヌは美神の戯言を否定しようとするが、戸惑いが頭を掠めて思考を縺れさせる。
アシュタロスに捨てられた美神の肉体を受けとめたとき、即座に感じた死の気配が再び甦る。

「で、でも、あのあと美神さんは生き返ることが出来たじゃないですか! わ、私がそばにいたんですから間違いありません!」

美神令子の顔をした悪魔の囁きに、必死に飲み込まれまいとして、おキヌは勇気を振るって反論する。
だが、その形勢はいかにも分が悪く、不利なことに変わりはない。

「そうね・・・確かに私は魂を再生して、運良く甦ることが出来たわ。それは間違いないわ」

「だったら―――」

「でも、美神令子の中にあったエネルギー結晶は戻ることはなかった。当然よね、魂の再生にはコスモプロセッサを使うしか方法はなかったんだから」

「なっ―――」

「そして、魂の再生は問題なく行われたわ。美神令子の魂は、その記憶も人格も何一つ損なうことなく甦ることが出来た。ただひとつのモノ―――結晶を除いてね」

楽しげに話す美神を前に、おキヌはもはや声もない。

「もちろん、今こうしている私は美神令子の記憶も人格も全て持っているわ。私は間違いなく美神令子その人よ。おキヌちゃんとの出会いも、横島クンとの出会いもみんな覚えている。でも、やっぱりどこか違うのよね」

なんとも説明のつかない感覚を説明しようとして、美神は少し困った顔を見せる。
自分の内面を現すのに、なんと言葉は不自由なものか。

「もし仮に、おキヌちゃんのクローンかなにかがあるとして、自分の魂をコピーしたら、それは自分だと信じることが出来る?」

静かな美神の問いかけに、おキヌは答えることが出来なかった。
自分が自分であるにもかかわらず、なおかつそれに疑念を抱くなど、とても想像も出来なかった。
悪魔の証明に魅入られ、袋小路にはまり込んでいるような錯覚にさえ落ちる。
そこから抜け出すためには、たとえ拙くても何かの糸にすがるより他にない。

「でも・・・ でも、本当に美神さんの言うとおりだとしても、どうして横島さんを好きでなくなるんですか? 前世の頃から好きだったのに、結晶がなくなったというだけで・・・」

消え入りそうなおキヌの声に、美神はじっと耳を傾ける。
ほどなくそれが途絶えた頃、手慰みに傾けていたビールを一口飲んで後を継ぐ。

「そもそもの起こりは美神令子の前世、メフィストが横島クンの前世の高島に惚れて、エネルギー結晶を飲み込んだのが原因でしょう? つまり、二人の結びつきは結晶にあったと言っても過言ではないわ」

「だけど―――」

「長い年月の間に、魂と結晶は互いに離れないように癒着してしまっていたわ。それこそ、あのアシュタロスがあれだけ手間暇かけてお膳立てしないと手に入らなかったぐらいにね。そして、その結晶の存在こそが横島クンを好きになる要因のひとつだったのよ」

「そんな! そんなことって―――」

「もちろん、それだけが人を好きになるってことじゃないのはわかってるわよ。でもね、自分の気持ちを偽ってみても苦しいだけだもの。あの千年の恋は私にとってはもう過去の、他人の出来事なのよ」

それにね、と美神はいたずらっぽく、それでいて神妙な面持ちで付け加える。

「あの結晶は横島クンに壊させてしまったじゃない? だから、今さら元に戻ってメフィストと同じように横島クンを好きになることはありえないのよ」

一人抱えていた秘密を吐き出したせいか、美神は沈むおキヌとは対照的に、さばさばとした表情で心地付いた。
だが、その奥にもうひとつだけ秘密を隠し続けてもいる。

アシュタロスの野望を挫くため、横島が辛い選択を迫られて潰したのはルシオラの命だけではない。
完全なる美神令子の存在もまた、結晶と共に葬り去っているのだった。
そのことは横島にも、目の前でうなだれる少女にも誰にも知られてはならぬ、自分が死ぬまで密かに持っていなくてはならない、正真正銘の秘密なのだ。





階下でぱたん、と玄関のドアが閉まる音がした。
一人になった部屋の中はすっかりと夜に覆われ、ひぐらしのもの悲しそうな声が響いている。
美神は、主のいなくなった向かいの椅子をじっと見つめていたが、やがて最後に残っていたぬるいビールを呷り、虚脱するように椅子に持たれかかる。
それを合図にしたかのように、ぱっ、と頭上の灯りが音もなく灯る。

「―――もういいの? 人工幽霊一号?」

『はい、お休みをいただきまして、すっかり調子もよくなりました。ありがとうございます』

生気を取り戻したかのように、人工幽霊一号はあくまでも控えめにだが、軽やかに答える。
心なしか、年さえも若返ったかのように感じられる。

「今日一日ぐらい休んでいてもよかったのに」

『いえ、私にもそれなりにやることもございますので、そう長いこと休むわけにはまいりません』

律儀に答える人工幽霊一号の声に、美神は思わず笑みを漏らす。
来客の予定も入っていない中、たいしてやるべきこともあるとは思えなかったが、それを口にするのは控えた。
仕事でもしていれば別だが、今は声をかけてくれる相手がいるだけでもありがたい。
その相手が、静かな声で問いかける。

『オーナー』

「何かしら?」

『今日はこれ以上何もないかと存じますので、たまには早くお休みになってはいかがでしょう?』

美神はほんの少し天井を見つめていたが、やがてゆっくりと立ち上がる。

「そうさせてもらうわ」

さすがに少し疲れた様子で、美神は自室へと繋がる階段のほうへと足を向ける。
だが、手すりに手をかけたところで立ち止まって声をかける。

「明日は、起こさなくていいわ」

『かしこまりました。それでは、オーナーの分の朝食はいらないとお伝えしておきます』

今まで、幾度となく交してきた伝言だが、不意に寂しさが美神の胸中に去来する。

「―――どうかしら、ね」

その呟きに返された返事は、何故か人工幽霊一号が微笑んでいるように思えた。

『きちんとお伝えしておかないと大変でございますから。明日からはまた忙しくなるかと存じますので、今夜はゆっくりとお休みくださいませ』

その言葉に背中を押されるようにして、美神はゆっくりとした足取りで階段を昇っていく。
ほんの少し酔ってはいるが、おぼつかないというわけでは決してない、しっかりとした足取りだった。

「―――そうね。それじゃ、あとは頼むわね」

『かしこまりました。では、おやすみなさいませ』

誰もいなくなった事務所の灯りが、静かにそっと消えた。
なんとか間に合わすことができました、【夏企画】第三弾・爽やかハートフル編です(笑)
楽しくてにぎやかな夏休みとは程遠いですが、晩夏の、宵闇に煙る寂しさに浸るのもまた、趣きがあってよいのではないでしょうか。
ここで出てきた美神の告白ですが、これは私の原作解釈のひとつでもあります。
もちろん、この解釈に固執するつもりはありませんが、美神の心情をさらに掘り下げてみると興味深いのではないか、と思っています。

この話のイメージは、タイトルの元ネタでもあるサマンサ・ラング監督の青い、ただひたすら青い画面と(笑),往年の名ジャズ・ミュージシャン、ルイ・アームストロングの『誰も知らない私の悩み Nobody Knows The Trouble I've Seen』です。
特に、サッチモの曲はしみじみと迫る名曲だと思いますので、機会がありましたらぜひ聞いてみてください。

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