人気のない海岸
カモメの鳴き声と波の音しか存在しなかった海岸に、弾む息づかいが混ざる。
ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ
息を切らしながら少女は砂浜を走っていた。
まるで過去から逃れるように。
焼けた砂を蹴る素足は熱さをまるで感じていない。
それ以上の痛みが彼女の胸に襲いかかっていた。
ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ・・・・・・
程なくして華奢な体に不釣り合いな荷物が彼女の疾走を止める。
不釣り合いな荷物―――古ぼけた机が彼女の肩に重く食い込んでいた。
疾走を歩みに切り替えた彼女は、胸の痛みに耐えかねたように大きな声で泣き出す。
好奇心を刺激されたのか、釣り人からのおこぼれを期待し、流木の陰で昼寝していた猫がのそりと彼女の方へ動き出した。
うぇ・・・ヒック・・・
次々に浮かび上がる悲しみは程なく彼女の歩みも止める。
猫は不思議そうに彼女の事を見上げていた。
彼女はポケットから取り出したキップに視線を向ける。
夏の一人旅にと購入した青春18キップには3つめのスタンプが押されていた。
クッ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼女はきつく目を閉じ拳に力を入れる。
そのまま何かに耐えるようにしばらく立ちつくすと、彼女は拳の中で小さく丸まったキップを海に向け投げ捨てようとした。
ひとが、現実よりも、
理想の青春を知ったとき、
それは、ひとにとって、
幸福なのだろうか?
不幸なのだろうか?
―――――――――――― 時をかける少女 ―――――――――――
「あら?」
目的地に向かう車内で、彼女は机に腰掛けた少女に目を止める。
最近では私立の伝統校でしか目にしないセーラー服に白のハイソックス。
ブリーチなど考えた事もなさそうな黒いストレートヘアー。
昭和から抜け出てきたような出で立ちは、ある種、少女が腰掛けた机以上に彼女に違和感を感じさせる。
古い友人に出会ったような表情を浮かべ、彼女は数分の間考え込んでから窓際で佇む少女の方へと歩き出す。
彼女が降りる駅はもうすぐの所にあった。
「お久しぶりね。愛子さん」
「?」
急に声をかけてきた女性に愛子は怪訝な顔をする。
この辺りに知り合いはいなかった。
年の頃は20代後半、30は過ぎていないだろう。
度の強そうな眼鏡の奥で彼女の目が悪戯っぽく光った。
「忘れちゃったの? クラスメートを」
そう言って眼鏡を外した女性に愛子は驚きの表情を浮かべる。
補正された十数年の歳月が、愛子の記憶の中の人物と彼女とを結びつけた。
「芳山さん・・・」
愛子は気まずい表情を隠せない。
彼女は自分の中で共に過ごしたクラスメイトだった。
「その反応じゃ、もう解放された後ね?」
芳山と呼ばれた女性は、かがみ込むようにして机の引き出しを覗き込む。
真っ黒い空間以外何も見えなかったが、それでも彼女は懐かしそうな表情でその空間を見つめていた。
「あの二人を呑んだのは何時? ホラ、ボディコンの先生とスケベな男の子」
ずけずけとした物言い。
覗かれた気恥ずかしさと相俟って、愛子は困惑の表情を浮かべる。
記憶の中の芳山和子はこんなに押しの強い性格では無かった。
愛子が彼女のことで鮮明に覚えているのは、みんなを解放した日、じっと責めるように自分を見つめている目。
―――彼女は自分のことを許してはいない。
愛子は消え入るような声で和子の質問に答えた。
「去年・・・」
「へぇ・・・先生があんな格好だったからもう少し前かと思ってた・・・それで今は何を? 見たところ旅行にも見えないけど」
じっと覗き込んだ目に逆らいがたい何かを感じ、愛子はポケットからキップを取り出す。
3つめのスタンプが押された18キップ。
愛子は青春を味わう旅の途中だった。
「ありゃ、旅行でしたか・・・しかも青春真っ盛りな」
失敗とばかりに頭を掻く仕草。
和子は若者とのコミュニケーションに慣れているようだった。
フレンドリィな物腰に愛子の緊張が少しずつ和らいでいく。
「ソレ、途中下車アリなやつでしょ! 今晩の宿、決まっているの?」
「え・・・」
咄嗟の会話の流れに愛子は言葉に詰まる。
あてのない旅ではあったが、今の出会いは愛子に後ろめたさしか感じさせていない。
「特に予定はないけど・・・」
「じゃ、決まりね! 次の駅で降りましょう!! 積もる話もあるしね」
ないけど先を急ぎたい。
そう続けようとした愛子の言葉は、にっこりと笑った和子の笑顔に押し切られることになる。
こうして愛子の旅は3回目の途中下車を向かえた。
海辺を走るローカル線の例に漏れず、下車した駅は浜辺からほんの僅かの距離にあった。
電車を降りて早々、和子は公衆電話に歩み寄りどこかに連絡を入れ始める。
「あ、アタシ、いま着いたから・・・・・・・・・いや、なんとか問題解決。大事じゃなくって一安心って感じかな・・・・・・・・・ん、んじゃ海で時間潰してるから拾いに来てよ・・・ナニ? 三十路直前が青春しちゃいけないって法律でもあるわけ!? イイこと教えてあげようとしたけどやーめた!・・・・・・イ・ヤ!絶対に教えない!!・・・・・・早く来てね!!」
3分間を計ったような会話を終わらせ、和子は愛子に視線を向ける。
何か言いたげな愛子の表情が分かったのか、和子はポケットから携帯電話を取り出した。
「私の携帯、こっちじゃアンテナの立ちが悪くってね・・・東京にいる分にはそんなに差は感じないんだけど、やっぱ対応エリアは重要だったみたい」
「え、芳山さん、こっちに住んでるんじゃ」
「違うわよ! アナタに呑まれたのは東京だったでしょ!!」
チクンと痛む愛子の胸。
しかし和子はその事に気付いた風もなく愛子の手を握りしめる。
「あ、でも安心して! 子供の時から何度も来ているから土地勘はあるの!!」
和子はそう言うと愛子の手を引き小走りに走り出す。
踏切を渡り、海岸へ伸びる小道を進み、民家の路地をすり抜け、海沿いの国道を渡り、一見抜け道とは気付かない草むらを突っ切る。
突如目の前に開けた海の風景に、愛子は思わず声を漏らした。
「良い眺めでしょ! テトラのこっち側にはあまり観光客が来ないのよ」
テトラで護岸しているあたりは海水浴に向かないのか、そこからこっちにかけて人の姿は見あたらない。
ほんの僅かにはいるのだが、あまりに大きい海の風景に人の姿は溶け込んでしまっていた。
テトラの向こうに見えるまばらなビーチパラソルが、辛うじてそこを海水浴場と認識させている。
「それに、こっちの人は迷信深いから・・・お盆に海に入るとお化けに足を引っ張られるんだって!」
和子はおかしそうに笑うと声を潜めるように愛子に囁く。
「かく言う私も中学までは信じてたわね。おばあちゃんの家に遊びに来ても、お盆は絶対に海に入らなかった・・・私、おばあちゃん子だったから」
笑顔も反転。
暗く俯いた和子に、愛子はようやく口を開く。
「おばあさん、亡くなったの?」
「いや、コレがまだピンピン!」
してやったりとばかりに笑うと、和子はパンプスを脱ぎ捨て裸足で波打ち際に向かっていく。
愛子はからかわれた事に気づき苦笑を浮かべた。
「でも、おばあちゃん子だったことはホント! いつでも私の味方をしてくれてね・・・いまの仕事についた時、多少ゴタゴタしたんだけどその時もおばあちゃんは味方だった」
和子はスカートのすそを絞り波打ち際に足を踏み入れる。
水の冷たさを感じ身震いを一つすると、和子は愛子を振り返った。
「だから予定ではもっと早く来るつもりだったんだ! だけど仕事がトラブっちゃってね・・・今、ようやくの到着ってわけ。でも、ラッキーだったわ! おかげで懐かしい人に出会えた」
「海に入っちゃっていいの? 足引っ張られるわよ」
ようやく出た愛子の軽口に、和子はクスリと笑う。
「大丈夫よ! 今まで1回も・・・キャァ!!」
「どうしたのッ!!」
突然バランスを崩した和子に愛子は表情を一変させる。
和子の左足は深く海中に沈もうとし、辛うじてバランスをとろうとした上半身がまるで愛子に助けを求めているように見えた。
「大丈夫ッ!?」
愛子は咄嗟に駆け出すと、靴が濡れるのもお構いなしに波打ち際へと走り出す。
限界を向かえようとしている和子のバランスは、今にも海中に引きずり込まれるように見えた。
和子を支えようと伸ばした手。
しかし、愛子は意外な攻撃を受けてしまう。
パシャ!
愛子の手が和子の手に触れる瞬間、海水をすくい取ったその手が愛子に向けて大きく振られる。
海水の直撃を顔に受け、愛子の目が驚きに見開かれた。
そんな愛子の顔を満足そうに見つめ、満面の笑みを浮かべた和子がすっくと立ち上がる。
「見たか! 演劇部顧問の演技力!!」
「顧問?・・・」
「そう、私、今、高校の先生をやっていてね。青春はアナタの専売特許じゃなくなったのよ! 委員長!!」
再び始まる他愛のない水の攻撃。
何故か嬉しくなった愛子もそれで応戦する。
焼け付くような夏の日差しの元、教師と生徒の年齢差となった元同級生たちはしばらく波打ち際でふざけ合う。
過ぎ去った青春を再び手に入れたかのように。
コンクリートで作られた堤に腰掛けながら、二人は海を見ていた。
乾かすために机に結ばれたスカーフが、風に揺らめきバサバサと音をたてる。
この調子だと脱いだ靴下もすぐに乾くだろう。
水に濡れ、男子には見せられないほど透けていた夏服は既に乾く兆しを見せていた。
「学校の先生って大変なの?」
「んー、大変よ。私のいる学校なんてやんちゃな子が多いから・・・傷つく方も傷つける方も、もの凄く不器用でね。ここに来るのが遅れたのも、出がけに生徒が問題起こしちゃって・・・ホラ、夏休みってイロイロあるから」
本当に疲れているのか、和子はごろんと堤の上に寝ころぶ。
焼けたコンクリートが濡れた体に心地よかった。
「他にもPTAや教育委員会が理不尽なコト言ってきたり。でも、和子先生は負けませんよ! お馬鹿だった私が、大学や採用試験受かるのって本ッ―――当に、大変だったんだから!!」
眼鏡を外した和子に、愛子はその眼鏡が猛勉強の副産物であることを理解する。
記憶の中の和子は眼鏡などかけてはいなかった。
「それにね、一番大変なのは生徒だって分かっているから・・・」
日差しを遮るように和子は左手を太陽にかざす。
その薬指に指輪がないのを見て、愛子は和子がまだ独身であることを想像した。
「アナタの中で経験した青春は、現実には何処にも無いのよね・・・・・・」
その呟きに愛子は否定のニュアンスも、肯定のニュアンスも感じることが出来なかった。
しかし、はっきりと言える事はあの時作り出した学校は、妖怪である自分がエゴを満たすために作り上げた箱庭に過ぎないということだ。
余計な雑音を排除した、ドラマの中にしか存在しないクラス。
そこで繰り広げた青春が、無菌状態の人工飼育であることを今の愛子は理解している。
「気付いてたかしら・・・私の初恋ってあの中でだったのよ」
突然の告白に愛子は驚きの表情を隠せない。
和子は体を起きあがらせると、久しぶりに再会した愛子にあの時のことを話し出した。
―――それまでの私はホントいい加減でね。
勉強も適当、運動も適当、当然部活なんかやってなかったし・・・
さぼって怒られるのがめんどくさいから毎日適当に授業を受けて、
放課後マックあたりで友だちとだらだら時間を潰す・・・だからね。
「キャー!!」
古ぼけた机に呑み込まれる高校時代の和子。
乱暴な着地、見慣れぬ教室、そして・・・
「歓迎するわ! 新入生さん!!」
健全すぎるクラスメート。
爽やかな笑顔に囲まれ、和子は顔をひきつらせた。
ドサッ
新入生はいつも突然に現れる。
乱暴な着地、見慣れぬ教室への混乱。
そして、混乱はそのすぐ後の自己紹介でピークを迎える。
「えーっと、ボクの名前は由宇児衣っていいます。前いた学校は・・・あれ?」
新入生は自分のいた場所や時代の記憶が朧気になっていることに愕然とする。
しかし、クラスメートから次々ぶつけられる質問に答えるうち、そんなことは徐々に気にならなくなっていく。
「長所は、下ネタならば自信があります!」
それは短所ではないか?
予想外の答えにクラスのみんなが引いていく。
自己紹介時の受け答えで、クラス内でのキャラクターが決まっていくらしい。
この日の新入生はクラス内でアレな扱いを受けるようになることだろう。
―――クラス内の私の立ち位置は少し冷めた不器用な子って感じだったかしら?
私の心を開こうとみんながアレコレかまうのが少しウザく感じてね。
だから、しばらくの間、正直みんなには馴染めなかった。
深町クンが来るまでは。
ドサッ
その日、深町一夫の出現の仕方は少し変わっていた。
呑み込まれる時に何かあったのか、彼は芳山和子の真上に出現する。
「キャッ!」
「何すんだ実習生! 危ねーじゃねえかっ!!」
下敷きになった和子の存在に気付かず、一夫は慌てたように起きあがろうとした。
確認せず叫びながらついた手が、何か弾力のあるものを押しつぶす。
「怪我したらどーするんだよ! 下がこんなムニュッとした床じゃなけりゃ・・・ムニュ?」
やっと周囲をとりまく違和感に気づいた一夫は、恐る恐る自分の手元に視線を向ける。
そこには胸を触られ額に青筋を浮かべた芳山和子の姿があった。
「いや、ワザとじゃない! そう、アイツのせいだ!! 俺を突き飛ばした教育実習生の・・・」
憐れなほど狼狽したした一夫は、すぐに和子の上から飛び退くと必死に弁解を始める。
しかし、問答無用とばかりに頬に見舞われたビンタが続く台詞を遮っていた。
教室を走り出した和子を呆然と見送る一夫。
その頬には和子の手の痕がクッキリと残っていた。
あまりにもベタな出会い。
しかし、これこそが芳山和子と深町一夫の出会いだった。
「委員長! 席替えを提案します!!」
気分を落ち着かせてから帰った教室で、和子はこの世界に囚われてから初めての提案を行う。
自分がいない間に自己紹介を終わらせた一夫の席は、自分の隣りに決まってしまっていた。
別段、アレで一夫の事が嫌いになった訳ではない。
甘酸っぱい何かを期待した周囲の視線が、和子にいつも以上に居心地の悪さを感じさせていた。
―――委員長、正直に答えて。
あの時の席替えのくじ引き、インチキだったでしょう?
だって、あんな偶然ふつう考えられないもの。
「いやー、なんと申しましょうか・・・」
席替え直後の教室
一夫は窓際の一番奥の席に引きつった笑顔を向ける。
そこには憮然とした表情の和子が座っていた。
彼はまたしても彼女の隣りの席を引き当てたらしい。
「スイマセン! マジで反省してます!!」
ゴツ!
派手な衝突音と共に送られた謝罪に、和子は驚いたような顔をする。
一夫は机に勢いよく頭をこすりつけていた。
見かけは優男だが中身は意外と体育会系らしい。
「・・・そんなに怒っていないわよ」
放っておくと土下座にまで発展しかけない勢いに、和子はやれやれと言った表情で謝罪を受け入れる。
それに対しての一夫の反応は満面の笑みと、差し出した右手だった。
「良かったぁー、許してくれてありがとう。俺、深町一夫」
「芳山和子・・・」
少しざらついた大きな手。
素直に握手を受けたのは、その笑顔が気に入ったからだった。
握手とともに教室のあちこちで起こる拍手。
今まで嫌だった健全すぎる雰囲気も不思議と悪い気はしなかった。
「で、教育実習生に何されたって?」
和子は照れ隠しに先程打ち切った弁解の続きを促す。
しかし、自己紹介を終えた一夫はそのことを思い出すことが出来なかった。
「おお、あの・・・あれ?」
「やっぱりね。自己紹介が終わると前の生活のこと色々忘れちゃうのよ。かく言う私も・・・」
和子はやれやれという顔をする。
自分が以前どの様な生活をしていたのか?
その記憶は厚い霧に覆われたように不鮮明だった。
「あ、でも、そっちの方が里心つかなくっていいわよ。私なんかここに来てどれくらい時間が経ったか分からないけど、それほど辛くないし・・・どうしたの深町クン」
自分が置かれた状況を再認識したのか、一夫は愕然とした表情を浮かべていた。
そして、何かを思いついたように立ち上がると、窓に張り付き外の風景を必死に眺める。
間近に見た一夫の真剣な表情に、和子の胸の鼓動が僅かに高まった。
「さっき、席替えの提案をしたよね。あれって誰でもできるの?」
「そうね、何かHRでやりたいことがあったら、委員長の愛子さんに言えば・・・」
一夫は咄嗟に手を挙げると愛子に大声で呼びかける。
「委員長! クラスレクリエーションを提案します、外で野球でもやりましょう!!」
「悪いけど無理なの、校舎の外には絶対に出られないのよ。体育館でバレーやバスケなら出来るけど・・・」
「そうですか・・・」
諭すような愛子の言葉に一夫の手がゆっくりと降りる。
いきなりの提案に驚いた和子に、一夫は寂しそうな笑顔を向けた。
「野球やってたコト忘れたくないんだよね。今年レギュラー狙ってたし・・・」
一夫はそう言うと立ったまま自分の席にうなだれる。
和子は先程の握手の時に感じたザラつきが、野球の練習で出来たマメだということを理解した。
「安西先生・・・・・・野球がしたいです。あれ、なんだっけこのネタ・・・はは、ホントにわかんねーや」
一夫の寂しげな笑いは、和子の胸に初めて知る痛みを生じさせていた。
―――その寂しそうな姿が妙に気になってね。
今思えば、私、あの時から深町君のこと好きになってたのかな。
だから、何とか体育倉庫を探し出してね・・・
「何? 見せたいモノって」
「いーから、早く歩いて」
背中を押され案内された体育倉庫。
一夫の目がグローブとボールを見つけ子供のように輝く。
「どう? 体育倉庫なら多分道具があるんじゃないかって・・・!」
「サイコーだよ! 芳山さん!!」
思い切りハグされ和子の顔が真っ赤に染まる。
そんな和子の反応に全く気づかず、グローブに手を通した一夫は感動の叫び声をあげた。
野球を忘れるのではないかという不安から解放され、一夫は上機嫌で何度もボールの感触を確かめる。
軟球ではあったが、そんなことは些細な問題だった。
「付き合ってよ! 芳山さん!!」
「え!」
素っ頓狂な声をあげた和子に、一夫は自分の口にした台詞が持つ意味にようやく思い至る。
一夫の顔は和子に負けないくらい真っ赤になっていた。
「イヤ、ホラ、キャッチボール! キャッチボール付き合ってって」
半ば強引に和子にグローブを押しつけると、右手のスナップのみでボールを投げようとする。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 私、キャッチボールなんかやったことないし・・・クラスの男子の方が」
「大丈夫だよ、軽く投げるし、投げ方教えるからさ!それに・・・」
一夫ははにかんだ笑顔を浮かべなから続く台詞を口にした。
「俺、芳山さんに付き合って貰いたいんだ。ダメかな?」
その言葉を聞き、和子は覚悟を決めたようにグローブを構える。
軽く投げられたボールは多少危なっかしくも和子のグローブに吸い込まれた。
「うまいじゃないか! 芳山さん!! 投げるときはこうやって・・・」
ぎこちなく始まったキャッチボール。
お互いのグローブを行き来するボールの立てる音が、スムーズになるにはそう時間はかからなかった。
―――キャッチボールって不思議よね。
一球キャッチする度に、一球ボールを投げる度に、どんどん彼のことが好きになるの。
HRが終わった後のキャッチボール。
もう毎日が楽しくって、何年そうしてたのかなぁ・・・
ずっとこのままで、ずっと一緒にいられると思ってた。
そう、あの派手な先生が来るまでは。
「どいてっ!! 邪魔する奴はカエルの内臓ぶっかけるわよっ!!」
理科室
美神を追いつめたメンバーにいた一夫は、愛子を攻撃しようとする美神の煽りをうける。
「わぁっ!」
「大丈夫っ! 深町クン!!」
倒された一夫に和子が駆け寄った。
「いてて、あのボディコン先生、ジュリアナが流行ったの何年前だと思ってんだ!!」
「何よジュリアナって?」
「俺がガキの頃に流行った、先生みたいな堪らん姿のお姉さんが扇子片手に踊り狂ったディスコだよ・・・あれ?」
美神の攻撃を受け戻りかける記憶。
その違和感は、冷たい目で見下ろす和子の威圧感に一旦うやむやになる。
「ふーん、一夫くん、あんなはしたない格好の先生が好きなんだ。一体、ナニを教わろうっていうの」
「イヤ、堪らん姿と言うのはあくまでも一般論で・・・」
初めて感じる威圧感に一夫は思わずたじろぐ。
続けた言い訳がましい説明は、更に彼の記憶を引っ掻いていた。
「それに、あんな先生はいないよ! 俺を突き飛ばした実習生なんかずっとジャージ・・・! あの野郎! アイツのせいで俺は!!」
「深町クン! 記憶が戻ったの!?」
徐々に鮮明になる記憶
それは美神の攻撃を受けていない他の生徒にも及んでいた。
「はっ、私・・・キャァ!!」
「危ない! 芳山さん!!」
記憶を取り戻し始めた和子に、ヌラヌラグチョグチョに変化した理科室の標本が襲いかかる。
身を挺して和子を守った一夫の学生服に、グチャドロの飛沫が飛び散った。
「大丈夫! 芳山さんは俺が絶対に守るから」
「深町クン」
しっかりと抱き合う二人。
大切な人を守ろうと、一夫は凶暴化したバスケゴールを睨み付ける。
しかし、バスケゴールは彼らに危害を加えることは出来なかった。
「バカッ!!」
理科室中に響き渡る美神の一括に、周囲を埋め尽くした怪異は全て沈静化していた。
一夫と和子は抱き合ったまま、呆然とその後の展開を見守っている。
眼前ではクラスメイトの高松が愛子に許しの言葉を述べる所だった。
「ははっ、元の時代に戻れるらしいね・・・」
一夫の言葉に含まれた未来への希望に、和子は現実に引き戻される。
本当は絶対に離れたくはない。抱きついたまま離れたくないって言いたかった。
しかし、和子はその言葉をどうしても言えない。
キャッチボール一つであんなに喜んだ一夫に、元の時代に帰って欲しくないなんて言えるはずがなかった。
そんな和子の逡巡がわかったのか、一夫は最後の挨拶とばかりに強く和子を抱きしめる。
「大丈夫。また何処かで会えるよ」
「会ってどうするの、多分、君、相当な年下よ」
「待ってて、俺、絶対に探すから」
そう呟くと一夫は和子から離れる。
周囲のクラスメイトは二人の様子に気付かず、一様に愛子への許しを口にしていた。
―――許さない。そんな自分勝手、私は彼と一緒にいたいのに・・・
和子はキツイ目で愛子を睨む。
それは元の時代に戻されるまで続いた。
「アレ? 和子、アンタ、一瞬消えなかった?」
目の前にいたのは何年ぶりかの同級生だった。
芳山和子はゆっくりと周囲を見回す。
そのどれもが圧倒的な現実感を有していたが、和子はそれに何一つ魅力を感じてはいない。
この場所には一夫がいなかった。
急激に襲ってくる喪失感。
「ちょ、ちょっと何で急に泣き出すのよ! 和子ったら!」
二度とは帰らない青春の喪失に和子は声をあげて泣き出す。
此所にはただ無為に生きた空っぽの人生しか無かった。
彼女の青春は確かにあの場所にあったのだった。
「いやーあの時は泣いた泣いた。担任は来るわ、生活指導の先生は来るわ、オマケに保健室の先生まで来ちゃったものね」
夏の日差しを浴びながら、芳山和子は思い出話を終わらせようとしていた。
彼女の耳には先程から消え入るよな声で、ごめんなさいと呟き続ける愛子の声は届いていない。
自分が壊した初恋の存在を知り、愛子は過去の行動にかってないほどの罪悪感を感じていた。
「今の職についてやっと分かったけど、ホント何を心配されてたんだかね私は」
「ごめんなさい! 私、そんなつもりじゃ・・・」
耐えきれないほどの罪悪感に愛子はその場から走り去る。
自分の心からは逃れようが無いのだが、それでも愛子は走り出さずにいられなかった。
ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ
全力で走っても罪悪感からは逃れられなかった。
今の愛子は自分が堪らなく醜悪な存在に思えている。
学校を・・・青春を味わいたい。
ただそれだけで自分は他人の人生を狂わせてしまっていた。
芳山和子は深町一夫を待ち続けているのだろう。
指輪のない彼女の左手が鮮明に思い出されていた。
うえぇぇぇぇぇ・・・・・・・・・・・・・
元の時代に戻しさえすればそれで全てが戻ると思っていた。
自分の考えの至らなさに愛子は泣き出してしまう。
捉えた人たちの経験したことに、自分は何一つ責任をとっていなかった。
うぇ・・・ヒック・・・
愛子はポケットの中のキップを取り出す。
青春を感じようと買った切符。
自分にはそれを持つ資格がないと愛子は思っていた。
――――二度と青春を求めてはいけない。
愛子はその手にキップを握りしめると、そのまま海に投じようとする。
自分が決別させた、芳山和子と深町一夫の代償として。
「もうッ、ナニ、先走ってんのよ! 私の生徒と同じじゃない!!」
その手を掴み、静止させたのは和子だった。
彼女は荒くなった息を整えながら、愛子に話の先を続けようとする。
愛子はしゃくり上げたまま、和子を見つめていた。
「そう、最初からそうすればいいのよ。人の話は最後まで聞くものよ・・・全く、若いアナタに追い着くのは大変なんだからね」
和子は最後に大きく深呼吸すると、元の時代に戻った晩の出来事を話し始める。
「おねーちゃん。本当に晩ご飯いらないの?」
体調を心配され学校から帰された和子は、自分のベッドに寝ころび呆然と天井を眺めていた。
悲しさは一向に治まっていないが、涙の分泌量に限界があることを和子は身をもって体験している。
「ねえ、おねーちゃんてば!」
部屋を共有している小学生の妹に答える気力もない。
和子はそちらに背を向け寝返りをうった。
「ちぇ・・・・・・」
無視され間が持たなくなった妹がTVのスイッチを入れる。
ニュースショーの流行発信のコーナーが、最近の流行についてルポを行っていた。
「わ、このお姉さんたち、パンツ見えそうな格好で躍ってる!!」
妹が上げた声に、和子はベッドから飛び上がった。
そのままTVにかじり付く。
画面の中では、あの派手な先生と同じような姿の女が一心不乱に扇子を振り回していた。
「ジュリアナTOKIOって言うんだって。おねーちゃんもあんな格好したいの?」
妹の口にした店名に和子の目に涙が浮かぶ。
嬉し涙は別物らしかった。
一夫が言ったガキが、どれくらいの年齢か和子には分からない。
しかし、今現在、深町一夫がこの世に存在していることは確かだった。
「おねえちゃん、急にどうしたの!!」
「どうしたって、ジュリアナよ! もうすぐボディコンの時代が来るのよッ!! この世界のどこかに深町君が・・・・・・ん?」
嬉しさに舞い上がった和子の足が、脱ぎっぱなしにしていたブレザーを踏みつけてしまう。
ポケットの中に異物を感じた和子は、何気なくポケットの中をまさぐる。
丸い金属の感触が指先に触れた。
「まさか・・・あ、ああああっ」
確信めいた予感。
急いで取り出したソレを確認し、和子は声にならない叫びをあげる。
再会の約束として最後の抱擁の際にそっと忍ばしたのだろう。
和子の指先には、一夫の第二ボタンがつままれていた。
「おかーさん!」
和子は母親を呼びながら急いで家の階段を駆け下りる。
とにかく何かを始めよう。和子は未来に向けて走り出したのだった。
「ということで、ボタンを手がかりに一夫くんの学校を調べた私は一念発起。それから猛勉強の日々が始まったのよ、空っぽだった自分に何かを詰め込もうとがむしゃらにね・・・」
「それじゃ、芳山さんは深町君と・・・でも、芳山さんはまだ」
語られた内容を聞くうちに、愛子の嗚咽は治まろうとしていた。
深町一夫と芳山和子は再会できたのか?
しかし、未だ和子が独身であることがハッピーエンドへの期待を止めている。
愛子は祈りにも似た心境で話の続きを求めた。
「ちょっと演出が過ぎたかな・・・でもいいわよね。私も散々泣かされたんだから」
固唾をのんで自分を見つめる愛子に、和子は意地悪そうに笑うとスカートのポケットをまさぐり始める。
そして、取り出した指輪を自分の左薬指にはめたのだった。
「実は、私もう芳山さんじゃないのよ! 旦那の話聞きたい? 恋する少女は時をかけるって話・・・」
和子がこう言ったとき、背後の国道から車のクラクションが聞こえる。
その運転席に座る男を見て、愛子の顔が期待に輝いた。
「今、深町の奴一瞬消えたよな?」
「いや、実習生に押されてコケそうになっただけじゃねえ?」
口々に囁かれる級友たちの声に、深町一夫は元の時代に戻ったことを理解する。
戻った彼がすることは一つだった。
―――芳山和子を捜す。
彼女の制服、彼女の髪型から推測される年代など、たぐれる糸は僅かしかない。
一夫は教室を飛び出し、一刻も早く彼女の元に駆けつけようとした。
「待ちなさい!」
廊下を走り去る一夫を止めたのは、ジャージ姿の教育実習生だった。
度の強い眼鏡に数年後流行ることになるジャージ。
お下げ髪の風貌は、今年大学を卒業する花の女子大生にはとても見えなかった。
「悪いけど急いでんだよ、さっき突き飛ばしたことはチャラにしてやるから・・・」
「落とし物よ!」
実習生は綺麗な投球フォームで一夫の胸に何かを投じた。
俗に言う女投げではないフォームに、驚きの表情を浮かべた一夫は思わずそれを受け損なってしまう。
飛来したソレはキャッチボールの基本どおり彼の胸にぶつかり、そして小さな金属音を立てながら廊下を転がった。
胸にぶつかったソレは本来そこにあるはずのもの―――制服の第二ボタンだった。
「待ちきれないから来ちゃった」
眼鏡を外した実習生に一夫は何も言うことは出来ない。
「やっぱりボディコンの堪らん姿の先生の方が良かった?」
「いや、それよりずっといい・・・」
一夫は言葉少なに彼女を抱きしめる。
周囲の冷やかす声など、もうどうでも良かった。
ローカル線は海沿いの線路を走っている。
愛子は窓際に置いた机に腰掛け、外の景色をぼんやりと眺めていた。
―――それで指導教官からは大目玉、実習生のうちから淫行教師あつかいされたのって私だけかも・・・
昨日聞いた深町和子の言葉を思い出し、愛子は思い出し笑いを浮かべる。
二人の結婚までの道のりは決して平坦なものではなかったらしい。
しかし、二人の恋は自分が与えてしまった困難を見事に乗り越えていた。
―――時々二人で同窓会やりたいねって言っているのよ。どう?委員長、やってみない?
別れ際、二人からかけられた言葉に愛子は旅の目的を見つけていた。
夏はまだ終わらない。
自分には捉えてしまった青春の行く末を見届ける責任があるはずだった。
新たな決意を胸に、愛子は手の中にあるキップに視線を落とす。
そこには4つめのスタンプが押されていた。
―――――― 時をかける少女 ――――――
終
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