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〜time is right to move on ?〜


 「こんなに広かったんだな……」

 部屋を見渡すと、青年はそうつぶやいた。
 視界を占めるのは薄汚れた壁と一つの木箱だけ。
 わずかな家具や床を敷き詰めていたゴミの数々がなくなった部屋には、どこか侘しさが漂っている。
 高校からの一人暮らし。
 けして裕福とはいえない暮らしの中にも確かな幸せ、思い出があったのだと、そう思える自分がどこか誇らしい。
 部屋に残るシミの一つ一つが、この部屋を訪れた人達の足跡。




 亜麻色の髪をひるがえす、自己中で、意地っ張り、けれど可愛い所もある雇い主。
 きれいな黒髪を束ねながら、料理を作ってくれた心優しい少女。
 ドアを叩きながら、こちらの都合など全く聞かずにサンポをせがんでくる弟子。
 フラッとやってきては、お揚げばかり食べていたキツネの女の子。
 偉そうに訪ねてくるくせに、貧乏学生に金をせびるヨーロッパの魔王と鋼鉄の乙女。
 頼んでもいないのに授業のノートを届けてくれた吸血鬼と机の少女。
 聞きたくもないのに、週に一回は彼女とのことを相談しにくる虎男。
 勝手に入って飯を食うわ、厄介事ばかり持ち込む三白眼。
 文句を言いながら、なにやら世話を焼いてくれていたらしい道楽公務員。
 共に貧乏の味を噛み締めた、お隣さんと貧乏神。
 そして……誰よりも大きなシミ――幸せをくれた魔族の少女。

 「――――……」

 ぽつりと洩らした言葉が部屋に響き渡る。
 窓から入る陽光と、優しさと愛おしさの入り混じった視線が、唯一残った木箱に注がれていた。









 〜time is right to move on ?〜








 アシュタロスとの戦いから一月あまりが経とうとしていた。
 生き延びた喜びと喪った悲しみが入り乱れる混沌とした世界。
 少しずつ昔日の面影を取り戻そうとしている瓦礫と化した街並み。
 絶望ではなく希望? 希望ではなく絶望?
 その選択こそ生き延びた人に与えられた最大の権利。




 今なお残る心の傷に苦しむ人。
 悲しく幸せな世界に逃げ込む人。
 辛く、けれど踏み出すことを決めた人。
 傍で見守ることしかできない人。
 見守ることを決めた人。
 想いのるつぼと化した人の群れの中に、その日、乗り越えることを心に決めた少年がいた。








 狭く、汚い部屋の中央に大きな木箱が一つ。
 木箱を見つめる少年の表情はどこか硬く、噛み締めた唇は紫色になっている。
 少年と木箱の周りにあるのはどこにでもあるような生活品の数々。




 花柄の模様の入ったタオル。
 色違いの二本の歯ブラシ。
 揃いのティーカップ。
 いくつかの化粧品。
 日々の暮らしには不似合いな大きな工具箱。
 出合った時のワンピース。
 夏に着ると言っていたキャミソール。
 そして……銀色のバイザー。




 それは勢いだったのかもしれない。
 けれど、守ると誓った。
 どこに行こうと、どれだけの時が経とうと、ずっと一緒だと思っていた。




 逸る心を押さえながら共に過ごした日々。
 ときには言い争いもした。
 怒られもした。
 呆れられることもあった。
 けれど、次の日には仲直りすることができた。
 重ねた唇から伝わってきた熱と想い。




 少し目じりがつりあがった表情。
 ちょこんととんがる口元。
 抱きしめた時の少し強張った感じ。
 少しずつ許していってくれる感触。
 間近で花咲く君の笑顔。




 唇に、心に残った温もりは今も消えないのに。
 ただ君だけがいない。




 それはなんでもないような言葉だった。
 慌しく動いているはずの世界で、若者だけに許された箱庭の中での一コマ。
 机に開いた本の中に出てきた、何気ないセリフ。

 「Time is right to move on ! (前に進むべき時!)」

 不思議と心に残ったその言葉。
 あるいは違うのかもしれない。
 心の片隅にあったのに、目を背けていただけなのかもしれない。
 何気ない言葉は、少年の背中を僅かに押した。




 静かに、静かに夜はふけ、少年はゆっくりと木箱の中に、周りに散らばる思い出たちをつめ始めた。








 「――クン、準備はいい?」

 背後から自分を呼ぶ声に、青年は現実へと呼び戻された。
 明日から共に住むことになる妻を見て、青年は笑顔をつくる。

 自己中で、意地っ張り、けれど可愛い所もある妻にいらぬ心配をかけないように。
 誰よりも大きな幸せをくれた少女が安心してくれるように。

 「Time is right to move on ?」
 「え?」
 「いや、なんでもないっすよ。さて行きましょうか」




 きっと彼女もこう言ってくれるだろう。

 ―「Time is right to move on !」―


お久しぶりです。ダヌです。
仕事が忙しくて、久々の投稿になってしまいました。
これからもちょくちょく投稿させて頂きたいので、皆様、よろしくお願いいたします。
感想、ご指摘、ご批判、お待ちしております。

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