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梅雨

 梅雨に入ったというのに、まるで真夏真っ盛りのような日々が続いている。
 菖蒲や紫陽花を彩るはずの雨模様は、今回の夏には無縁らしい。
 花も木も虫も。人でさえも。誰もが暑さを憂い、天の恵みを望んでいた。
 降ったら降ったで、また文句を言うくせに。

 あまりの暑さに汗が止まらない。地肌の下に直に着用したシャツが汗で濡れる。
 クールビズには興味はないし、寒暖にもさして文句は言わない。
 しかしこれだけ暑ければ、最近騒がれるソレもあまり効果はないのではないか。
 そんなことを考えて歩くと、再び汗が流れてきて、今度は自分の眼に入り込んだ。
 微妙な痛みに、多少顔をしかめる。しかし歩みは止めない。

 目的地が見えてくると、墓周りを掃除している住職に遭遇する。
 つるりと禿げ上がった頭から反射される日光は、ある意味見事。
 そんなことを口にすれば大目玉なのも間違いはないと、場違いにも苦笑する。
 しかし、体は正直なもので、あまりの眩しさに、目元に手を添えてしまう。


「おや、今年ももうそんな季節ですか…」

「いつも、世話んなってます」


 添えた手は、どうやら挨拶だと勘違いされたらしい。
 ぶっきらぼうな、ともすれば無礼極まりない口調に何も言わない住職。
 それに感謝しつつ、不器用な自分に苦笑する。
 内心安堵しつつも、毎年変わらないこの光景に対して、自分の中での実感が増してくる。
 今年もここに来たのだと。決して忘れてはいけない、と。


「今年の梅雨は暑いですね」

「違いない。にも関わらず君は来た
 きっとお母さんも喜んでいるでしょう。雪之丞君。」


 母の命日に、母の墓に。






  ―――――梅雨







 乾ききった墓に思い切り水をかける。勿論、丁寧にという言葉を添えて。
 周りには目立った塵芥はなく、掃除が行き届いているのがよくわかった。
 と同時に、感謝の気持ちを。
 花を供え、菓子を供える。生前母親が好きだった菓子を覚えていたことは、雪之丞にしてみれば僥倖だった。
 こんなに暑いと、案外蝉でも鳴くのではないかなどと、ある意味無粋なことを考える。
 蝉は鳴かない。当然、鳴くはずもない。苦笑。
 しかしその手に淀みはない。しゃがみこみ、線香に火を灯し、手を添える。
 そしてそっと、目を瞑った。

 彼は沈黙し、遠くで聞こえる車の音はまるで幻想。




 どのくらいの間手を添えていたかは知らないが、ゆっくりと目を開ける。
 しゃがみこんだまま、この男にしては珍しくゆっくりと口を開く。


「今年の梅雨は暑いよ」


 母はどんな季節も好きだった。しかし、雪と梅雨は別だったらしい。
 幼き頃に母親と死別した雪之丞が覚えている、数少ない母親の記憶。
 雪と雨が好きだと嬉しそうに話しかける彼女は、今も強く印象に残っている。


――子供が出来たら、絶対に雪か雨をつけようと思ってたの


 そうしてつけられた雪、という己の名前。
 しかし雨の中で詠うようにして語ったその言葉は、同時に土に染み込む水のように。
 ゆっくりと、けれど深く雪之丞に染み渡らせた。

 雪がすき、雨がすき。だから冬と、梅雨は好き。
 いつしか彼もそんな感情を抱くようになった。


「ママの好きな雨は、実はそんなに降ってないんだ」


 大層不満げに、大げさに表現しながら。
 雨が降らない梅雨に自分は不満だ。ならば母親な当然のことながら。
 あくまで憮然としながら語るその口ぶりは、見ようによっては子供だった。
 年相応という意味ではなく、年以上に幼く見える、という意味で。
 そして何かが決壊したように、墓前で色々なことを語る。
 友達の事、自分の事、彼女が出来た事。他にも色々。
 身振り手振り大げさに、この男にしては珍しく笑顔まで振りまいて。


 遠くから眺める住職はその様子を見て微笑み、境内に引っ込んだ。


 そして雪之丞はあらまし喋った所で、ぴたりと挙動を押さえ。空を見上げる。
 雲ひとつない真っ青な空。嫌になる位、綺麗過ぎる空。


「雨、雨。降れ、降れ。母さんが
 じゃのめでおつかい、嬉しいな
 ぴっちぴっち、ちゃぷちゃぷ。らんらんらん」


 幼い頃に母親と唄った思い出の歌。一緒になって唄った遠い日の歌。
 思い出の中で二人は雨の中で笑い合っていた。
 決して濡れないように、けれど、とびっきりの笑顔で。


「雨…降らないんだ…」



 雨が好きだった。母とは違う意味で、好きに、なって、しまった。


 裏の仕事は綺麗なことばかりではない。
 肥溜めの中でもがいている方が余程マシな状態など何度あったことか。
 そんな自分を、血まみれな自分を綺麗に洗い流す雨。
 恵みの雨とは自然界ばかりにではない、人間にもあるのだと。
 知ってしまったある夏の日。

 後悔はない。懺悔もしない。
 ただ、苦しみを抱えるだけ。
 そんな自分が、どうしようもなく辛かった。



 決してそんなことを、たとえ母親の前ですら言わないけど。




「それじゃあ、そろそろ行くよ、ママ」

 気がつけば、日は若干傾き始めたようだ。
 腕時計を見ると時刻はすでに二時間以上も経っていた。
 立ち上がり、踵を返す。
 一瞬振り返り、墓を見る。幻想は見えない。
 一瞬で良い、母親が見たかった。笑顔の、母が。

 ソレを弱さだと感じてしまうけど。


 そして彼は帰路に着く。ポケットに手を入れて。
 思い出の歌を、決してあの頃には帰れない遠い日の歌を歌いながら。





「雨、雨。降れ、降れ。母さんが――――」








 雨は降らない

 実に八ヶ月ぶりとなります。ちゃんと出来てるか不安です(汗)
 今年の梅雨は暑いですね。それに触発されて。
 久しぶりにゆっきーでした

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