ザ・グレート・展開予測ショー

【夏企画SS】あの坂を、超えて。


投稿者名:とおり
投稿日時:(06/ 8/26)

そろそろ八月も末、新学期も始まる。
暦の上ではとうに夏は過ぎているのだけど、残暑っていうにはまだまだ日差しがきつい。
そんな日に、あたしは学校にいた。

「あっつーい・・・」

ぎらぎらした太陽はまだ空を下り始めたばかり。
特に教室は冷房も無いし、Yシャツが汗で体に張り付いてちょっと気持ち悪い。
周りは同級生ばかりだし、いいかな。
ちょっとだけあたりを確認して、襟元を指でくいっと引っかける。
通りが良くなった胸元に、手をぱたぱたと風を送り込む。





六道女学園霊能科は霊の活動が活発になる夏、とても多くの登校日が設けられる。
他の学校と同じく休みには入るんだけど、海辺、墓場、旧跡名所、そういった霊的な騒動が起こる場所だけでなく、人の多く集まる場所でも騒ぎが起こったりしやすい季節だけに、実習も兼ねた除霊作業や現場での講習、また訓練に、忙しく動くのが六道女学園の夏だった。

「本当に、この暑さはやってられませんわね」

「GSは夏がかき入れ時っていっても、除霊作業は夜がメインだろ? 今日みたいな講習も夜にしてくれればいいんだよ。そうすればちったあ涼しいだろうに」

弓さんと魔理さんがぼやく。
少しでも風があればいいんだけど、あたしたちの教室は2階の渡り廊下の隣で風が通らない。

「魔理さん、あなたここが学校だと言うこと忘れてるんじゃなくて。除霊実習ならともかく、講習を夜にする訳ないでしょう」

「・・・弓は堅い奴だね、全く。そうだったらいいなって、言ってみただけだよ」

「まあ、私も涼しければいいとは思いますけど。ところで魔理さん、さっきからお行儀悪いわよ」

二人はいつもの様に喧嘩をする。
でも今日は気だるさが勝っちゃうのか、机の上でスカートをはためかせて涼んでいる魔理さんを注意する弓さんの声にも覇気がない。

「いーじゃねえかよ、男が見てるわけで無し。授業だって終わったし、後はもう少ししたら帰るだけだろ」

「それは、そうですけど」

「ほら、おキヌちゃんだってあんなに大胆に胸元開いてるじゃん」

「えっ? えっ? 」

急に話題を振られてびっくりして、つい風を送っていた手を止める。
弓さんも振り返る。
風が気持ちよくて、さっきより一つ余計にボタンを外したから二人に見られると急に恥ずかしい。
胸元に視線を落とすと、ちらっと汗が光ってた。

「氷室さん、いくら教室の中とはいっても油断しすぎですわよ」

「ごめんなさい、あんまり暑くて」

弓さんは、身なりを整える事には普段から口をすっぱくして注意する。
雪之丞さんも普段から言われてるのかなと思うと、ちょっと可笑しい。

「うちの制服って、Yシャツの上にベストを重ね着するでしょう。だから、つい」

「タイをゆるめんじゃなくて、ベストを脱げばいいんでなくて? 」

「・・・あっ」

ぽん、と手を打つ。
そっか、そうすれば早いんだ。

「おキヌちゃんも、真面目なんだか抜けてるんだか」

魔理さんが苦笑いする。
手を下ろして、ボタンをかけ直そうと襟を引っ張る。

「いーじゃんよ、横島にその格好見せれば面白いことになるんじゃないの」

弓さんにいくら注意されても頓着しない魔理さんが、机からぽんと飛び降りる。
私の手を払い、さらにもうひとつのボタンを素早く外して開く。

「これでスカートの丈を膝上15センチとかに上げれば、ばっちりだろ」

「もう。私は美神さんみたいに大胆じゃありませんし、横島さんにこんな格好見せません」

どこかのオヤジみたいなんだから。
意地悪く笑う魔理さんは本当に楽しそうで、ちょっと小面憎い。
あたしはぷいと横を向いて、ボタンを留め直す。
つい、夏の暑い日は余所の学校のセーラーが良かったな、って思う。
今着ている淡い萌草色の制服も好きなんだけど、紺の襟元に3本線の入った白いセーラーは涼しげで、夏の日差しに負けずにきらきらとして見える。
もし着たら、なんて言ってくれるかな。
やだ。
こんな事を考えるのは、横島さんのせいだ。
少し前、おろしたての夏服を見せたときもぼけっとばかりして。
気の利いた台詞の一つもくれないんだもの。

「横島って言えばさあ。どうなの、あいつ。多少はスケベも直ったの? 」

「それはあの人の存在を否定しているような物だと思いますわ」

どういったらいいやら。
ひどい言われようなんだけど、多分に事実だし、否定のしようが無いのが困りもの。

「横島さんは、ああいう人ですから。あれで、優しいところもいっぱいあるんですよ」

精一杯水を向けても、二人は決まって苦い顔をする。
横島忠夫。
一つだけ年上の、美神除霊事務所の仲間。
あたしと、縁の深い人。
ちょっとお馬鹿で、とてもスケベで、だらしなくて、でもとにかくいつも元気があふれていて、だけど少しだけ寂しがりや。
幽霊時代からずっと一緒にやってきたから、あたしにはよく見える。
あたしにはわかる、それは嬉しいことでもあるのだけど、弓さんと魔理さんが未だに理解してくれないのはやっぱり寂しい。

「今日は横島さんと事務所まで行きますから、途中まで一緒に行きませんか? 」

でも、二人とも首を横に振る。

「ごめん。ちょいと用事がね」

「あたしは家の手伝いがありますの」

ついため息が出る。

「そうですか、じゃああたしは横島さんが来たら事務所に行きますから」

「・・・噂をすればなんとやら、王子様のお出ましですわよ」

お寺の跡継ぎなのに案外と西洋趣味の弓さんが、校門を指さして言う。
暑さで陽炎の立った先に、大きいかごに鞄が入った自転車を引いた横島さんがいた。
遠目に手で額の汗をぬぐっているのが見える。
横島さんも学校だったのか、襟を大きく開けた白いYシャツと真っ黒なズボンが視線の先でゆらゆらとしている。

「もう、やだ。王子様だなんて」

「六畳一間、風呂無しの王子様ねえ」

魔理さんはあぐらをかいて、膝にほおづえをつく。
なぜか六畳一間っていう言葉がなまめかしく感じられて、顔に赤みが差すのがわかる。
横島さんの部屋への訪問は幽霊時代からの習い性だ。
あんまり間をおかずに掃除や料理を作りにいったりしているから、あの部屋はすぐに間取りからなにから頭に浮かび上がる。
軽い割には閉めたとき大きい音が立つサッシの窓、そろそろ表を返さないといけない古びた畳、ちょっと端が浮いた白い紙の壁紙、奥には横島さんが大事にしてるモノが隠してある障子、机もなければ椅子もないのだけど、ちゃぶ台だけがぽつんと置いてある六畳間で、この季節は入り口のドアを開けると熱を持った空気がもわんと逃げ出してくる、そんな部屋だ。

「どうしたの、おキヌちゃん? 」

「いえ、なんでも」

その時先生が着席を促す声とともに教室に戻ってきて、皆は解放されるとばかりにばたばたとざわめいた後、すぐに静かになって、私たちはようやく下校となった。










「お待たせしました、横島さん」

「あ、お疲れ様」

下校する人の波を避けたのか、校門から離れた大きい街路樹の木陰で横島さんは佇んでいた。
強い日差しのせいか、道路は焼けたアスファルトの照り返しで暑い。
さほど待ってもらってはいないんだけど、横島さんのYシャツは汗でじっとりと濡れている。

「ごめんなさい、暑い中わざわざ」

「ん、どってことないよ。こんなのシロの早朝フルマラソンに比べれば、なんでも」

「このところ、毎日なんでしょう? 」

「そうなんだよ、全く。おキヌちゃん、今度あいつのご飯から肉抜いちゃってくれない? 」

「ええ、考えてみます。横島さんが倒れたら、大変ですものね」

二人でくすくすと立ち話をし、波が通り過ぎるのを待った。

「そろそろ行こうか。鞄かして」

横島さんはガードレールに立てかけていた黒い自転車を引き戻して、あたしの鞄を前かごに入れる。

「ちょっと待って」

横島さんは自転車に乗ると足を地面につけて踏ん張る。
ほら、と後輪のステップに足をかけるよう促す。

「はい、じゃ乗りますね」

横島さんの自転車には荷台が着いていない。
荷台をつけてくれればいいな、って思うんだけどなんでも荷台付きはかっこ悪いのだそうだ。

「肩借りますね」

「こんな肩でよければ、いくらでもどうぞー。お代はいただきませんから」

「お代が無いのも悪いから、今度好きな物作ってあげますね」

私は横島さんの肩につかまり、左のステップに足をかけてよっと一気に体を飛び乗らせると髪とスカートがたなびいて、静かに右足も乗った。

「つかまった? 」

「はい、大丈夫です」

肩の感触に、私は改めて横島さんを背中越しに見る。
筋肉が張っている堅い肩、大きい背中、がっちりした太い腕。
Yシャツ越しにも熱を持っている。
最近、やけにそれが気になる。
どうしてだろう、毎日見ている人なのに。

「あんまり急ぎでも無いし、ゆっくりいくよ」

「あ、はい。まかせます」

アスファルトをやっと蹴り、横島さんがペダルをこぎ出すと自転車はゆっくりと進んでいく。
横島さんも慣れた物で、あまりふらついたりはしない。





六道女学園から池袋の事務所までは、ローカルの私鉄で5駅ほどと案外近い。
行こうと思えば歩いてもいけるんだけど、今日の様に横島さんが来てくれて自転車で向かう事もあった。

「横島さんが来てくれて、助かります。こう暑いと、どうも歩くのもおっくうだし」

「事務所に着くまでにゆであがっちゃうよね」

「じゃ、冷たいシャワーなんか浴びたら温泉卵になっちゃいますね」

「違いないね。あははは」

なんという事もない話をしている間に、自転車はどんどん進む。
このあたりの道路は入り組んでいて道幅も狭くて、歩道も無い事が多いので、あまり自転車の速度は上げられない。
どうしても緩やかに進んでいくのだけど、こういうお話をしながら向かう道のりは私には楽しみの一つ。
道をぬってすいすいと走る自転車は風を受け気持ちが良くって、いつもより高い視点から見る街はどこか新鮮で面白い。
時折通り抜ける風がいたずらをして、スカートが不安になるのは困りものなんだけど。

「ね、横島さん」

「なに? おキヌちゃん」

「きつくないですか? 」

「ううん、まだ全然疲れてないから。例の公園で休もうよ」

「そうしましょうか」

入り組んだ道の両側は住宅が多くて、視線の先には道幅ぎりぎりまでせり出したドアや勢いの良い植木、かわいらしく咲くネムノキ、通りを挟んでひかれている電線などが目につく。
こういった暑い日には、生け垣に水やりをする肌着姿のおじさん、軒先に打ち水をするワンピースのおばあさんがいたりする。
時折通るのを覚えてくれているのか、私は目配せで挨拶してくれる人にちょこんと頭を下げる。
あまり出歩いている人はいない。
みんな、クーラーを効かせた部屋でお昼寝をしているのかもしれない。
気づけばもう、ビルが建ち並ぶ大通りに出た。
環状線にもなっている道にかかる長い歩道を渡って、また小道に入るとすぐに開けた公園がある。
私と横島さんは、よくここのベンチで涼を取る。
とても広いから一目に見渡せはしないんだけど、大きな長方形の形をしたその公園は、自然公園の趣を持っている。
舗装されていないむき出しの土が熱を吸って、またたくさんの木立のせいか同じ気温でも、街中よりぐっと涼しい。
晴れの日には緑の鮮やかさが一層際だち、それが楽しい。
今日もまた、その近くを通りがかると、横島さんが言った。

「じゃ、休んでいこうか? 」

「はい」

横島さんがキッとブレーキをかけるとすぐに自転車の速度は落ち始める。
やっとステップから飛び降りて、とん、と着地すると横島さんも自転車を降り、二人で公園に入る。
少し足を踏み入れただけでそれと分かる気温の違いに、そろってふうと息をつく。
同じように涼みに来ているのか、公園には人が多い。
出店もいくらか出ていて、今の季節はかき氷やアイスキャンデーを売る店が出ている。
冬や秋にはたこ焼き屋や焼き芋屋も出たりするんだけど。
ミンミンミン、シャクシャクシャクと入り交じる蝉の声に負けまいと、美味しいよ、美味しいよと店員さんが鐘を打ち鳴らす。
通る風にさわさわと揺れる葉の音と同じように、とても涼しげだ。
声にひかれて私は2本バニラのアイスキャンデーを買った。
近くのベンチに腰を下ろしていた横島さんに、はい、と渡す。
キャンデーを、木陰のベンチで並んで一緒にほおばる。

「んー。冷たくって美味しいっ」

「うん。美味しい。ここのバニラ、特に美味しいし」

「そうですよね。手作り、って書いてますけど、どうやって作るんでしょうか」

「おキヌちゃんが目をうるうるさせて上目遣いに、お願い、って言えば教えてくれるんじゃない? 」

おどけてその様子を真似する横島さんに、私はぷいとこぼす。

「そんなぶりっ子な真似しませんよー」

わざといかめしく、がつがつとキャンディーをほおばる。
するときーんと冷えた冷たさが歯にしみて思わずしかめっ面になって、それを見た横島さんが可笑しげに笑う。

「ゆっくり食べようよ」

「もうっ」

横島さんは、相変わらず美味しそうにキャンデーをなめている。
座る体勢を変えて、その時ちょっとふれた肩に気を取られる。
私は一呼吸置いて、一緒に空の雲みたいに白いバニラキャンデーを食べる。
濃い緑のにおいを風が運んできて、それが牛乳の香りとやけに合う。
牛さんがいつも草をはんでいるからかしら、などと思ってなめていると横島さんが顔をのぞき込んでいるのに気がつく。

「いや、また難しそうな顔してたから。そんなに染みるのかな、って」

「もう、嫌な横島さん」

気恥ずかしかった。
空いていた左手で、こつんと横島さんの肩をたたく。
先ほどまでしっかりと握っていた肩は、たたいてもやはりみちっと詰まった感じがした。
あたり前の事だけど、横島さんは男だ。
ボタンを前で2つ3つも外した白いYシャツとタックの入った黒のズボン、ずいぶんと簡素な制服はその証だ。
自分のタイを指でいじりつつ、ひだの入った釣りスカートから足を投げ出した。

「横島さん、また少し大きくなりました? 」

確かめるように声をかけると、横島さんはちょっとだけどね、と事も無げに答える。
18歳になった横島さんはさすがに身長はほとんど伸びてはいなかったけれど、肩もそうだけど最近は特に全体ががっしりとしてきた。
大きい足、張った胸板、広い手、ずんとした首。
こうして近くで並んで座っていても、シャツの下の線がずいぶんと太いのが分かる。
私は日に日に丸みを帯びてきて(太ってはいないけどね)、なでた肩、細い腰、軽い腕や、ほどよく肉のついた足を見るにつけ、自分は女なのだと意識せざるを得ない。
ついこの前まで、幽霊だった時だけど、どちらかと言えば細くて頼りない印象だった横島さんの面影は着る物は変わってもいないのに、あまり残っていない。

「ね、おキヌちゃん」

キャンディーから口を離して、横島さんが話す。

「幽霊時代にさ、海辺のホテルで除霊した時があっただろ。あの時、浜でおキヌちゃんなんて言ったか覚えてる? 」

「えっ? うーん、何か言いましたか、私」

すると、横島さんが右腕に力こぶを作る。
Yシャツを押しのけて盛り上がった筋肉を見やると、横島さんがにやりとする。

「監視員してた俺の双眼鏡を取って、あの人たくましーって」

「えっ。あ・・・」

そうだ、私そんな事言ったかもしれない。

「どう。今の俺は、少しはたくましい? 」

いつもの笑顔で、横島さんが問いかける。
私は急に胸が詰まって、何も言えない。
それが照れなのか、驚きなのか、呆れなのかは良く分からない。
だから、気持ちを隠したくて、つい私も力こぶを作る。

「私もなかなか、負けませんよ」

ぐい、と両手でポージングしてみる。
なにそれ、と横島さんは大声で笑う。
生き返ってから2度目の夏、横島さんの高校生活最後の夏、変わったことも変わらないことも多くて、それが嬉しかった。
木の香りと一緒にほおばっているキャンディーは、少しずつ溶け始めている。

「キャンディー」

「なに? 」

「美味しいですね」

「うん。美味しいね」

そう言いながら、シャクシャクと口にする。
横島さんも時折同じように噛み下しながら、ぺろぺろと味を楽しんでいた。

「おキヌちゃんのところ、夏でも本当に授業多いよね。霊能科だから、当たり前っちゃ当たり前なんだけど」

「なんでだか、幽霊が活発化しますからね。お彼岸とか関係してるのかもしれませんけど」

「幽霊やってたおキヌちゃんでもわからない?」

「わかりませんよ」

「そうか。それが分かったら、少しは除霊が楽になるかなとか思ったんだけど」

この前、なけなしのお給料で買ったばかりのコンバースで土をつついてほじくり返すようにしながら、横島さんが言う。
私も足下の土を見て、それから正面の広場に視線を戻した。
ここを通り抜けに使っているのだろうスーツを着た男性や、土の上で走り回る幼稚園から小学生くらいの子供たち、日傘をさして見守る若いお母さんや、サンバイザーとサングラスや軍手にタオルと重武装してランニングするおばさんなど、暑い中公園はたくさんの人がいて、がやがや騒がしい。

「どんな幽霊も、ああして生きてた時があったんだな」

「いきなり幽霊になる人はいませんよ」

くすりと笑う。

「そうだよね。小さい女の子もサラリーマンも、学生もおばあさんも、みんなちゃんと生きてて、それで幽霊になったんだよな」

「ええ。それを迷わないように成仏させてあげるのが、私たちですよ」

「ネクロマンサーらしいね。美神さんならお金儲けが優先で、とか言いそうだけど」

「今頃くしゃみしてますよ、きっと」

そうだねと笑いながら、横島さんはキャンデーを食べ終えて残った棒を口で上下に遊ぶようにする。
お行儀が悪いですよ、そう注意しようとした矢先、横島さんは不意に背中をベンチに投げ出す。
少し強い風が通り抜けて、ジッと鳴き声がして蝉がどこかへ飛んでいった。
横島さんは伸びをすると勢いをつけて立ち上がり、私に右手を差し出した。

「ゴミ捨ててくるよ」

「あ、お願いします」

同じように棒だけになったキャンディーの包み紙と一緒に渡す。
ひとまとめにすると、横島さんはゴミ箱の近くでそれをぽんと投げ入れようとして、箱の縁に当たって落ちた。
あー、と残念そうにしながら拾い上げるとぽんと今度はちゃんと入れ、こちらに戻ってきた。

「最初からちゃんと入れればいいのに」

「どうも、ああいう大きいゴミ箱を入れると投げたくなるんだよね」

「そういうものですかね」

そろそろ行きましょうかと立ち上がって問うと、そうだねと横島さんは自転車を引いて出口に向かっていった。
コンバースには、先ほど起した土がまた残っていた。










自転車は、またゆるやかに進んでいた。
やっぱり熱を持った道はとても暑く、ペダルを漕ぐ横島さんはさっきよりも汗が噴き出していたけど、それでも少しずつ、池袋の高層ビル群がほど近いところまでに進んでいた。
ガードレールはいつにもまして白くて、街路樹のケヤキは力一杯に枝を広げて日の光を独占しようとして、そのおかげで下を歩く人たちはわずかばかりの涼を得ていた。
時折大通りから、救急車だろうか。
ピーポーと他の車のエンジン音に混じって甲高い音が聞こえ、とぎれたかと思えばまたすぐにフォンフォンと離れていく。
多くなってきた通行人の邪魔にならないよう端をかき分けるようにして走りながら、それでも電柱や店の出し看板などがつっかかって、ふらつく度に私は横島さんの肩をぎゅっとつかむ。

「大丈夫ですか、横島さん? 」

「今のところは。さすがにあの坂はきついだろうけどね」

あの坂。
美神さんから聞いたのだけど、平野とは言っても東京にはたまに小高い丘があるのだそうだ。
高いビルの足下、戦前の趣を残す雑然とした街の中に美神事務所はあるのだけど、六道女学園から行くには、どうしてもその丘を通り抜けざるを得ない。
そしてここは東京の中でも一二を争う高さがあった。
しかし丘だからやっぱり、それほどの高さはないのだけど、ややきつい斜度の坂が自転車で登るには厳しいといっていいくらいに続く、そんな、あの坂。

「今日こそは絶対登り切ってやると思ってるんだけど」

「私、言ってるじゃないですか。降りるって」

「駄目。俺がギブアップするまでは、おキヌちゃん乗ってて」

「ん、もう」

横島さんは迎えに来る度毎回の様に、どうしてか私を乗せてその坂を登り切ろうとしていた。
勢いをつけて坂に入っても失速してしまって、結局私が降りて自転車を押していたのだけど。
もうすぐ取り壊しが始まる5階建ての官舎の前を通り抜けて角を曲がると、その坂が目に入る。
せり上がりながらわずかに右に曲がっていく道は、今日はなぜだか高さ以上にきつく見える。
やめましょうよー、という私の声も聞かずに横島さんは速度を徐々に上げる。
坂の上には逃げ水が見える。
それを捕まえようとしているのか、横島さんは足に力を込める。
日が照りつけた長めの坂を、トラックやワンボックスが軽々と登っていく。

「それじゃ行くよ。つかまっててね」

「きつそうだったら、すぐ降りますから」

返事も聞かずに、横島さんは坂に突撃する。
ついていた勢いもすこし坂を登ると消えて、いつもの様に横島さんの足取りはだんだんと重くなる。
なんとか右に、左にと自転車を押し出していく。
や、ほっ。
坂の半分ほどまで来た頃には、横島さんの息も上がり始めた。
ペダルに体重をかけてやっとひとすすみ、それを繰り返して登っていく。
横島さんの背中に力が入っているのが、私からは良く見て取れる。
時折ミンミンと鳴く蝉の声がゆっくり耳元を通り抜ける。

「そろそろ降りましょうか? 」

「まだ・・・今日はいけそうな気がする」

そう言って苦しそうながらも着実に、横島さんは坂を登っていく。
すると、どうだろう。
えいこら、えいこら。
チェーンからギコギコと反復する音が、まるで応援でもしている様に聞こえ始めた。
今までで一番登ったはんこ屋の前を超えて、道が右にそれ始める。
横島さんの息も、んーしょ、んーしょ、と苦しそうだ。
私も、つい、口をついて言葉が出た。

「頑張って、横島さん」

半年ほど前に立った白い外壁の高層マンションを左に見て、なおも進む。
赤いポストを超えて、左に抜ける小道の段差をかつんと過ぎる。
陽炎が立ちこめる坂の上は、もうすぐそこだ。

「横島さん、すごい。ほら、てっぺんまでもうすぐですよっ」

足に力を入れるあまり、つい下を向いていた横島さんに私は大きな声で伝える。
坂の上の交差点、目印の信号がいつもと変わらない様子で立っている。
歩行者が青になったのか、待っていた人たちが一斉に道を横切って歩き出す。

「いよっ・・・しっ。あと、ちょ・・・と」

「いち、に。いち、に」

私も横島さんに調子を合わせる。
息を併せて、いちに、いちに、と。

「いち、に・・・」

横島も答える。
ふたりして数えて、どれだけ進んだろうか。
程なく、信号を通り過ぎた。

「やった、てっぺん到着ー! 」

「やりましたねっ! 」

歓声を上げる私たちに、何事かと行き交う人たちが振り返る。

「あはは、すごい横島さん」

「や・・・ったね。どう、おキヌちゃん。俺、たくましー、だろ? 」

ちらとこちらを見て、横島さんが言う。

「はい! たくましー、ですっ」

とうとう開けた空はとても広くて、そして青くて、遠くに真っ白な入道雲がまるで力こぶを自慢しているようにそびえ立っていた。
交差点の周りは強い光を受けて、色がとても濃かった。
なだらかに長く下る道にはクスノキの並木が青々として、道のずっと先まで碧の影を道に落としている。
横島さんはようやくとばかりにペダルを足から離し、自転車が下るに任せている。
私はその時、自分の手がずいぶんと熱い事に気づいて気恥ずかしく、片方ずつさますようにして数瞬離す。

「頑張りましたね、横島さん」

「まあね」

得意げな横島に、笑いがこぼれる。
通り抜ける風がとても心地よくて、次々に自分たちを上から影が過ぎていく。

「ね、横島さん」

「なに? 」

「どうして、坂を登りたかったんですか? 」

「うーん。特に理由がある訳じゃないんだけど・・・。ただ」

「ただ? 」

私は弾んだ声で、聞き返す。

「もう、最後が近いなあって。おキヌちゃんと、こうして高校の帰りに自転車で、ってのも」

「それだけ、ですか? 」

「そう。それだけ」

あっさりと、当然と言った風に横島さんが言う。

「なんですか、それ。変な横島さん」

「変かあ。変かなあ」

私はつい、困り顔になる。

「高校の夏に、二人して学校帰りに乗るのも最後。お互い制服着てさ」

「・・・来年の3月には、卒業ですものね」

「そう考えたらさ。なにか、やりたくなっちゃってさ。でも、やってからじゃないと、おキヌちゃんに言っても、かっこつかないし」

「ふふっ。今日の横島さんは、かっこよかったですよ」

「そう? 」

とぼけた声に、大きな声でおキヌは笑う。
短い髪にバンダナを巻いた横島の、気持ちが嬉しい。
つと、思う。
いつも自分の気持ちに素直なようでいて、それでいてどこか遠慮がちな横島さん。
今、心地よさそうに風を受けハンドルを握っていて。
後ろ姿は、除霊の時にも見慣れている。
十分に見知っている、いや。
そのつもりでいた私は恥ずかしい。
横島さんの気持ちがまぶしい。
だから。
もっと横島さんの気持ちに触れてみたい。
いろいろな事を、どんなちいさな事でもいいから、聞いてみたいと。
それが、どんな馬鹿な事でも、声に出して聞いてみたいと。
横島さんの答えが、あたたかいものだけじゃなくてもと、そう思った。

「ね、横島さん」

「なんだい? 」

「夏服はこれで最後かもしれませんけど、冬服もあるんですよ」

「あー。そうかあっ」

今更気づいたように、横島さんが声を上げる。
あちゃあ、と顔に手をあてて苦笑いしていた。
誰が植えたのか、鮮やかに咲くひまわりの横を通り過ぎる。

「だから、ね。横島さん」

私は顔に口を近づけて、そっと横島さんに耳打ちする。
自転車は、ゆっくりと気持ちよさそうに坂を下っていく。
てっぺんと同じように、逃げ水が見える先を回れば、美神事務所はほど近い。
日差しはまだまだ強いが、通り抜ける風は、とてもとても心地よいものだった。




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