ザ・グレート・展開予測ショー

リストラ姐さん!


投稿者名:すがたけ
投稿日時:(06/ 7/20)

 西条輝彦の朝は、クロワッサンと濃いブラックで始まる。

 『日本人なら、朝は銀シャリと味噌汁やないとあきまへん!』と言っているキヨには悪いが、こればかりはロンドン時代から続けている譲れない習慣だ。

 確かに、栄養バランスでは和食の方が大きく優れているだろう。だが、珈琲の醸し出す香気とカフェインは意識をスムーズに覚醒させてくれる。

 I・C・P・O(国際警察機構)超常現象対策課―― 通称『オカルトGメン』の日本支部を実務レベルで切り盛りするあまり、睡眠時間を削ぎ落とすほどに多忙を極めている西条にとっては、起き抜けの思考を一気に起ち上げてくれるこのメニューは外すことは出来ない。

 冬も終わりを告げ、巷が年度の終わりの頃を迎えているこの時期には尚更だ。

 新人の育成や人事の異動に伴って大きく様相を変える対霊チームの調整、そして、容赦ない査定に絶望したことで市井に産み落とされた自殺者の怨霊への対応―― 近づく春の陽気に誘われて、花もその蕾を綻ばせるこの季節にあってもなお、愛でるべき花に目を留める暇もないほどに慌しさを増すこの時期の朝を出来るだけ素早く、且つエレガントに乗り切るには、白いご飯と味噌汁、そして炙ったメザシという取り合わせではどうにも収まりが悪いのだ。


 笑うなかれ。何時如何なる時も紳士たるべし、という矜持を胸に秘める西条にとって、その程度の拘りも彼のスタイルを構築する重要な要素であることに変わりはないのだ。


 本格的なキッチンを持たないオフィスに泊り込んだ故に簡素ではあるものの、英国式のスタイルを崩さない程度の朝食を十数分かけて終えた西条は、食後の珈琲を口に含みつつ、翌月一日付で日本支部に入ってくる新人の履歴書に目を落とす。

 ―― ピート君、か……唐巣神父には悪いが、彼がオカルトGメンに入ってくれるのは助かるな。


 オカルトGメンの持つ最大の力は『組織の力』であるといっても過言ではない。

 その最終的な目的があくまで『市民生活を脅かす霊的存在の除去』である以上、個人レベルではどうしようもない強大な敵を相手にしてもなお、膨大な資料と精密な検索能力があれば、相手の正体と傾向を掴むことは容易く、それに応じた対処が出来る。

 だが、逆を言えば、相手の正体と傾向が掴めない状況に追い込まれた場合には、出てきた相手に対処する、所謂対症療法を取るより他になくなってしまうという弱点をも内包している。

 そういった場合の臨機応変さは、民間GS……特に、文句なく世界最高のGSの一人に数えられる美神令子のような何でもありの戦法を得意とする手練にはどうしても一歩及ばない。


 つまるところ、オカルトGメンには、いざという時に強引に局面を打開できるような『強力な個』が足りないのだ。

 その意味では、この春からオカルトGメンに加入する半吸血鬼の少年の存在は、西条にとって心強いものであった。


 ―― 彼なら、いいGメンになるだろうな。

 そう胸の内で呟き、西条はさらに一口珈琲を含む。

 その時―― けたたましい音を立ててオフィスのドアが叩かれた。

 その無遠慮なノックに西条が席を立つより早く、扉が開かれる。

 あまりに慌てた表情の、亜麻色の髪の美女―― 美神令子の顔がそこにはあった。

「……ど、どーしよー、西条さん!」

「ど、どうしたんだい、令子ちゃん?」
 ただならぬ気配に尋ねる西条の耳に、美神の次の言葉が飛び込む。

「えっと……何時の間にか―――― 横島クンをクビにしちゃってた――――っ!!」

 思わぬ一言に、西条の目が点になった。





 【リストラ姐さん!】




 時はやや遡る。

 美神令子が慌てて西条の下に駆け込む時より数えておよそ18時間前、かねぐら銀行一ツ橋支店の支店長室で、美神令子と横島忠夫は支店長の言葉に耳を疑っていた。

「首切り妖怪?!」
 二人が異口同音に疑問の声を投げかけるのも無理はない。そのような危険な妖怪が出るというのなら、美神事務所に居候である犬神二人を置く切っ掛けとなった『切り裂き魔事件』よりも大規模な報道が為されることは言うまでもない。

 が、それが一切ない。

 美神がいぶかしむのは致し方ないところだ。

「信用……出来ませんか?」美神から投げかけられる疑いの眼差しを真っ向から受け、支店長は続ける。「ですが、我が行のみならず、この辺りの企業ではこの『首切り妖怪』に悩まされているのですよ」

 その言葉と視線には嘘は感じられない。

 支店長の言葉が内包した迫力と正体の知れない相手にビビったのだろう……腰の引けた声が美神の左側から聞こえる。
「『GS美神』でそんな物騒な妖怪が出るなんて聞いたことないっスよ。作品間違ってないん……べぶぅ!」
 いささか危険な台詞を吐いた報いとして、美神の裏拳が横島の顔面にめり込んだ。


「で……では、証拠をお見せいたしますので―― 被害者に会いに行きましょう」
 目の前で繰り広げられる血塗れのド突き漫才に引いたのだろう。静かな口調で言おうとして果たせなかった、やや引きつった表情で支店長は言う。

 その言葉を受け、横島の襟首を掴んだ上でさらに追撃の平手打ちをかます美神の顔が、怪訝な色に移り変わっていた。
「何で被害者?!遺族や目撃者に心当たりがあるかどうか話を聞くのが筋ってモンでしょうがっ!!」

 あまりの不可解に、美神は相手が依頼人であるにも関わらず、思わず疑問と苛立ちが交じった口調で応じてしまう。
 が、迫力十分のその口調に対してもなお、白いものが多分に含まれた眉を動かすことなく―― 「いえ……『被害者』です」支店長は苦々しさを滲ませながら断じた。
































「『首切り』ってそっちの意味かい!!」
 
 支店長が仕立てたハイヤーに揺られてしばし―― 『そこ』に辿りついた時、横島は思わずツッコミを入れてしまっていた。


 『そこ』はあらゆる人々が職を求めて集う場所―― ハロー○ーク―― 横島ならずとも、ツッコミ入れたくなるのも無理からぬことであった。

 だが、支店長にツッコミを入れるのはまだマシな方だ。
「うう……こんな貧乏神の巣窟で聞き込みだなんて……キャンセルしようかしら。近づいただけで貧乏が伝染りそうだわ」
 美神に至っては、無茶苦茶な暴言を口の端で呟いていた。

 そんな暴言はさらっと無視すると、支店長はスーツ姿でモニター前に座る三十代半ばの男に語り掛ける。

「坪内君……考え直してくれないかね。君にまで辞められてしまうと、我が行は立ち行かなくなってしまうんだよ!」

 支店長の熱のこもった説得を意に介することなく、坪内という男はタッチパネルを押して次の画面を呼び出すと、呼び出された画面に映る消費者金融の営業職の詳細に視線を向けたまま応じる。
「そうは言っても、社外の者どころか人間以外のものを使ってまでリストラを勧告するなんてことをやったのはそちらの方じゃないですか!私はあなた達のそんな態度に絶望したから辞めたんですからねっ!」

「だからそれは違うと……言っているじゃないかっ!!」
 そう言いながら支店長は坪内の肩を掴み、自分の方に向けさせる。

 支店長の強引さに対して増した、坪内の敵意に満ちた視線が二人にも露わになった。

 と、坪内の煮えたぎる熱を孕んだ視線が、急激に怯えのそれに変わる。
「ひ、ひぃっ!ホラ、そこ……そこにいるじゃないですかっ!!」

 だが、その人差し指が指差す先にある美神の顔をまじまじと見つめると、坪内の怯えは徐々に収まりを見せた。
「いや……違う、か。身体つきは似てるけど、顔も髪形も違うし……何より、こんな流行から微妙に取り残されている派手なイケイケボディコンじゃなかった」

「ぬぁんですってえぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!」
 初対面の人間に好き放題言われたことが癇に障ったのだろう、美神は坪内の襟首を掴んで凄む。
「み、美神さん……落ち着いてっ!!」

「ひっ!
 兎に角、私はもう辞めたんですから、これ以上私につきまとうのはやめて下さいっ!」
 横島の介入によって怯えの鎖から解き放たれ、再び不機嫌さを取り戻した坪内は支店長の手を振り払うと、画面に映る求人票のプリントアウトを開始した。


 ハロー○ーク独特の重苦しい空気の中、支店長はエントランスのソファに座って嘆息する。
「……と、被害者はおおむねああいう状況です。
 何の前触れもなく突然辞表を提出しまして、理由を尋ねても、皆一様に『絶望したッ!人間以外のものを使ってまでリストラを勧告するなんて、絶望したッ!!』と言った具合に人間不信に陥っておりまして……今のようにいくら慰留しても聞く耳を持ってくれないのですよ」

「でも、よくよく考えてみたら、そんな辞表なんて受理しなけりゃいいだけなんじゃないの?」

 怪訝な表情で尋ねた美神に、支店長は嘆息して応じる。

「そこが不思議な点でして……こちらで作成される手続書類もなぜか完璧に出来てしまっているんですよ―― 前日までは誰もそんな書類を作った覚えなどないというのに」

「……んなアホな」
 美神は絶句する。

 無理もない。狐狸の類のような『化かす』妖怪は、幻覚を見せることで対峙する者に多大な影響を及ぼすことに長けているが、その効果は一元的、且つ局所的なものであり、このように多面的な効果を同時に及ぼすことは出来ないのだ。

 これまで美神達が潜り抜けてきた『非常識』の中でなお培ってきた『常識』ともなお大きくかけ離れている。

 呆気に取られ、絶句する以外にはなかった。

「ともあれ、リストラ対象の行員ならばまだしも、『妖怪にリストラを勧告された』と言って辞表を提出した大半の行員は各々の部署の中心的な役割を担っていまして―― これからの決算時期にそういった行員を失うのはあまりにも痛手なのですよ。
 彼らの提出した辞表は今のところ私の預かり、ということで有給扱いとして処理してはいますが、もしもこのまま彼らのような各部署のエキスパートがいないことが原因で手続きが遅れたりしようものならば、我が行全体にも影響が出ることは必至です。
 お願いします!彼らを惑わせた『首切り妖怪』を退治してください!」

 改めて頭を下げる支店長に、暫しの瞑目を経て美神は応じる。
「……判ったわ。もしあなたのところが潰れてしまったりしたら、預金が億単位でパーになってしまいかねないからね」

「億単位って……そんなに預けてたんかい……アンタは?」
 乗り気にはなれないものの、仕方ない―― その感情を語調の端々に乗せ、溜息とともにうそぶく美神に―― 横島は呆れながら呟いた。

























「こんなことなら、おキヌちゃん達にもこっちに回ってもらえばよかったわね」
 両目を覆う霊視ゴーグルを一旦取り外し、亜麻色の髪の美女がどっと疲れた声音で愚痴るようにこぼす。

「まぁ、話を聞く前じゃあ、データにないような厄介な妖怪を相手にするとは思ってもいませんでしたからねー」
 美神の言葉を受け、同じく疲れた目をしばたたかせた後、横島は赤いバンダナを巻いた頭を二、三度振ることで疲労した思考を辛うじて覚醒させる。

 被害者からの情報を総合し、最も『首切り妖怪』との遭遇例が挙げられた東京駅の改札前で眼を皿のようにして張り込むこと四時間―― それまでも人の流れは多かったが、いよいよ時刻は午後5時を回り、帰宅ラッシュもまた本格化する。

 すなわち、張り込みにかかる負担は倍増……いや、爆発的に膨れ上がるといってもいいのだ。

 そういう状況であるにも関わらず、おキヌら三人は漁場に出没する船幽霊の除霊という任務のために地方に飛んでおり、今すぐに増員を頼むことも出来ない。芳しくない張り込みに集中力を大きく殺ぎ落とした二人が来たるべき悪夢の如き時間を前に愚痴るのも無理もないことではあった。




 だが、愚痴るだけではどうしようもないことは美神も承知している。

 何らかの対策を講じない限り、このまま最悪の時間帯へと歩を刻むだけ―― それだけは避けなければならないのだ。


 故に、美神は『その結論』に達し、言葉を紡いだ。

「そうよねー。こんなことになるって判ってるんだったら、おキヌちゃん達の仕事の日程をずらしてでも交代要員を用意しとくんだったけど……コレじゃ仮に標的を見つけたとしてもヘトヘトになってるわよねぇ」

 言葉とともに美神の視線が蜘蛛の糸の如くに横島を絡めとる。

 話がまずい方向に流れ始めたことを察知した横島だが、その場に呪縛されたかのように視線から逃れることが出来ない。

 ―― ああ、『蛇ににらまれた蛙』っちゅーのは、こーゆーのを言うんやなぁ。

 流れる冷汗を背中に感じつつ、己の状態を冷静に俯瞰する。

「だから、横島クン―― 」
 ―― 来た!

 長いアルバイトによってすっかり身についてしまった習性だろう―― 話題が決定的な分水嶺に達したことを察すると、横島は思わず、というよりもむしろ『反射的』や『本能的』という言葉が相応しい速度で身構えていた。


 逆らっても無駄だ、ということは判っている。

 というより、表層ではどう思っていようとも、その意識の深層には服従したい、という欲求が蟠っているのではないのかと自分自身を疑っている節すらある。

 だがしかし、抵抗せずに進んで受け入れることもない。

 結果として抵抗虚しくやり込められ、いつものように煩悩の髄から支配されていることを証明するだけであろうとも、胸に一欠片の矜持がある以上、抵抗を選んでしまうのもまた、男の性分というものなのだ!

 一応の反論を試みるべく、覚悟を決めて下腹に力を込める。








 やや緊張しつつ、目の前の雇用主の無理難題に応対しようとしたその一瞬―― 横島の視界に影が差した。

 突然の影に違和感を覚えた横島の肩を、僅かな重みに柔らかさを伴った何かが、とん、とん、と軽く叩く。

 右肩に受けた突然の衝撃に、狼狽と僅かばかりの恐怖ともに周囲を見回そうとする。

 『振り向くな』―― GS見習として培ってきた勘が、狼狽する自分を押さえ込もうと警鐘を鳴らす。

 だが、心に落ちた僅かな恐怖は、ごく短い時を経て、本能を容易く凌駕する域へと増殖を遂げる。

 本能が、欲求に負けた。

 首だけを向けたそこに―― 横島は平和そうな笑みを浮かべる女性の姿を見た。


 頭の上でアンテナよろしく逆立った二本の癖っ毛が特徴的な、豊かな栗色の長髪と、身長以外では美神にも引けを取らないであろうことが見て取れるその質感―― その身に纏うゆったりとした薄いベージュのセーターとやや灰色がかった緑のロングスカートでもそのラインを隠すことが出来ないどころか、逆に頭部以外の肌を徹底的に隠したことで生み出された曲線によって、豊かさをさらに強調される肢体―― 神に愛された一握りのもののみが持つことの出来る、自然な造形美がそこにはある。

 だが、なによりも『彼女』がその両手に持つものが、普段ならば「ちちしりふともも――ッ!!」と言って飛び掛るであろう蠱惑的な肉体以上に横島の意識を捉えていた。

 右手にあり、横島の肩を叩いた肩叩きつきの孫の手、左手に持たれ、横島の頭上に影を差した日傘―― この二つによって引き起こされた言い知れない不安……それが、美女と見れば飛び掛かる横島の野生を封じ込めていた。

『あのぉ、あなたーぁ?』
 柔和な笑みを絶やさぬまま、『彼女』が横島に声を掛ける。

「―― 私は近くで待機してるから、張り込みは頼んだわよ♪
 見つけ次第連絡を入れて……って、聞いてるの、横島クン?!」

「え……ちょ、ちょっと、美神さん!?」
 目の前にいるじゃないスか―― そう続けようとして、やっと気付いた。

 美神にはその存在が認識出来ていないのだ。

 だが、それも無理もなかろう。妖怪の発する霊気を探知し、その所在を突き止める霊的探査機である見鬼くんにも反応がないのだ。

 一切の霊的探査をものともせずに背後から忍び寄り、にこやかに笑いかける『彼女』の恐ろしさの一端を垣間見た横島は―― 蒼ざめつつ、続く一言を聞いた。

『明日からぁ、出社しなくてもよろしいですよーぉ』

 そして、その言葉を聞いたその時―― 世界が、塗り替えられた。









「どうしたの、横島クン?!ぼさっとしてないで、ちゃんと人の話を…」
 自らの命令を無視されたからだろう。美神は放心したまま立ち尽くす横島の意識を自分に向けるべく苛立たしげにその肩を揺さぶり―― その顔を見た。

 ―― 血涙。

 死してなお怨みを捨てることなく、凄惨なその死に様を保って現世に留まった怨霊の姿にも決して怯まぬ美神をして、一欠片の恐怖を感じさせる迫力を含んだ血の涙をその双眸から流し、横島は叫ぶ。
「なんで……なんで今頃になってクビなんや――――っ!!時給がそんなに惜しいんか――――ッ!!」

「えっ?!な、なに言ってるのっ?!

 ―――― まさかッ?!」
 半瞬の当惑―― 依頼と現状とを直結し、当惑を打ち消すことには成功したものの、慌てて装着した霊視ゴーグルにも、その『標的』の姿を映し出すことはできなかった。

 被害以外の一切の痕跡を残すことなく、彼女の目を盗んで横島をその魔の手にかける―― 美神の背筋に冷たいものが走った。



「せめて赤字分の元を取らんと――――――――ッ!!」

 駆け抜けた冷たいものが、即座に蒸発する。

「アホか――――――――――――――ッ!!!」
 どこからともなく湧き上がる怒りを乗せた容赦ないアッパーカットに―― 横島は宙に舞った。



















「なるほど……そういうことがあったのか。
 ―― で、肝心の横島君は、今はどこにいるんだい?」
 西条は、モカブラジルを目の前に座る年下の女性に勧め、応接用のソファに腰掛けると、彼女を慌てさせ、今は落ち込ませているその原因の所在を尋ねる。

「今は病院。
 ―― あんまり人騒がせなことを言うモンだから、神通棍でしばき倒したら……やりすぎたみたいで、ね」

「あ……それは―― 」
 その答えに対して、西条は表情を引きつらせて応じるより他に出来ることはなかった。

 が、激しく動転している美神と違い、冷静さを保っていた西条の頭脳は、話から垣間見える現状を手掛かりに疑問を解決するべく回転を開始する。

 『―― 書類は令子ちゃんの筆跡で『来月一日付けで解雇。それまでは自宅にて待機を命ずる』となっていた。ということは、催眠による支配も考えられる、か。
 しかし、横島君ならまだしも、令子ちゃん程の能力の持ち主が支配されることがあるのか?』

 そこまで思索を進め、西条は頭を振る。

 相手は見鬼くんにも反応を示すことなく、また、数々の修羅場を潜ってきた能力者である美神の直感でも掴むことが出来ぬままに横島にのみ認識され、その『肩叩き』をやってのけたのだ。
 俯瞰的な視点を保ち、姿の見えない相手の姿をその視界に捉えるには、まず先入観を捨てなければ始まらない。

 “令子ちゃんだから”という意識を排し、フラットにして考えなければならないだろう。

 頭を振ることで先入観にとらわれようとした脳を再び活性化させることに成功した西条は、肩を落としてソファに沈み込む、美しい幼馴染に向けて言った。
「令子ちゃん……僕もその一件について手伝うよ。令子ちゃんにはここを立ち上げたときに手伝ってもらった借りもあるし―― 何より、落ち込んでいる令子ちゃんを見るのは耐えられないからね」

 西条のその言葉に―― 美神が、顔を上げた。























 西条が協力を申し出てより二日を置いての東京駅―― 時は夕刻に至り、細波のような途切れぬざわめきを辺りにもたらす。

『あのぉ、あなたーぁ』
 が、その声は帰宅ラッシュのざわめきから隔絶された確かさで彼の耳に響く。

 言葉とともに、肩口に走る衝撃。

『明日からぁ、出社しなくてもよろしいですよーぉ』
 そして、世界を塗り替える魔性の言葉が滑らかにその口から吐いて出る。


 が、振り返った黒い長髪の男の『世界』が塗り替えられることはなかった。

 『孫の手』で肩を叩いた瞬間に感じた、微かな違和感にやや怪訝そうな表情を浮かべた『彼女』に黒髪の男―― 西条が手を突き出す。

 その右手に隠し持たれていた『邪魔』と記された一枚の札には、既に霊力が込もっている。

 そして、西条からやや離れた位置に立っていた美神は見た。

 自分が認識出来ない『何か』と、西条の手に握りこまれていた『邪魔札』に込められた霊力とがぶつかり合い、青白い火花を上げているのを。













 この張り込みに赴く前、事務所で西条が美神に行った説明は、俄かには信じがたい話ではあった。が、西条がオカルトGメンの捜査網を駆使して行った被害者への綿密な聞き取り調査―― 未だ実用段階にはないものの、政府機関が抱える超能力捜査班をも動員しての情報収集―― 及び、集めた情報の解析によって浮き彫りになったその『とある事実』を、美神は認めざるを得なかった。

 曰く、被害者の勤務する企業が須(すべから)く民間企業である、ということ。

 曰く、雇用者にはその存在を認識出来ない、ということ。

 曰く、被害者の共通項として『自らを省みることなく職務に没入する』節がある、ということ。

 曰く、何らかの形で『彼女』を目撃した者は、例外なく『彼女』の被害者になってしまう、ということ。

 仕事に没入する、という部分に首を傾げた美神ではあったが、美人が絡んだ際に桁違いのやる気を発揮する点や、仕事とは直接関係ないものの、仕事明けのシャワーや出先で宿泊した場合の覗きに注ぐ情熱という点においては、まさに形は違えど『自らを省みぬ』というより他にない。

 不承不承ではあるが、西条の説明の正しさを受け入れ、そして、西条が行き着いた結論に気付く。

 『条件に合致した相手にのみ影響を与える』というその事象は―― とある存在にあまりにも似ている、ということに。

 死を目前にした者の魂を刈り取り、冥府への道行きを歩ませる冥界の農夫。すなわち、生者にとっての『絶対者』――“死神”に―― 。

 意識をそこに至らせ、美神は西条に問う。
「でも、前に死神と一騒動起こした時には、その姿は私にも見えたし、弾かれたとはいえ、触れることも出来たわ?第一、見鬼くんでも霊視ゴーグルでも存在を捉えられないなんて、考えられない―― 」

「ああ、それについては僕も考えたよ」
 戸惑いをありありと見せる美神の言葉を遮り、西条はさらに言葉を続ける。
「だけど―― コンプレックス、だったかな?以前令子ちゃんが遭遇した、夏の海に出没する『モテない男の怨念』の集合体のような、今までのケースに囚われない、いわば新種の妖怪や魔物も最近とみに報告されているんだ。新種の死神か、それに準ずる存在が出て来てもおかしくはない―― 違うかい?」

 獲物を追う猟犬の眼差しで自分を―― いや、以前自分が協会に提出した報告の先にある『首切り妖怪』の手掛かりを見つめる西条の醸し出す真剣さに圧倒され、美神はただ無言で頷くしか出来なかった。

「でも、新種とはいえ、間違いなくこの世に影響を及ぼすことが出来る以上、何らかの“ルール”は存在することも間違いないんだ」
 頷きを受け、力強く西条は語る。

 陰陽道には『急々如律令』という言葉がある。

 大雑把に言うならば、『万物に存在する律令―― すなわち、ルール―― にあるが如くに、急ぎ、術者の命ずることを為せ』という意味なのだが、この言葉には、呪符というある種の『契約書』を介することで相手を構成する“ルール”を紐解く、所謂『強制介入』を行うという意味合いを内包しているといってもいい。

 無論、現在に陰陽道の本格的な技術体系を残す陰陽師は皆無といってもいい。

 しかし、そのメカニズムは異系の技術に組み込まれ、一部ではあれ、様々な宗教体系をミクスチャーした現代の退魔術の根底に残っていることも確かだ。

 だからこそ、美神や美神の母親である美神美智恵の薫陶を受けた西条は洋の東西を問わぬ万能の退魔術をスムーズに駆使し、それを最適な形で応用することが出来るといってもいいだろう。

「―― そのルールを、逆手に取る!」言い切ると、西条は美神に一枚の書面を示した。












『あれぇ?おかしいですーぅ?』
 西条が渾身の霊力を込めた邪魔札がもたらす、雷光にも似た、しかし、一切の熱を感じさせない青白い火花を意に介することなく、『彼女』はのんびりとした口調で首を傾げると、疑問の源に問う。
『あのぉ、ちょっとお伺いしたいんですけどーぉ……どうしてあなたぁ、私が肩を叩いたのにぃ、なんともないんでしょうかーぁ?』

 やんわりとした、というよりはむしろ、ぽやぽやとした捕らえどころのない口調で問う『彼女』の口調とは対照的な、全力を振り絞るかのような表情―― それを確信が多分に混じった笑みの形に崩した西条は、ロンドン製の本格的な仕立てであるスーツの内ポケットに右手を忍ばせると、その問いに応じた。
「やはり、思った通りだったかな。リストラが容認されているのは民間企業だけ!僕は一時的に令子ちゃんの事務所に在籍はしているけれど……実を言うとこの通り、公務員なんだっ!!」

 西条がポケットから引き出した右手には、ICPOの刻印が刻まれた手帳が燦然と輝いていた。


「公務員を解雇しようとしても、組合が強い公務員じゃあ、性急かつ強権的な解雇は出来ない!その僕の首を切ろうとした君には、僕に一つ貸しが出来た―― 違うかな?」
 曲がりなりにも神の側に属しており、話の通じない相手ではない、ということを察してのことだろう―― 悪鬼妖魅の類をその『正義』の名を冠する剣によって断罪する際にかけるものとは別種の口調で尋ねる西条。

『えぇぇ、そんなーぁ』だが、西条の言葉に耳を傾けることなくしょんぼりと肩を落とし、『彼女』は落胆の声を上げる。

 感じる霊威の強さとは裏腹な態度に戸惑う西条を尻目に『はうぅ、失敗しちゃいましたーぁ』とぺたん、と座り込んで、『彼女』はすん、すん、と鼻を鳴らす。

 途端に、人の波が円形に割れた。

「おい、なんだなんだ、あの人達?」「女の人を泣かしてるわよ?」「ひょっとして、痴話喧嘩?やぁねぇ、こんなところで」「なんか、貸しが出来たって言ってたぞ?」「それって……『貸しを身体で返せ』って言ってるんじゃねぇのか?見た目によらず、外道だなぁ……あのロン毛」

 周囲のひそひそ声に端正な顔を蒼ざめさせた西条は、5mほどの半径で形作られた円の内側にいる美神に声を掛ける。
「令子ちゃん……ひょっとして、見えてる?」

 その問いに、美神は首を縦に振った。










 周囲の放つ好奇と敵意の眼差しに刺し貫かれることがやはり苦痛だったのだろう―― 『彼女』と美神の手を引き、人の輪をかいくぐった西条は、それまでいた5番ホームから遠く離れた、新幹線乗り口付近のベンチに座っていた。

「で、アンタ一体何者なの?」
 日ごろの態度はどうあれ、いざというときに最も信頼出来る従業員の首を勝手に切られたことが余程腹に据えかねているのだろう―― 美神は苛立たしげな口調で単刀直入に尋ねる。

『あうぅ。そんなに怒らないでぇ、これでも飲んで落ち着いてくださいーぃ』
 美神の迫力に圧倒されながらも、『彼女』はどこからともなく用意した『紳士』『現世利益』『寿』と達筆な筆文字で記された湯飲みに、やはりどこから出したのか判らない急須から緑茶を注ぎ、スポンジケーキの中にバナナクリームが入っている東京銘菓とともに勧めると、自らも『寿』の湯飲みを軽く一口開ける。
『はふぅ……落ち着きますねーぇ♪』やはりスローモーなテンポを崩さず、ぽやぽやとした調子だった。

「これが落ち着いていられるか――――ッ!!」
 『現世利益』の湯飲みに入った緑茶を一息で開けた美神が叫ぶ。
「横島くんの首を切られたウチといい、依頼人のところといい、アンタのやったことでいろんな人が迷惑してんのよっ!!」

「ま、まぁ落ち着いて……令子ちゃん。ちゃんと話を聞かないと」火を吐いてもおかしくないような雄々しさで吠えながら食って掛かる美神と、それを怯えながらもなだめにかかる西条―― 明確に自分を視界に捉えてやり取りするその姿に、『彼女』はがっくりと肩を落として言った。

『私の姿が見えているということはぁ、やっぱり失敗……しちゃったんですよねーぇ。期日も近いのにぃ、これじゃあ一からやり直しですーぅ。死神主任に叱られちゃいますーぅ』

「死神……主任?」
 聞きなれない、というよりは、単独ではそれぞれ聞き慣れてはいるものの、組み合わせることによって得体の知れない響きを醸し出すようになったその言葉の取り合わせに、勢いを殺がれたのだろう―― 三瞬前まで激昂していた美神は目を白黒させる。

『はいーぃ。私ぃ、つい最近神様に作られた死神の下級亜種でぇ、“リストラ姐さん”って言いますーぅ』

 間延びしている中にも真剣さを窺わせる口調とはアンバランスな間抜けな名前に、美神と西条は同時に脱力した。
「な、なんなんだ……その間抜けなネーミングセンスは」
 神、という存在に疑いの眼差しを向けてもいいのだろうか―― そのような感想を抱きつつ呟く西条に、『えぇぇ、そんなことを言われてもーぉ』“自称・死神の亜種”と主張する『彼女』ことリストラ姐さんは涙目で返す。

「あー、もう!アンタの名前のセンスが最悪だろうがなんだろうが、そんなことはどうでもいいから肝心なことをさっさと言いなさいよっ!!ただでさえアンタの話し方じゃ話が進まなくてイライラしてるんだからッ!!」

 恫喝され、びくり、と怯えを明確に見せたリストラ姐さんは、左隣に座る美神を見上げる。

 ふしゅるー、ふしゅるるる――!

 痛みを伴うような殺気を視線に乗せ、口からは得体の知れない呼吸音を上げている。

 意を決したのだろう……リストラ姐さんはおずおずと口を開いた。
『神様がぁ、最もお嘆きになることがぁ、『自分の生命を粗末にする』ことだと言うのはぁ 知っていますよねぇ?
 私はぁ 今の仕事を続けていたらぁ、取り返しがつかないくらい身体に不調をきたしてしまうような人やぁ、独立したら上手く行くような人を導いてぇ、自分の生命を粗末にするような方を救うために作られたんですーぅ』


「なるほど……言いたいことは判ったよ」
 真剣な面持ちで西条は頷く。

 確かに、最近は自殺者が変じた怨霊による被害も多いという実感を覚えることは多い。

 中でも、心身の失調に苦しんでの末に自殺を選んだ者の怨念は計り知れないと言ってもいいだろう。

 死してなお安らぎを得られることなく、現世に留まった末に力づくで強制的に成仏させられるという危険を背負った者に別の道を指し示し、結果として自殺を選ぶものを減らすということは、ある意味救いとなるだろう。

 しかし、続けて発せられた西条の言葉は賛同ではなかった。
「だけど、それは違う!
 君が僕のところに現れたということは、僕もこのままGSを続けていけば、生命を落とすことになる―― 少なくとも、その危険がある、ということは間違いないのかもしれない。
 しかし、危険だから、ということで他人が勝手にその仕事にかける誇りや覚悟を捻じ曲げることは、許されることじゃあないんだ。たとえ、それが神であってもね!」
 真剣な眼差しで新種の死神に向けて言い切る。

 曲がりなりにも神の眷属である存在であっても一歩も惹かない、と感じさせる力強い意志であった。


『ですけどぉ……どうしましょーぅ?』
 言い切られてしまったリストラ姐さんは、お茶請けを一口口にしながら途方に暮れた口調で呟く。
 貸しを作り、負い目を背負ってしまった相手の言葉は、彼女のような霊的な存在にとっては契約に等しいものであり、その契約を破棄することはすなわち、自らの存在を不安定なものに変えてしまうものなのだ。

 かといって、造物主たる神から命じられた最優先の職務を遂行しないこともまた、自らを不安定な存在にしてしまう。

 二面背律に追い込まれ、悩みながらも、もくもくと小さく口を動かすリストラ姐さん―― 本当に悩んでいるかどうか、はっきり言って疑問である。

 悩んでいるのではあろうが、緊迫感皆無な雰囲気を自然に醸し出すことでその悩みを感じさせない死神の亜種に、西条は言葉を投げかけた。
「そうだな―― それなら、こうすれば問題はないんじゃないのかな?」





















 午後七時を回り、すっかり暗くなった美神除霊事務所に灯りが灯る。
「横島クンのことといい、依頼の件といい……ホント助かったわ、西条さん」
 世辞ではなく、心の底からそう語ると、美神は引き出しに収めていた二枚の書類―― 一枚は横島忠夫名義で『来月一日付けで解雇。それまでは自宅にて待機を命ずる』と記され、もう一枚は西条輝彦名義で『本日付で本事務所の正所員とする』と記された書類である―― にそれぞれ二本の横線を引き、訂正印を捺した。

 能力が限定される代わりに桁違いの隠密性を持つリストラ姐さんの力によって作り上げられた書類が内包していた魔力は、公務員である西条の肩叩きを行うという『失敗』によって失われ、ただの書類と化している。

 魔力による強制力を失ったただの書類を、何かの間違いである、として処理するということについての問題はあろうはずもなかった。

「気にしなくていいよ。令子ちゃんが落ち込んでいる姿を見たくはない……ただそれだけのことだったんだからね」
 言葉に併せ、西条は悪戯っぽい微笑を見せる。

「ちょっと!落ち込んでるって何よ?!」
 顔を真っ赤にしながら否定の言葉を並べる美神に―― 「さぁね?」西条はさらなる微笑みで返した。











 西条が低級死神に投げかけた提案は、ごく簡単なものであった。

 その提案は『完全な解雇ではなく、元の職に復帰出来る道を残した『転属』『出向』という形を取り、道を選ばせる権利を与える』ということ―― 完全な解決ではなく、関連の子会社やオホーツクや網走の支店、アマゾンやナルニアにある支社にやたらと人材が溢れ返りそうな折衷案ではあるにせよ、当人の意思を一切無視した運命の変更に強引に放り込む、というものよりは遥かにマシな案であった。


 西条にとって、この提案が受け入れられるかは賭けではあった。

 だが、あくまでもリストラ姐さんの役目は『救い』の道を指し示し、導くことであり、強制的に辞表を提出させることではない。

 なにより、『結果を出せば戻ってこれる』という意識を持てるか否かは、『飛ばされる』者にとっては大きい希望になる。

 そうやって生み出された『希望』こそが、困難に立ち向かう原動力となり、挫けそうになる自分を支える一本の杖となるのだ。

 故に、その運命に放り込まれる人間の意志を加味した西条の提案は受け入れられ―― 神の都合によって人生を大きく変遷させる者が続出するという、この奇妙な事件は比較的穏当な結末を迎えた。



 下級死神・リストラ姐さんによって肩を叩かれた十数名の被害者に関する書類も、訂正処理された横島の解雇通知と同様にその強制力を失っており、美神らは報告のために立ち寄ったかねぐら銀行で書類の訂正に精を出す支店長からの感謝の言葉を受けていた。

 最早、潜入捜査の名目で一時的に美神事務所に在籍した西条がこの事務所に籍を置く必要もなくなっていた。

「これで……おしまい!西条さん、ホントにお疲れ様!」

 赤ペンで『要封印 重要書類』と記された茶封筒に訂正処理を終えた二枚の書類を納め、封を施すとともに頭を下げる美神に微笑みを返しつつも、西条は一抹の寂寥を感じる。

 ―― 依頼よりも、まず横島君か。

 成功報酬三億円と言う依頼より先にごく自然に横島の名を口走った美神にとって、横島の占めるウェイトはかなり大きいことは間違いない。

 しかも、今回手を貸したことで横島を美神の傍らに留まらせたことは、『美神令子』という魅力的な女性を争うレースで、大きくコースアウトしそうになったライバルを助けたことになる。

 小利口に立ち回るなら、このまま何もせずにリタイアさせておけば良かったかもしれない……しかし、不戦勝は気に入らない。


 勝つなら正々堂々と!


 それこそが、貴族を自認する自分のポリシーなのだから―― 。



 近い将来改めて手袋を投げつけるであろう強大なライバルを思いつつ、西条はソファに座ったまましばし心地よい疲れに身を任せ、軽く瞼を閉じ―― ようとした矢先、けたたましい足音を聞いた。



 閉じかけた瞼が開くとともに、美神除霊事務所の扉もまた勢いよく開かれる!


 息を荒げた横島が、そこにいた。
「美神さん……やっと気付きましたよ―― 給料を払わなくても俺がここにいることが出来る方法に!
 なんと言ってもここは個人事務所なんだから、美神さんと俺が結婚すれば俺は経営側の人間になることが出来る―― だから給料なんか払わなくても大丈夫!
 美神さん……あいらっびゅー!」
 既成事実でも作ろうというのだろうか―― 唖然とする西条の姿に気付くことなく、言葉とともに飛び掛ろうとする。

「そんなアホらしい理由で」美神の右から放たれたコークスクリューブローが、飛び掛る横島の心臓を打つ。

「人生棒に振って」瞬間的に心臓を止められ、動きを止めた横島を下からかち上げるかのように左のガゼルパンチが繰り出される!

「たまるかぁ―――――――っ!!」そして、棒立ちになった横島を身体ごとぶつけるかのような左右の連打が容赦なく打ち据えた。

「ぃ……っぽぉぉぉぉぉぉぉぉぉ――――――おっ!」デンプシーロールで崩れ落ちそうになったところにとどめの正拳突きを喰らった横島の身体は、窓ガラスを突き破り……階下に落下していった。



「むむっ!こんなところにボロ雑巾かと思えば、先生ではござらぬか!こうも無残な姿を晒すとは……先生に一体何がっ?!」

「どーせいつもの痴話喧嘩でしょ。はー、お腹すいたー」

「そんなこと言わないで、横島さんを運ぶの手伝って……タマモちゃーん」

「いいからほっときなさい!そんな馬鹿、クビよ、クビ!!」
 三日間の出張から帰ってきた三人に、美神が声を投げかける。

 その声を聞きつつも、横島はもう一つの声を聞いていた。

 その声は……彼がごく最近聞いた声と、あまりにも似ていた――。
『あのぉ……あなたーぁ? 減給3割でここに残るかぁ……』


 『リストラ姐さん!』 これにて一巻の終わり!





















 おまけ



「これか……『彼女』が言ってたことは、これなのか――」
 久々に自室のベッドで睡眠を取った西条は、その事実に愕然としていた。

 『彼女』―― 四日前に遭遇した『リストラ姐さん』の言葉が頭をよぎる。
『取り返しがつかないくらい身体に不調をきたしてしまうような』

 なるほど―― 僕も、『そう』だったんだな。

 力ない笑いが、こみ上げてくる。

 その視線の先には、細く、黒々とした線が無数に纏わりついた羽毛枕が、横たわっていた

 クロワッサンと濃いブラックで始まる西条輝彦の朝に、育毛促進リキッドが加わるのは、その翌日からのことであった。

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