ザ・グレート・展開予測ショー

よるかきくらす


投稿者名:赤蛇
投稿日時:(06/ 7/17)

     かきくらす 心の闇に 惑ひにき 夢うつつとは 世人さだめよ


                                    在原業平 古今和歌集 巻十三 恋歌三
















夏の夜は短くも、暗きことはなはだし――



まんじりともせぬままに夜を過ごす。
夜半をとうに過ぎてもなお眠りにつけないのは、音の絶えた風鈴のせいだけではなかった。
何もない闇の中をじっと見つめていると、ぼんやりとした何かが湧き上がって来るようで恐ろしく、また寝返りを打ってそらす。
そして今度は、目を閉じた闇の中から浮かび上がってくるのを繰り返し見るのだった。

急におキヌは息苦しさを覚え、がばと身を起こして立ち上がる。
家人に気づかれぬようにそっとドアを開け、静まり返った廊下へと足を出す。
足裏の汗に吸いつく床板が立てる、きいきいとした耳障りな鳴き声が、辺り一面に大音声で響くかのように思えた。

二歩、三歩と足を運び、隣の部屋のドアに差し掛かったところで、つと立ち止まる。
木製の厚い扉は堅く閉ざされていたが、あたかもガラス越しに透過するかのように目を向ける。
いつしかその身は扉を通り抜け、中に眠る女の姿を垣間見る。
眠る女の枕に手を掛け、返そうとした瞬間、ふと我に返った。

両の手に滴る嫌な汗の感触に戸惑い、おキヌは逃れるかのようにして階段を駆け降りていった。



灯りもつけぬままにキッチンへと飛び込み、冷蔵庫の中から冷えた麦茶を取り出し、ごくごくと一気に飲み干す。
扉を閉めることさえ忘れ、庫内灯の淡い光に浮かぶおキヌの顔は、見るものを疑わせるほどに歪んでいた。

「ふうっ・・・」

二杯目を飲み干し、無駄に冷気を放出し続けていた扉を閉めると、不意に頭上の灯りが灯された。

「――おキヌどの?」

コップを片手に振り返れば、入り口の端から怪訝そうな表情でシロが顔を覗かせていた。

「眠れないのでござるか?」

「うん、ちょっとね・・・」

力なく笑うおキヌを横目に、シロもまた冷蔵庫を開け、コップに一杯の麦茶を注ぐ。
一応はおキヌにも向けるが、もうこれ以上は、と遮られた。
ぐびり、と麦茶を飲むシロをよそに、おキヌはぽつりと呟きをこぼす。

「・・・帰って、こないね」

「タマモのことでござるか」

シロは半分ほど飲んだコップをテーブルに置き、椅子をきい、と引いて腰を下ろす。
おキヌもまた、つられるようにして力なく座り込んだ。

「今夜はもう、泊まってくるつもりなのでござろう」

同僚の動向をさらりと流すシロの言葉を、おキヌはうなだれたまま聞いている。
どこにとも、誰ととも言わなかったが、それはもう聞くまでもない。
一線を越えるつもりはないようでござるが、と言うシロの言葉は何の気休めにもならなかった。

「どうしてっ!」

突然の感情の高ぶりを押さえきれず声を荒げるおキヌを諭し、シロは低い声で話しかける。

「――拙者もそうでござるが、所詮タマモは妖にござるよ。人の理を求めるほうが間違いにござる」

「でも、タマモちゃんだって知って・・・」

「だからこそでござる。まだまだ子供とは言ってもあやつは妖孤、すなわち妖女の化身にござる。殿方になびき、庇護を求めようとするのはもはや本能に近きものゆえ、止めようとても止まりますまい」

今はどちらかと言えばまだ幼女の化身にござるが、と言うシロの冗談にも、おキヌはまったく笑う気配はない。
その思い詰めた顔にシロは困ったように頭を掻き、同室の友のために精一杯の弁護を試みる。

「タマモとてもおキヌどのを悲しませることのないよう、己の衝動を押さえて葛藤しているのでござる。そこは信じてやってくださらぬか?」

「そうは言っても――」

タマモは何も彼を篭絡して奪い取ろう、などと思ってはいないことはおキヌもわかっている。
彼もまた、タマモのことを異性として見てなどいず、せいぜい親戚の子がしょっちゅう遊びに来るぐらいにしか思っていない。
他愛もなく兄を慕う、ちょっとませた女の子に嫉妬するなど、なさけないほどに愚かなことだった。
しかし、頭ではわかっていても、心がそれを受け入れるとは限らない。

なおもわだかまりを見せるおキヌの様子に、シロは最近増えてきたため息をついて言葉を返す。

「・・・なれば、滅するより他にありますまい」

「――え?」

「元来、人と妖は相容れぬもの。信じられぬとあらば、我が身に仇成す前に滅ぼすのが常道にござる」

「ちょっ、ちょっと待って!」

思いもよらぬ方向へ進む話におキヌは慌てふためくが、シロはまるで意に介さないふうに淡々と告げる。

「何を驚かれる? 最初にタマモに会ったとき、退治しようとしたのはおキヌどのたちの方ではござらぬか。それを今、改めて行うだけのことにござる」

「―――――!」

「それに、タマモのほうもおキヌどのを殺そうとしたそうではござらぬか。結局、それが人と妖の有り様にござるよ」

「そ、そんな――」

「我ら人狼族も人を受け入れず、また受け入れられなかったからこそ里を隠し、人目に触れることのなきように生きてきたのでござる。たまさかの邂逅ならいざ知らず、共に寄り添って生きるのはまことに難しきものなれば」

おキヌはなんとかしてシロの言うことを否定しようとするのだが、巡る頭に浮かぶのは緑深き山の中での出会いのこと。
あのとき、軍用犬や兵士に追われ、結界に捕われて身動きの取れなくなったタマモ。
まだほんの仔狐だったゆえに退治するのが躊躇われたが、あの頃に今ぐらい育っていれば違っていたかもしれない。
タマモの方とて、足さえ折れていなければ、その鋭利な爪でおキヌのことを引き裂いていたかもしれなかった。

とうに消え去っていたかと思っていた怨恨を晒されて狼狽するおキヌを、シロはじっと冷ややかに見るばかりだった。



「おキヌどの、ちょっと夜風にあたりませぬか」

それほど長くも経たない頃、シロがおキヌを外に誘う。
首筋に浮かぶ汗も忘れたおキヌを見かねてのことでもあったが、もうひとつ話しておきたいことがあった。
それは、壁に耳のある事務所では決して出来ない相談だった。

丑三つの頃を過ぎた街には人気もなく、幾分冷えた空気が肌を撫でる。
都会の真っ只中とはいっても、幹線道路より少し外れれば、耳障りな車の音も聞こえない。
草木も眠るほどに静まり返った住宅街を、ふたりはどこへ向かうでもなく歩いていく。

三日月よりも細くなった月の光を浴び、鼻歌交じりに歩くシロの後ろを、おキヌはうなだれたままにとぼとぼとついて歩く。
曲がり角に差し掛かったとき、シロが歩みを止めたのにさえ気づかぬ有様だった。

誰も通らぬ道を煌々と照らす自販機には、名も知らぬ小さな虫が張りついていた。
投入口を塞ぐ虫を煩わしそうに振り払い、ちゃりん、ちゃりんと数枚の小銭を放り込む。
赤いランプのついたボタンから虫のついていないのを選んで押すと、がたん、と勢い良く音を立て、ありがとうございました、と場違いに明るい声で礼を言われる。
もう一度それを繰り返し、シロは二本の缶を手に振り向いた。

「ん」

「あ、ありがと」

無造作に突き出された缶コーヒーを受け取り、おキヌは戸惑った声で礼を言う。
よく冷えた缶コーヒーの表面には、瞬く間にびっしりと露が走り、握る手のひらをしっとりと濡らす。

「今日はもう眠れませぬからな」

そう言ってシロは苦笑いをし、缶を開けて一息に飲む。
だが、おキヌは蓋を開けようともせず、両手に包んで温ませるばかりだった。

「――まあ、先程のことはあまり気にしなくてもよいでござるよ」

「でも、そういうわけには――」

顔を伏せたまま言いよどむおキヌをよそに、シロは空になった缶をぽい、と放り投げる。
惜しくもゴミ箱の縁に当たって外れた缶は跳ね返り、アスファルトの上に落ちて、からん、からんと大きな音を立てる。
シロはそれを拾おうともせず、転がっていくままに放っておいた。

「一度、本気でやりあってみなされ。獣の習性として、痛い目に会えば二度と手を出さないでござるよ」

「―――――」

「おキヌどのが勝てばそれでよし。もし仮に負けたとしても、死ぬだけのことにござる」

武士らしいと言えばそうかも知れぬ乱暴な論理に、おキヌも思わず苦笑いをする。
そんな風に割り切れたら、いったいどれほど楽なことか。

「それよりも問題なのは」

続けてシロが口にする話題に、おキヌはぴくりと肩を動かす。
意識の奥へ追いやろうとしていたその名前を思うたびに、心の底からどす黒いものが湧き上がってくるような気がした。

「――まだ話していないのでござろう?」

「――ええ」

「しかし、もはや猶予はありませぬぞ?」

「―――――」

黙りこくるおキヌにもそれはわかっていた。
お腹に宿るあの子供は、魔族であるがゆえに成長が早い。
今はぎりぎり隠しておけるにしても、あと半月もしないうちに大きくなり、早ければ夏の間に生まれてくるやもしれないと言われていた。
いかにしたとしても、そうなってしまってはあまりにも遅すぎる。

「でも、やっぱりそんなこと言えない・・・」

弱々しく呟くおキヌの声は、今にも消え入りそうなほどに小さい。
このままにしておけば、いずれ重みに耐えかねて潰れてしまいかねなかった。

向こうにしてみれば、おキヌは幾重にも裏切りを重ねていた。
千年の昔からの思い人を横から奪い、悲しみに沈む彼を篭絡し、あまつさえそれを秘して逢瀬を重ねている。
自分が勝手にタマモに抱いている恨みと同じように、いや、それ以上に抱かせているに違いなかった。
付き合い始めていた頃ならばいざ知らず、抜き差しならぬ手遅れ寸前のところまで来て知らされれば、その怒りは果たして如何ばかりのものか。
悪鬼羅刹の如く髪を振り乱し、あらゆる限りの罵詈雑言を並べ立て、ついには手にした神通棍を膨らんだ腹に突き立てる様を思い、身も震えんばかりに恐れ戦くのであった。

道端にしゃがみ込むようにして震えるおキヌを見て、シロはついに意を決す。
出来ることなら言わずにいたかったのだが、事ここに至っては致し方もない。

「――ならば、殺しまするか」

「え・・・」

シロの口から漏れた言葉に、おキヌは弾かれたように顔を上げる。

「美神どのに告げることも出来ず、さりとて堕ろすことも別れることも逃げることも出来ぬとあらば、もはや美神どのを亡き者にするより他ありますまい」

「そ、そんなこと――」

「できるはずがない――と申されるか。なれど、心中で美神どのの死を願っているのは、他ならぬおキヌどの自身でござろう?」

あのドアの前で密かに抱いた思い、心の深遠の闇を覗き込まれたおキヌは、青白かった顔をより一層白くし、さらには赤くする。

「よもやお忘れではござるまいが、拙者は人狼にござる。いかに美神どのとて、気を許している今なれば縊り殺すのは容易いこと」

シロはふらふらと立ち上がるおキヌにそっと近寄り、蓋を開けようともしなかった缶コーヒーをすっ、とつまみ上げ、さして力を入れるでもなく、ぐしゃりと握り潰す。
瞬く間に噴き出したコーヒーが手を汚し、シロはそれをぺろりと舐めて口元を歪める。

「シ、シロちゃん、どうしてそんな――」

かつてない怯えを見せるおキヌをよそに、シロはぐしゃぐしゃに潰れた缶をまたも放り投げ、今度はきれいに収まると、無邪気で嬉しそうな笑顔を見せた。

「もしも次があるならば、おキヌどののほうが遥かに楽でござるからな」

事もなげに言いながらタオルで拭うその手は、あたかも血に塗れているかのようにおキヌには思えた。
シロは笑顔のままに手を伸ばし、おキヌの肩にそっと手を触れる。
軽く手を添えられているだけなのに、それはまるでがっちりと掴まれているかのようで、逃げることなど出来なかった。

「――出来ることなら拙者もやりたくはござらぬ。なれど、そのような事態も考えておかねばなりませぬぞ」

さ、帰りましょうぞ、と言うシロの勧めに、おキヌはもはや従うよりほかなかった。



事務所へと帰る夜明け前の道すがら、近所の寺の境内からほととぎすの鳴く声が聞こえた。
しでのたをさ、という古い名前のように、あたかも死出の山へと誘う声のようでもあった。

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