ザ・グレート・展開予測ショー

秘湯にて


投稿者名:メド栄
投稿日時:(06/ 5/14)

静寂に包まれて、女は一人、露天の湯につかっていた。
岩肌に身をもたれかけ、見上げれば空を彩る満点の星。
そのどこにも彼はいないのだと考えると、知らず眦に涙が浮かぶ。

彼は去ったのだ――彼の望みのままに。
その思いを遂げさせるために、彼女は幾つもの矛盾を抱え込んだ。
記憶が薄れ、その矛盾が昇華されたときこそ、彼の望みが真に達せられるのかもしれない。
でも――


忘れられない……忘れられる、はずがない。


魔族の中でも特別な出自を持つ彼女らは、愛することを知ってしまった。
それを知った今、自分たちは誰かを愛するために作られたのではないかとさえ思える。
姉と呼んだ女は、愛のために身を滅ぼし、自らもまた、一度は愛に殉じているのだ。
もはや愛とは行動原理そのものであり、愛する者に尽くすことこそが唯一絶対の目的である。
それを忘れることなど、どうしてできよう?

錆び色の湯を両手で掬い上げ、叩きつけるようにして顔を洗う。
飛沫を浴びて、触角がふるふると揺らぐ。
頬を伝って顎から滴り、水面を騒がす雫は、湯か汗か、それとも、涙か。
濡れた顔を拭うこともせず、再び星空に虚ろな眼差しを向け、大きくため息一つ。

彼亡き今、一魔族として生きるために、やらなければならないことは少なくない。
その第一義にあるのが、彼の呪縛を解き放ち、彼以外の何かのために働く意志を持つことであった。
だが一人になるとどうしても、彼の面影が脳裏によぎる。彼の言葉が心に浮かぶ。
その思いを振り払おうと、人づてに紹介されたこの寂れた温泉にきてはみたものの、思い起こされるのは彼のことばかり。
こんなことは彼も望んでいまいと、理性は訴えかける。
それでも気持ちの整理はつかず、思い出は彼女の心を侵蝕するばかりであった。

「いっそ私も、消えてしまえばよかったのに……」

思わず口を突いた、決して言ってはいけない言葉。
そのことにさえ気付かないで、女――ベスパはじっと星空を見上げていた。





水音に続く微かな湯の揺らぎを感じ、我に返ったベスパは音のした方を見やった。
仄白く霞む湯気の帳の向こうで、それらを圧する生白い影が動いた。

「誰だっ!?」

鋭い誰何の声に、影が動きをとめた。
そのまま恐れ気もなく湯気を払って現れたのは、薄紫の髪を頭頂高くに結い上げた小柄な少女であった。
先のとがった耳が。血色に彩られた鋭い爪が。口元微かに覗く牙が。爬虫類を思わせる細い瞳が。なにより、全身から滲み出す一種独特な雰囲気が、少女がただの人間であることを否定していた。

「魔族、だと……?」

紹介者であるジークの口伝に拠れば、ここはとある神族ゆかりの地であり、魔族がおいそれと入れる場所ではないはずであった。
にもかかわらず、目の前に現れた少女が自分と同属であることは、まずもって疑いようがない。
あの男が嘘を言うはずがない。そもそも、嘘を言う必然がない。
であれば、なぜ……?
逡巡するベスパの肩を、湯が洗う。
気が付けば、少女は湯を掻き分けて女の前に立ち、呟きに曖昧な笑みを返していた。

「脅かさないでよ。まさか先客がいるとは――あれ? あんた確か……ふーん、生き残ったとはねぇ」

記憶の中に、少女の顔はない。にもかかわらず自分のことを知っているらしい少女の態度に、ベスパは当惑を隠せなかった。
腰に手を当て胡乱げに見下ろす少女の眼差しと、やや腰を浮かせ警戒も顕わにねめつけるベスパの鋭い視線が交錯する。
しばしの沈黙の後、少女がゆっくりと口を開いた。

「髪」
「……うん?」
「髪、湯船につけるもんじゃないよ」
「ええっ? そ、そうなのか?」
「マナー違反。それに、ここは泉質がちょいときつめだから、長いことつけとくと髪が痛んじゃうわ」

思いもかけぬ少女の言葉に、意表をつかれたベスパは困惑した。
その間にも少女は彼女の傍らに寄り、湯船にたゆとう紅髪を手早く梳きあげると手ぬぐいで纏めた。

「これでよし、と。せっかく綺麗な髪なのに、ガビガビになっちゃ勿体ないでしょ」
「あ、ああ……すまんな。でも、なぜ?」
「べっつにー。ただ、綺麗なものを綺麗だって思う感覚は人間に近いってだけじゃない?」
「そ、そうか……」

ベスパは知らず頬を赤らめた。綺麗などと言われたのは、生まれて初めてのような気がする。だが、悪い気はしなかった。
そんなことなど知らぬげに、少女はそのまま彼女の横に腰を落ち着け、肩まで湯につかると満足げに息を吐いた。
一体この少女は何者なのか?
怪訝な眼差しを向けるベスパに気付いて、少女はいたずらっぽい笑みを浮かべた。

「そう妙な目で見ないでよ。ここは竜神族ゆかりの温泉なのさ。大方あんたも誰かから聞いてきたんでしょ?」
「竜神族? そうか、おまえ――」
「おっと、野暮はいいっこなし。湯治場じゃ熊と鹿が同席したって喧嘩なんなんざしないもんよ」

機先を制され、ベスパは喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
なるほど、ジークは小竜姫の元にいたことがあるという。であれば、少女の言うことはおそらく正しいのだろう。
沈思黙考するベスパの横で、少女は目を閉じゆっくりと口元まで湯に沈めた。
再び訪れた静寂を、満点の星が照らしていた。





「んー、やっぱ温泉はいいわぁ」

沈黙を破って一声あげると、少女は湯を散らして立ち上がり、湯べりの岩に腰掛けて上気した肌を夜気に晒した。
涼風に目を細める少女を、飛沫を浴びせられた顔をしかめたベスパが睨みつけた。
それもどこ吹く風といった様子で、少女は無邪気に湯を蹴立て始めた。
憮然としてそこから離れようとしたベスパの背に、少女の声が飛ぶ。

「で、これからどうするの? また失敗したみたいだけど、次はどんな計画を――」
「そんなもの、ない……」

瞬間ベスパは凍りいた。わななく唇から漏れたうめくような呟きが、少女の言葉を遮った。
勤めて冷静を装いはしたものの、その肩は動揺のため微かに震えていた。
しかし、少女はそれに気付かぬようで、愛想笑いを浮かべつつ懸命に食い下がる。

「そう言わないでさぁ。仕切り直しってことで、こっちにも挽回のチャンスをくれたってバチは当たらない――」
「そんなものはないんだっ!」

怒声にも等しい沈痛な叫びに、少女は目をしばたかせた。
そして何を察してか、うなだれたまま振り向きもしないベスパの背後に立つと、震える肩にそっと手を置いた。

「チャンスなんて、もう……ないんだ……」
「悪かったよ、あんたも追われてるんだね。なぁに、心配するこたぁないよ、いいかげんコマも減ってきてるはずだし、いくらでも復帰の目はあるさ」
「違うんだ……あのお方は……アシュ様はもう……この世に存在しない……」

血を吐くような叫びは、いつしか涙に濡れていた。

「二度と復活することも……ないんだ……」

それを口にした瞬間、堪えていた思いが堰を切ったように溢れ出し、後には嗚咽しか続けられなかった。
しかし少女はその言葉に血相を変え、咽び泣くベスパを無理やりに振り向かせた。

「ちょっ――それどういうこと!? 奴ほどの存在が殺されたところで、復活しないなんて、ありえない!」
「あの方は……許されたんだ……究極の魔体まで持ち出して……もう、蘇ることもないって……逝ってしまったんだ……私を置いてっ!!」
「んな……バカな……」

泣き崩れるベスパの傍らで、少女は呆然と立ち尽くしていた。
だがそれも束の間のことで、少女は妙にさっぱりとした面持ちで幾度か首を振ると、涙に暮れるベスパをじっと見つめた。

「それ、本当なんだろうね?」

詰問に近しい少女の言葉に、ベスパはただ肯くばかりであった。
少女はため息をつくと、再び湯の中に身を沈めた。

「ならまあ、もう奴の追手に警戒する必要はなくなったってわけね」
「私が……私が、殺したようなものだ……私が……どうしてあの時、一緒に死ななかった……」
「いつまでもうじうじと泣いてるんじゃないわよ。人間じゃあるまいし、鬱陶しいったらありゃしない」

ぴしゃりと言い放った少女を、ベスパはきっと睨みつけた。しかし少女は一向に動じず、意地の悪い笑みを浮かべて続けた。

「泣くなんざ自己満足に過ぎないんだ。死にたきゃさっさと死になよ。あんたなら強制復活はまずないだろうさ。それで奴の側に行けると思ったら大間違いだけどね」

悲しみに沈むベスパの瞳がにわかに怒りの炎を灯し、少女の顔面に向かって突き出された右拳はしかし、鋭い打撃音を立てつつ少女の左手に受け止められた。

「そうそう、泣くよりはこっちの方がらしいってもんさね。あたしが男だったら、ここからキスの一つもしてなし崩しに――てなとこだけど、さすがにそれはないわな」
「馬鹿にするのもいいかげんにしろっ! おまえなんかに私の気持ちが――」
「解る気なんてさらさらないし。いいわ、先輩として一つ教えといてあげる。魔族ってのはね、やりたい時にやりたい事をやりたいようにやるものなのさ!」
「どういう……意味だ?」
「忘れたくないなら、忘れる必要なんざないってこと。会いたいなら、会えばいいじゃないかって言ってんのよ」
「だからっ……それはもう無理……」
「無理なんてないさ。転生の輪から外れたってんなら、引っ張り戻しゃいいのよ。なにも一人勝ちさせとくことはないって」

あっけに取られるベスパを尻目に、少女はとうとうと捲し立てた。
曰く、契約不履行だの、責任を取らせるべきだの、勝ち逃げは許されないだの、騙された復讐をするだの、挙句好かれた女に呼び戻されるなら本望だろうとまで言い放つ。
そのあまりに突飛で自己中心的な物言いに、とうとう我慢できなくなってベスパは思い切り吹き出した。
笑い転げるベスパを一喝してふてくされた顔をした辺り、どうやら少女は本気だったようである。
それがますますおかしくて、ベスパは息が詰まり腹がよじれるまで笑い尽くした。





ようやくにして笑いが収まったベスパに、少女は冷ややかな視線を送っていた。

「あんたってさぁ……とことん人間臭いんだね。そりゃ苦労もするわ」

冷やかし混じりの少女の言葉に、ベスパは優しく笑みを返した。

「そういう風にできてるみたいだし、今更どうしようもないさ」
「人事みたいに……どうでもいいけどさ。で、どうするの? 奴の復活を目指してみる?」
「いや、もういいんだ。私は……私の道を探すとするよ」
「お堅いこった。ま、そう言うだろうとは思ったけどね。それならさぁ――」

不意に言葉を切ると、少女はずいとベスパに顔を寄せた。
その細い瞳には、悪意に満ちた喜びが浮かんでいた。

「あんた、あたしと組まない? どうせあっちに編入されたところで、肩身が狭いだけでしょ? だったらさぁ、一緒にやろうよ」
「悪いが、お断りだ」

決然と即答したベスパから顔をそむけて、少女は小さく舌打ちをした。
いかにも辟易とした風を装いながらも、どこか悟ったような表情を見せる少女に、ベスパが相好を崩した。

「交渉決裂っと。ならさっさと退散するに如くは無しってね。お先に失礼するわ」

吐き捨てるように言って、少女は現れた時と同じく湯気の帳へと姿を隠した。
白く揺らめく後ろ姿に、ベスパはそっと声をかけた。

「……ありがとう……」
「よしとくれよ、ゾッとしないね」

心底嫌そうな声が水表を渡り、湯気の向こうに仄白く霞む影はいつしか消え去っていた。
少女が纏めた髪にそっと手を触れ、ベスパはくすりと笑みを漏らした。
忘れたくないなら、忘れる必要なんてない――少女の言葉が、耳に心地よく残っていた。さすがに一端の魔族ともなれば、口も達者なものだ。
思えば、あれほど激しく笑ったのもまた、生まれて初めてのことだったろうか。なんだかもやもやとした思いが、一息に吹き飛んだような気がする。

夜空に浮かぶ満点の星。そのどこにも彼はいない。
でも――


私の中に、彼がいる。


『忘れなくても……許してくれますよね?』

答えるものとてない空を見上げ、ベスパは心の中で呟いた。
煌く星々の間を、光が一つ、流れ落ちていった。





思ったより早かったベスパの帰還を、ジークは神妙な面持ちで出迎えた。
環境の変化に戸惑いを見せる新たな同僚を見過ごせず、彼女がしばしの休暇を取れるよう手はずを整えたのは、他でもない彼(とその姉)であった。
彼女の悩みの根底にあるものはとても根深く、それを振り切らねば今後の任務に支障も出よう、というのが大筋の理由であり、事実彼もそうを感じていたのだ。
当然復帰までには相当な時間を要するであろうと思ったものが、わずか数日で帰ってきたとなれば、それを迎える方としては相応の覚悟も要ろうと言うものである。

「早かったな。もっとゆっくりしてきてもよかったのに。で、どうだった?」
「ああ、いい湯だったよ」

当り障りのない話題から切り出したジークに、ベスパは言葉みじかに答えた。
素っ気無いながらも、どこか晴れやかなベスパの様子に、ジークは心の中で安堵の息を吐いた。

「そうか、それはよかった。あそこは小竜姫から聞いた秘湯でな――」
「悪魔の囁きなんてのも聞けたしね」
「はぁ?」

素っ頓狂な声を漏らしたジークに、ベスパがいたずらっぽく微笑みかけた。
どきりとしかけたジークの耳に、落ち着いたアルトの声が届く。

「もう一度、世界征服を目指してみないかってさ」

数瞬前とは別な理由で鼓動を感じたジークは、声もなくベスパを凝視した。額にじわりと汗が滲む。
しばしの沈黙の後、不意にベスパは破顔し、声を立てて笑い始めた。つられてジークも引きつったような笑みを浮かべた。
以前とはうってかわって明るくなったのはいいが、あまりの変わりようにどうも調子が狂う。

「い、いきなり恐ろしいことを言わんでくれっ!」
「バカだね。その気になってたら、戻ってなんてきやしないよ」
「そ、それはそうだろうが……」

照れ隠しに声を荒げてはみたものの、その程度では一度確保された主導権を取り返すには至らない。
やはり女性は苦手だと嘆息するジークの肩を叩き、ベスパはゆっくりと歩き出した。
ついと空を見上げた横顔は哀愁を帯び、以前にもまして近寄りがたい雰囲気を漂わせていた。

「私がやるべきことは……」
「やるべき……ことは……?」

擦れ違いざま聞いたベスパの呟きを、ジークは思わず復唱した。気圧されて、知らず息を呑む。
答えももらえぬまま立ち尽くすジークを振り返りもせず、ベスパはそのまま歩きつづけた。

『新しいオトコを探すことなんだろうよ』

そう心の中で呟いたベスパの表情はしかし、晴れ晴れとしていた。

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