メメントモリ
投稿者名:臥蘭堂
投稿日時:(06/ 5/14)
何時頃からだったろうか。あの声が、聞こえ始めたのは。
覚悟せよ。そう、あの声は言う。覚悟せよ。覚悟せよ。汝覚悟せよ。
母が死んだ頃だっただろうか。それとも、村で仲の良かった少女が、吸血鬼狩りに討たれた時だったろうか。別に、彼女は人間を襲ったわけではないのに。
ああ、いや、それは問題ではない。
何時頃からだったろうか。一体、何時頃から、聞こえ出したのだろうか。あの、キリスト像の前に立つたびに聞こえてくる、忌まわしいまでの警句は。
覚悟せよ。覚悟せよ。汝、覚悟をせよ。
一体、何を覚悟しろと言うのだろう。そう、ずっと思っていた。何時頃から聞こえ出したのか、もはや曖昧になってしまったが、それだけは判然としている。彼は、一体何を自分に告げようというのか、まるで解らない、その事だけは。しかし。
ああ。ついに、解ってしまった。今日、ついに、解ってしまった。彼は、これを言っていたのだ。これを、自分に告げようとしていたのだ。
覚悟せよ。汝、覚悟せよ。汝――死を、思えと。
−−−−−
その日――教会の扉を開いて入って来た彼、横島さんの姿を見た時、自分は、一瞬それが誰だか判断に迷ってしまった。
「よう、ピート、迎えに来たぞ」
そう言う声に、改めて気付いたくらいだった。
「よこ……しまさんですよね?」
「ん? 他の誰に見えるってんだよ」
「いや、そんな格好してるから、つい」
そう。その日の彼は、前日までとはまるで違う姿だった。普段はメーカーも定かではない安物のジーンズにデニムジャケットだと言うのに、妙に生地の高級そうなスーツなどを着ていたのだ。髪型も、普段のようなボサボサ頭ではなく、嫌味にならぬ程度に、全体にオールバック気味にセットされており、トレードマークとも言えるバンダナもなかった。
「一体、どうしたって言うんですか、随分めかし込んで」
「どうって、まあ俺も窮屈だけど、成人式ぐらいはきちっとしろって美神さんがうるさくてなー」
苦笑する顔に、つられてこちらも苦笑を浮かべ――そして、気付いた。彼は、今何と言った。
――覚悟せよ。
「成人式……ですか?」
「おお。後は、タイガーに雪之丞もな。で、ホレお前を迎えに来たってわけだ」
「僕を? いや、僕が、成人式に、ですか?」
「ああ。だってお前も……アレ? えと、なあピート、お前って……」
ようやく、そこに思い至ったのか、彼の笑顔が、次第に曖昧になる。
「ええ。僕は、800歳を越えてますよ」
「あっちゃー……そうだっけかあ」
右手で顔を覆い、天を仰ぐ彼の声に被さって、また、あの声が聞こえてきた。
――覚悟せよ。汝、覚悟をせよ。
「おい、どうした。何ぐずぐずしてんだよ」
「ああいや、ホレ何てーかその……」
横島さんの背後から、雪之丞が顔を覗かせた。見れば、その背後には、横島さんが口にした皆が、めいめい着飾ってこちらを窺っていた。
「おーい、どうしたんだ?」
横島さんの肩越しに、スーツ姿の――彼は、普段からそうだったのだが――雪之丞と、タイガーさんが怪訝そうな顔で覗き込んでいた。どうやら、彼等も失念していたらしい。それは、ある意味無理のない話だったかも知れないが。
「うっかりしてた……スマン、ピート」
「仕方ありませんよ、同じ学年で学校に行ってたんですし。それに、その。ホラ」
言いよどんで、全身を示すように小さく手を広げた。
何を言わんとするのか、多分、解ってもらえる筈だ。何しろ、自分はまるで変わっていないのだ。彼と同じ学校に通っていたあの頃から。いや、それよりも遥かに以前から。彼等にしても、多少なりとも姿が変わり、多少なりとも成長していると言うのに。体も、心も。だのに、自分は。自分だけは。
――覚悟せよ。覚悟せよ。汝覚悟をせよ。
いい加減、無視しきれなくなって、そっと視線を背後に――教会の奥、祭壇の正面へと流す。まただ。また、彼が。彼の警告が。一体、あなたは何を。
「あー……ま、アレだ。式はともかくとしてよ、その後は内輪の飲み会だから、そっちは顔出せんべ?」
「え? あ、ええと……はい?」
振り向けば、横島さんの呆れたような苦笑があった。
「聞いてなかったのかよ……式が終わったら、夕方ぐらいから皆で飲みに行こうって話になってんだよ」
「僕も……ですか?」
「おう。六時半に、駅前集合な。遅れたら、漏れなく罰ゲーム追加だかんな」
「決定事項ですか」
苦笑が漏れる。しかし同時に、彼の気遣いが十二分に理解できた。
「解りました、じゃあ、遅れたらカラオケで一曲リクエストを受け付け……」
「いや、それは勘弁」
互いにふきだし、しばし、笑いあった。やがて、彼等は揃って式場へと去っていった。めいめいに、去り際手を振ってくれた。彼等の姿が通りの向こうに見えなくなるまで、自分は教会の前で見送っていた。そして、気付いた。
気付いた。気付いて、しまった。ああ、彼は、これを告げていたのだ。これを、自分に教えようとしていたのだ。
教会に入り、祭壇へと向かう。警告は、ずっと聞こえ続けていた。彼等を見送る間にも、響いていた。
覚悟せよ。覚悟せよ。汝覚悟をせよ。汝――死を、思え、と。
−−−−−
「主よ。あなたが言っていたのは、これだったんですね。これを、覚悟せよと。だからあなたは、僕に」
問いかけに対する答えはなく、彼はただ、警告を繰り返すばかりだった。
覚悟せよ。汝、覚悟をせよ。死を思え。ただしそれは――汝の死に非ず。彼等の死なり。
死を思え。死を思え。彼等の死を思え。いずれ、彼等はお前を置き去りにするだろう。
今日の如く。明日の如く。昨日の如く。その時、お前は永遠に、取り残される。
だから、汝不死者よ。死を――「memento mori」――思え。
解っていた筈だった。それは、とうに解っている事だった筈だ。彼等と自分は違う。彼等と自分は、違う時間を生きているのだ。彼等がまだこの世になかった頃、彼等の父祖の時代から、自分はこの世にあったのだ。そして、彼等の子孫の時代にも、自分はこの世にあり続けるだろう。彼等の去った後の地上に、自分はあり続けるだろう。
解っていた筈だった。解っている筈だったのだ。だのに、ああ。彼等が立ち去る背を見ながら、あんなにも心が乱れたのは。そういう事なのか。だから、彼は自分に。繰り返し繰り返し、告げていたのだ。
まるで、呪う言葉のように。
知らず、床に膝をついていた。両の手は、胸の前に。許しを請うかのように。その呪いから逃れる事を祈るかのように。しかし。しかし。
ああ、解っている。それこそ、解っている事なのだ。それは、決して叶わぬ祈りなのだ。父が、そうであったであろうと同じく。自分は、立ち去る人々を、見送り続けなければならないのだ。今日の如く。明日の如く。昨日の如く。延々と。永遠に。
ああ、主よ、主よ。感謝します。貴方の警告を、私は決して忘れないでしょう。二度と、決して忘れないでしょう。彼らはいずれ死すべき定めにある事を、断じて忘れはしないでしょう。常に、彼等の死を、この心に置いておく事でしょう。
死を思え。死を思え。死を思え。そう言う貴方の警句の通り。
そして、彼等の来し方行く末を、己が目に焼き付けましょう。それこそが、恐らく自分の、最後のよすがとなるのでしょうから。
ああ、主よ、主よ。自分にすら、この、人外の化生の血を引く我が身にすら警句を下される、慈悲深き貴方。私から貴方への、幾億幾万の感謝を。
たとえ貴方のその言葉が、人外の化生に対する、深い呪いであったとしても。
――了――
今までの
コメント:
- 彼らの死を忘れられないのが呪いなら、彼らの死ですら忘却に埋もれさせてくれるのが救いかも。
でもその救いはピートにとってはきっと呪いでしかなくて……ううむ、
何だか色々考えちゃうお話でした。 (S)
- 最後の言葉の残酷さとタイトルが持つ響きが
すごく。ものすごく。
響きます。
ピートはきっと乗り越えるよねって、
こう。裾を引っ張りながら聞きたい気分っ。 (ししぃ)
- 心にずしりと響く内容に圧倒されました。
凄い!
もうソレしかいえません。
感想になっていませんが…… (AC04アタッカー)
- 長寿なキャラクターの永遠のテーマですよね
臥蘭堂さんの重厚な文章がそれをこれでもかと
言わんばかりに攻め立てます。
まぁ彼はいつまでも根本的には
変わらないでくれるとは信じていますよ (虜)
- 進んでいく周りと、取り残される自分と。
きっとこれからも繰り返される風景であったとしても、その度にピートはどんな思いをしていくのでしょうね。 (とおり)
- 死を想う、その事は永遠に近い時を生きる者にとってどういう意味を持つのか。
それを実感できたピートは、これからなお強く生きていく。
そう感じさせる作品でした。 (aki)
- 残される者の哀しさ…でも、それでもそれを受け入れて、その重さ負けまいとするピートの姿が良いです。 (偽バルタン)
- 最後の一文に臥蘭堂さんの世界の全てが凝縮されているような気がします。
それでも、温かい時を知り、死を思うピートにはそれを受け入れる器があるのだと……信じようと思います。
いつもながらの深い味わい、お見事です。 (ちくわぶ)
- メメントモリ、これが警句なのか、慈悲なのか、はたまた呪詛なのか、
ピートはこれを、乗り越えるのか、潰れるのか、達観するのか、諦観するのか、
似たような立場にあるカオスは、どうだったのか、どうなのか、どうなるのか、
考えても考えても、結論は出そうにないです。
僕らが子犬なんかを飼ってても、似たようなことは起きますけど、
それにしても、ピートは人間に似すぎてますしね。それが幸せなのか、不幸なのか。
メメントモリという言葉にも、時代によって、あるいは立場によって、
いろんな解釈があるみたいですよね。
死を思うがゆえに、現世を享楽的に生きようとしてみたり、
死を思うがゆえに、現世を虚しく捉えてみたり、本当に様々です。
おもしろい──というには、あまりにも深いタームです。やられました。 (サスケ)
- 何というか…すごく難しい話でした。
島で「仲間」と過ごしていたうちはこんな事を考える必要はなかったんだろけど、これからはそんなわけにもいきませんからね。
この警告をうけてピートがどのように生きていくかがすごく気になります。 (いも)
- 同じ時間を歩む事が出来ないにもかかわらず寄り添った結果。
もしもそれを呪いと言うのならば、なんと離しがたく、切ない物なのでしょう。
所詮同じ時を歩めない彼らにはきっと、彼を慰めることも、悲しみを癒すことも出来ないでしょう。
ならば、せめてそれらを一時でも忘れることが出来るように、輝く思い出を作ってほしい。
離れていったときに思い出せる、傷を癒してくれる大切な時間を作ってほしい。
そう思いました (天馬)
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