しののめのみち
投稿者名:赤蛇
投稿日時:(06/ 4/ 2)
しののめの ほがらほがらと 明けゆけば おのがきぬぎぬ なるぞかなしき
よみ人しらず 古今和歌集 巻十三 恋歌三
夜も明けぬうちに目を覚ます。
通い慣れた男の部屋は、灯りをつけずとも勝手は当に承知で、暗い部屋の中で手早く衣服を改める。
ふとんがわりのコタツに眠る男に、起こさぬほどにそっと声を掛け、静かにドアを開けて外へ出る。
コートのポケットから、最近貰った無愛想な合い鍵を取り出し、かちりと回して鍵を掛けた。
だらしのない男の部屋は、いつ来てもドアに鍵の掛かっていたためしがないが、それでも、自分が出るときには掛けていくのだった。
まんざら知らぬ仲でもない隣人たちに聞こえないように、錆びた手すりに手を添えながら、ゆっくりと階段を降りる。
それでもなお、金属製の赤茶けた階段はカツン、カツンと、明らかに女とわかる乾いた音を立て、帰る来訪者の名を告げていた。
藍色の空は未だ青くならず、暁のときはまだ半刻ほどもあった。
春分をとうに過ぎてもなお、明け方の冷え込みは厳しく、おキヌはコートの前を合わせて歩く。
それでも、日一日と見ゆる空の青みと風の温みに、陽の長くなる季節の到来を感じていた。
表通りをゆくのは、空車の赤いランプが目立つタクシーの列と、都内を走り抜けていく県外ナンバーのトラックばかり。
道行く人もさすがにこの時間はまばらで、一様におキヌとは反対の、駅のほうへ無言のまま歩いていく。
もうまもなくすれば始発電車も動き始めるが、いつもおキヌはそれには乗らず、二駅ほど歩いて別の路線を使う。
明け方といっても乗る人は意外に多く、部活動にでも出るのか、制服姿の高校生も少なくはない。
そんな折、私服姿の自分が、六道女学院とは逆の方向へ向かうところを、いつ何時見られるやも知れぬ。
別段隠しているわけでもないので、見られていてもかまわないとも思うが、口さがない級友の無責任な口の端に上るのも、いささか面倒ではあった。
誰も渡らぬ信号がさみしく灯る交差点の角を曲がり、人気のない小さな公園のそばを通り、静まり返った住宅街を抜ける道を歩く。
この辺りは番地の地名が示すように、昔の谷筋にあたり、直角に伸びた道が一度深く下り、その先でまた目線と同じ高さにまで上がっている。
歩いていくぶんにはさほど苦でもないが、自転車で通う人を泣かせる地形でもあった。
その心臓破りの坂を、谷底から軽やかに駆け上がって来る人影があった。
良く見知っているその姿に、おキヌは朝の挨拶を投げかける。
「あら、シロちゃん? おはよう」
「おっ! おキヌどのでござるか」
まだ日も出ぬうちだというのに、いつもと同じタンクトップにカットジーンズの姿に、思わずおキヌのほうが身震いをしてしまうが、シロのほうはほんのりと汗をかきつつも平然としていた。
さすがに人狼というべきか、結構な勢いで走ってきたにもかかわらず、息の乱れも白さもまったく見えなかった。
「ボンジョルノ! で、ござる」
最近、ひょんなことでピートに教えてもらったイタリア語の挨拶を、得意そうになって元気良く交わす。
語尾に”御座る”を付けてしまっては意味がないとも思うが、幕末の頃に蘭語を一所懸命になって覚える武士のようにも見え、なんとも微笑ましかった。
「こんな時間から散歩?」
「いやいや、これはちょっとしたトレーニングというか、鍛錬みたいなものでござるよ。それに―――」
シロはうっすらと浮かんだ汗を拭いながら、言葉を続ける。
「一人で走るのはサンポではござらぬ」
言外に、散歩の連れを一人占めしているおキヌに対しての、小さな抗議が含まれてはいたが、おキヌとて今更そんなことを気にする相手でもない。
シロは歩みを止めずに坂を下っていくおキヌについて、今しがた登ってきた道を一緒に下る。
このような坂の一つや二つ、彼女にとっては平地に等しく、多少のロスはなんでもないことだった。
両岸にはまだ眠りについている家々が並び、二人は声を大きくしないように気を付けながら、取り止めのない話題をちらほらと話す。
同じ屋根の下に住む同性とはいえ、種族も生まれた時代も絶望的なまでに違う二人は、話の意気が合うようでもあり、合わぬようでもあった。
すっと汗の引いたシロが、くん、と無意識に鼻をひとつ鳴らすと、時折おキヌが纏わりつかせるようになった匂いが触れた。
途端にシロは、ふおっふおっふおっ、と、どこぞの猿神のようにわざとらしい声を出し、昨日はお楽しみでござったな、と言ってにやり、と笑った。
その何かを含むようないやらしい笑顔は、どこぞの年端も行かぬ若いエスパーのようにも見えた。
「あ、やっぱりわかっちゃう?」
同居人から逢引の証拠を付きつけられてもおキヌはさして慌てもせず、肩の辺りをくんと嗅いで確かめてみる。
だが、自分の鼻では特に気になるような匂いは感じられなかった。
「早くシャワーを浴びないとダメね」
「そんなに気にするほどでもござらぬよ。拙者も、良く知っているおキヌどのなればこそで、他の人が気づくこともないと思うでござるよ」
「あら、シロちゃん。普通の人間でもね、女のコは結構鋭いものなのよ」
「ふむ」
人狼である自分の感覚に匹敵すると言われ、シロはいささか考え込んでしまう。
そんなに大げさに考えることじゃないのよ、とおキヌは言うが、こと嗅覚に関してはなかなかに譲れぬものがあった。
いつになく考え込んでいるうちに、谷底を越えて対岸へ渡り切っていた。
人気のないアスファルトの冷たい路面を、角のコンビニの灯りが煌々と照らしている。
店内に掛かる時計の針を遠目で見ても、日の出の時刻にはまだ早い。
おキヌはこれから帰ってシャワーを浴び、朝食の支度を済ませてから、学校へと向かう。たしか、今夜は仕事の予定も入っていたはずだ。
いくら若いから、好きだからとは言っても、こうした夜が続けば、余計なことかも知れぬが些か心配になってしまう。
「おキヌどのは、いつまで夜這いを続けるつもりでござるか?」
夜這いという、かなり生々しい言葉を付きつけられておキヌはとまどうが、それでもシロの言わんとしているところはわかる。
「―――しばらくは」
「大丈夫でござるか?」
「大丈夫、と聞かれるとちょっとキツいかな。でも、仕事が忙しいときは控えるようにしてるし」
「我慢して控えられるものでもござらぬくせに」
「それはわかっているんだけど・・・」
まるで昨夜のことを見られていたかのように言われ、気恥ずかしさが少し顔に出る。
意外な発見だったが、自分のほうがあんなに積極的だとは思ってもみなかった。
あんなのは、とても自分の部屋で見せられたものではない。
図星を指されて赤くなるおキヌを見つめ、シロは思わずため息をついた。
「まったく、いつからおキヌどのは先生になったのでござる?」
「そ、そんな! 見境いもないような言い方をしなくても・・・」
自分の師匠と彼氏に対して、本人が聞けば涙でも流しそうな評価ではあったが、あらかた事実だけに反論できるはずもない。
「いくら美神どのが出張でいないからといって、昨日も一昨日も、というのは充分に見境いなどござらぬ」
はるかに年下のシロにきっぱりとたしなめられてしまうと、おキヌはしゅん、として何も言い返せない。
菜に塩をかけたようなおキヌの様子に、少し言い過ぎたかとも思うが、おキヌを心配するあまりに、ついつい口がきつくなってしまう。
「そんなにまぐわいを重ねて、ややこが出来たらどうするのでござる?」
社会通念の価値基準が些か古いおキヌやシロにとって、十五を過ぎれば立派に婚姻、ならびに出産の適齢期であるのだが、現代においてはあまり誉められたものではないのはわかっている。
仮におキヌが妊娠、ということにでもなれば、互いの家族や学校などでひと悶着も起きるであろう。特に、彼女達が住まう事務所内での騒動は、それこそ後々までの語り草になるに違いない。
「まあ、そうなったとしても構わぬのでござろうが・・・」
おキヌの返事は全くないが、心の奥底でどこか、それを望んでいるのだろうと察しはついた。
そうなれば情けない師匠の事だから、目を覆わんばかりに周章狼狽して騒ぎ立てるのだろうが、男らしくない決着をつけることは絶対にない、と確信を持って言える。
ただ、出来ることなら二人には、きちんとした段階を経て一緒になってもらいたい、とも思う。
他人がとやかく言うことではないのだろうが、子供が出来たから、というのを理由にはして欲しくなかった。
「どうも、その辺の覚悟のようなものは、拙者にはまだ判りませぬな」
今だ発情期に至らぬ自分には、淫するまではなくとも情欲に溺れる気持ちというのは、今一つ理解しがたい。
強いて例えるなら、自らの散歩への欲求に近いのかとも思うが、ただ闇雲な本能による欲求、というのも違うように思える。
結局、こればかりはなってみなければ判らない、という結論にならざるを得ない。
「ふふ、シロちゃんも人を好きになってみればわかるわよ」
「そういうものでござるか?」
「そういうものでござるよ」
シロの口調を真似、静かに微笑むおキヌの笑顔は、どきりとするほどに美しく、艶めかしかった。
よく判らぬままに歩き、気がつけば次の駅の近くまでたどり着いていた。
見れば空も赤々として、日の出が近いことを知らせている。
街のざわめきも次第に音を成し、行き交う人の数も格段に増えていた。
「じゃ、私はここから乗って一旦帰るけど、シロちゃんはどうするの?」
「拙者はもう少し走ってから戻るでござるよ」
「あ、そう。今日は少し早く出るから、帰ってきたときはいないかもしれないけど、何か作っておくわね」
さすがに眠気が襲ってきたのか、あくび交じりにおキヌは言う。
少し早めの電車に乗り、うまく座れれば寝るつもりだった。この分だと、今日は授業中にも居眠りをしてしまうに違いない。
シロはそんなおキヌに、かたじけない、と礼を言って踵を返そうとしたが、ふと思いついて立ち止まる。
「―――おキヌどの、部屋の鍵を貸しておいてくださらぬか。あとで先生にサンポに連れていってもらうでござるよ」
「いいけど、それなら昼過ぎぐらいにしてあげてね―――」
かなり疲れていると思うから、と言いながら鍵を渡すおキヌに返事を返すのも忘れ、シロはあきれ果てたような声でうなる。
「いくらなんでも、度が過ぎてござるよ!」
その抗議も何処へやら、電車が来るから、と言い残しておキヌはそそくさと改札口へと消えていった。
シロは手の中に残る鍵を握り締め、やおら薄く赤焼けた空を仰ぎ見る。
視線の先で、電線に止まっていた雀が三羽、逃げるようにして慌しく飛び去っていった。
「やれやれ―――」
遠く離れた出張先で、たぶんまだ寝ていてこの空を見てはいない、自分たちの雇い主であり、保護者でもある女性のことを思い浮かべる。
「―――知らぬは家主ばかりなり、でござるか」
そう呟いて、年の端に似合わぬため息をつき、肩を落とした。
今までの
コメント:
- 短編ばかりが思い浮かぶというのは、行き詰まっているという証拠でもあります。まあ、いろいろと(笑)
さて、おキヌちゃんなんですが、私の中では彼女はやっぱり大人です。
というか、大人を通り越して枯れちゃっている感じがするんですよね。
『フォクシー・ガール』において横島の部屋で一夜を明かしているのはよく言われるところですが、私が注目したいのはその最後のページで、タマモが鳴らしたチャイムに横島が出るシーンがあります。
このとき、おキヌちゃんも一緒にコタツにあたっているので、ドアを開ければ容易に見られちゃうわけですよ。
それなのに、二人ともそのことにまったく頓着しないということは、一緒にいるのが当たり前で見られても関係ない、ということなんじゃないかと思うんです。
少なくとも、二人一緒にいてどきどき、なんていうレベルじゃないはずないですよね。 (赤蛇)
- ほのぼのした、ともすればどうでもいい(笑)日常の会話を仰々しく書かれる。
素敵です。と言うか、小説家っぽい?(爆) (竹)
- と……失礼。↑の賛成票は、勿論お話の展開に対する『賛成』です。枯れちゃってる(?)と言うのには同意(笑)。 (竹)
- 色々と大人っぽいおキヌと、大人未満なシロが面白かったです。
原作から少し後の、こうなるかもしれないという展開予測、といえるでしょうか(^^ (とおり)
- 情景が,目の前に広がるような,良い文書だと
思います。
自分も,これだけの文書作成能力を持ちたい
ものです。 (モズ)
- 色事も含めて事実関係が分かっている達観した子供のようなシロ、本当に大人なキヌが良いですね。
美神がアダルトチルドレンとなると外見年齢と中身とのギャップが面白そうです、美神除霊事務所の面々の。
なぜ電線に雀が三羽止まっていたのでしょうと、どうでも良い事など考えつつ、賛成です。 (Nar9912)
- 大人なおキヌちゃんに思わずドキドキしてしまいました。
降参です(笑) (美尾)
- くっ・・・・自分のことにかまけてたせいで、他の方に先に気付かれてしまいました(泣)
艶っぽい話に、ひっそりと電線音頭を含ませる心の無さ(※褒め言葉です)が大好きです。 (UG)
- 原作では美神さんに可愛がられているような印象が強かった為、大人の女っぽいおキヌちゃんが新鮮でした。
また土台を支えている大きく過不足の無い情景の描写ですが、ただのどこにでもありそうな街を具体的に浮かべられて、良かったと思います。
堅い文体も話の展開と合っていて心地よかったです。 (日野 隆)
- アダルトです。でも、それを納得させてしまう文章で綴られているわけで。
こう、今の気持ちを上手く書けないのがもどかしいですが……
良い、と言わせてください(笑)
お見事です。 (ちくわぶ)
- おキヌちゃんが精神的にも大人で、情欲深いと言うのは、私の中では当然の事となっていますのでその辺りは置いておくとしまして(ぇ
今回注目したいのはシロですね。
分からないと言いながらも、その光も闇も真っすぐに見据えている感じが強くしました。
いずれおキヌちゃんとも良い勝負をしそうだと予感させられもします。
修羅場なんて騒々しいものではない、もっと静かでエッジの利いた渡り合いを。 (フル・サークル)
- >竹さん
>ともすればどうでもいい(笑)日常の会話を仰々しく
私の場合、ほとんどがそれだったり(笑)
ネタ探しに読んでいた古語辞典の中で、たまたま冒頭の和歌をみつけて、夜明け前の道を帰るおキヌちゃんのシーンが浮かんできたんですよね。
やっぱりね、彼女達は『枯れちゃってる』わけですよ。
>とおりさん
シロのは大人未満というか、愛情とはちょっと違うんですよね。
横島に対して抱いているのは、父に、兄に、そしてシロ自身は否定するでしょうが飼い主に対しての情愛であって、まだ恋愛には至っていないんだと思います。
だから、自分に対する気持ちが変わらなければ、別に誰と付き合おうが結婚しようが、まったく関係ないわけなんです。
>モズさん
情景が思い浮かぶ、と言って頂けてありがとうございます。
ただ、まだ文書レベルにとどまっているのが現状でして、さらに研鑚して少しでも文章に近づくように努力したいと思います。
>Nar9912さん
美神がアダルトチルドレンになると、確かにそのギャップと三つ巴の関係がおもしろいかもしれません。
誰がどう見たって二人が肉体関係を結んでいる仲なのは判りきっているのに、それを見とめたくないが故に現実に目を背けて日常を過ごそうとしている、というのは、なかなかに暗くていいですね。 (赤蛇)
- >美尾さん
大人なおキヌちゃんにはドキドキですが、さらに突き進めるとどうでしょう?
私の頭に中には、かなーりキテる展開があったりするんですが(笑)
>UGさん
そこがポイントですか(笑)
特になんでもない表現にしたつもりなんですけど、前出のNar9912さんもそうでしたが、結構気づかれてしまいますね。
こういう艶っぽい話は、出来たらもう少し書けるようになりたいです。
>日野 隆さん
都内にはわりとどこにでもありそうな住宅街の風景かな、と思います。
坂の描写のあたりは、仕事で行った大田区のあたりがイメージにありましたが。
自分にはもう、感情を込めて書くのは無理とわかりましたので、堅い感じで攻めていこうかと。
でも、情感は込めて書くように努めていきたいですね。
>ちくわぶさん
はい、アダルトです。子供は見ちゃいけません(笑)
ただ自分の場合、そういう背景はすでに既成事実として念頭に入れていますので、アダルトとしても不満を募らせることとなるのですが。
おキヌちゃんにはね、そういった関係もまた似合うと思っているんですよ、私は。
>フル・サークルさん
>大人で、情欲深いと言うのは、私の中では当然の事
タヴァーリシチ! 『おキヌちゃんオトナ同盟』へようこそ!!(笑)
そして、
>おキヌちゃんとも良い勝負をしそうなシロ
実はこれ、ひとつネタが浮かんでいたりします。
近松門左衛門の名作を背景に『心中天の横島』なんてのが細々と・・・ (赤蛇)
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