ザ・グレート・展開予測ショー

平安霊異譚・後 松原に響くは…(GS)


投稿者名:すがたけ
投稿日時:(06/ 3/19)

 葛の葉の一撃は、道真公を左肩から斜めに斬り下げていた。

 アシュタロスの介入があったとはいえ、前には両断されながらも蘇ってきた鬼である以上、楽観は出来ないというのがあるのだろう……念には念を入れ、振り下ろした手首を翻し、横に払う。



 だが、その右手を道真公は掴んでいた。



 如何に道真公が希代の鬼、いや、祟り神であるとはいえ、あれで……倒せないというのか――?!

 我々の全力を受け止められ、それまで必死に張り詰めていた心に冷たいものが滑り込んでくるのを……私は感じ取っていた。




 〜平安霊異譚・後 松原に響くは…〜




 それは……あまりに異様な光景だった。

 左の肩から右の腰へと袈裟懸けに斬り下げられているにも関わらず、頭と右の上半身のみを宙に浮かせ、葛の葉の右手を掴んでいる……いや、掴んでいるというよりはむしろ、鞭のように変じた右手で『巻きついている』というより他にない。

「危なかったぞ……だが、この程度で私は死なぬ―― あの時に受けた恨みこそが私を衝き動かしている以上、この程度で死ぬわけにはいかぬのだ!!」

 その声が重く響くとともに、右手を通して強制的に電流を流された葛の葉の身体が、釣り上げられた魚のように大きく跳ねる。

「が……はぁっ!」
 道真から流された過電流が一瞬だけだが心臓の動きを止め、肺を無理矢理押し上げた。

 苦しげに息を吐く葛の葉の朦朧とした意識に、嘲弄の響きを含んだ道真の声が聞こえる。
「ふん……一思いに殺してもいいが、魂の移し替えは面倒なのでな―― 少しの間だけは生かしておいてやる。
 ただし――」電撃により、身体に力の入らない状態で亥の式神・ビカラの体当たりを受け、葛の葉の腹の底から熱いものがせり上がってくる。「逃げられぬように、せいぜい痛めつけはするが、な」

 式神繰りの天才である冥子との綱引き状態であったはずの式神が、道真の意のままに動いている……その光景に、西郷は目を疑う。

 冥子がその集中を切らしているわけではない。

 必死に恐怖を噛み殺しながら、その目に涙を浮かべて道真から式神のコントロールを奪い取ろうとしていることに変わりはない。

 だが、道真は『綱引き』を諦めていた。

 式神十二体を同時に制御していたがために六体を奪われ、残り六体も綱引き状態という現状を打破するため、あえて動かす式神を絞り込むことで、三体の式神のコントロールを無理矢理取り戻したのだ。

 単純に言えば、十二本の『綱』の九本を捨てて、重要な三本の綱を持つ手を増やした、と言ってもいい。

 その『重要性』とは―― 攻撃性能。

 卯の式神であり、刃状の耳を武器とするアンチラと石化という副次的効果ももたらす炎を吐く辰の式神であるアジラ、そして、強力な突進力を誇る亥の式神・ビカラという残る式神の中でも特に攻撃性の強い三体を完全に支配し、道真は一つごちる。
「ふん……やはりこのままでは動きにくいし……雷の威力も今一つ、か」
 それを合図としたかのように、切断された面から琥珀色の、粘り気の強い液体が流れ出る。

 粘着液に纏わりつかれれた左半身が、起き上がった……いや、起き上がったように見えた。

 粘稠度の高い琥珀色の液体を、中空にある道真の葛の葉を縛めたままの右半身が斜めに斬り落とされた左半身ごと吸い上げ、瞬時に起き上がったかのように見せたのだ。

「……きゃ」
 あまりに現実離れしたその光景に、幽子は恐怖に囚われる。

 恐らくは『かわいそうな友達のため』という意識があるのだろう―― 恐怖に気を失わなかったのは大したものではあったが、その幽子を狙って道真は左手を差し上げた。

 左手に雷が纏わりつき、文字通りの雷速で幽子を襲う。

「幽子様!」
 恐怖のあまりに棒立ちになっている幽子の前に、懐から出した数枚の避雷符を手にした西郷が、呆然と立ち尽くす幽子の覚醒を促すかのように叫びとともに立つ。


 二十年という年月は、西郷に才能を引き出させ、磨きを掛けるには充分な時ではあった。だが、それでもなお人間が“祟り神”たる菅原道真に伍するには不充分であった。

 高島との二人掛かりで押し切られた二十年前よりはやや長く持ったものの、符に込めた力は尽き、長髪の陰陽師は雷の顎に呑み込まれる。



 空気を叩き、引き裂く音とともに、雷の顎は閉じる寸前に横合いに弾けた。


 西郷を襲う雷を食い止めるべく、巳の式神・サンチラが電撃をぶつけて相殺を試みたのだ。

 とはいえ、西郷の避雷符によってその本来の威力を減じていてもなお、雷の神である道真の雷撃の威力には完全に抗しきれず、僅かに横に逸らせたことで、西郷の直撃を回避出来ただけであった。

「ぐ……うぅ」
 苦しげに息を吐いていることから、その雷撃によって生命を奪われることはなかったのであろうが、それでもなお、式神を使い潰して道真に僅かとはいえ痛手を加えたことが響いているのだろう……血塗れになって倒れている西郷を無視して道真は雷光の閃きを受けてもなおいまだ傍らに色濃く蟠る闇を一瞥すると、含み笑いを漏らしながら言う。

「くくく、邪魔もあったが、やっとメフィストが……『鍵』が手に入ったか―― これで私の願いもかなうというものよ」
 言葉とともに、道真の纏う闇がさらに色を濃くする。

 闇を纏う左手を伸ばし、光を通すことなく不自然に存在する闇に触れる。

 空間を侵食するぬるりとした闇色と道真の纏う闇とが混ざり合い、瘴気が生み出される中、道真は断ずるかのように呟いた。
「―― 『冥界の門』よ、開け!」

「なっ……こんなところに冥界の門だと―― 地獄の扉を開ける心算か?!」
 道真の言葉に、驚きの声を上げる西郷。


 遡ることおよそ百年……文武に秀で、政界の不正を暴いて告発する弾正台の次官や、役人の不正をただす勘解由使(かげゆし)の長官をつとめ上げた小野篁(たかむら)という男がいた。

 昼間は朝廷の官吏として働きながら、夜になると冥界へ下り、閻魔庁第三の冥官として、生きながらにして閻魔大王に仕えたといわれている……あまりに謎の多い天才であるが、篁が冥界へ下りるときに使ったという井戸が、この時代の埋葬地である鳥辺野の入り口に位置する珍皇寺の裏庭にある。

 そして、毎夜冥界の政務をこなして化野(あだしの)にある嵯峨野の福生寺の井戸から都に舞い戻っていた、という。

 しかし、ここは鳥辺野でもなければ化野でもない……都の中心である内裏の一角、宴の松原だ。そのようなところに冥界の門があるとは、聞いたこともないし、そのような気配があれば、陰陽寮の総力を挙げてそれを消し去ることは言うまでもない。

 さもなくば、冥府との直通路を開かれた京の都は文字通りの死の都となってしまうからだ。

 西郷が驚きの声を上げるのも、無理からぬことであった。


 しかし、西郷の驚きとは裏腹に、魑魅魍魎の類はそこからは出てくることはなかった。
「なんだ……貴様、どうやら冥界の門について勘違いをしておるみたいだな?
 冥界の門とは、別に地獄や冥府に繋がっているからそう呼ばれている訳ではない。本来は空間に歪みを作ることで異界空間にチャンネルを合わせて作ることの出来る、任意の目的地と現在地を結ぶゲート……異界空間を介しているから、便宜的に『冥界』と言う名がついているだけのことよ」
 歓喜に打ち震える声で道真が言う。

 蟠る闇が透け、徐々に鈍い輝きを見せはじめた。


 松の枝を縫うように降りてくる月明かりに照らされて、巨大な何かが見える。

「……なんだ、あれは?!」
 金色よりはややくすんだ、鈍く、黄味がかった輝きをみせるそれを……西郷は知らなかった。

「これか……これは、トキヨミの一族の遺産よ!」
 葛の葉をその右手で巻きつけ、縛めたまま、恍惚とした表情で語る道真……高さにして二十メートルを越えた、鐘に似たもの……それは、巨大な銅鐸だった。

「トキヨミの……遺産?」
 だが、西郷にもその正体がなんなのかは判らぬまでも、それから感じる波動は大きいことに変わりはない。道真の言葉が熱を帯びるのとは対照的に、西郷の滲む汗が冷たいものに変わってきていた。

「かつてこの国にはトキヨミ、と呼ばれる一族がいた。
 時に干渉し、未来を見通す力をも持っていたその一族だが、そやつらは既に滅ぼされ、今はこうしてその遺産を遺すのみとなっている。トキヨミの一族を組み込むことで起動が可能な、時を越える装置という遺産をな。
 私はな……これを使い、時を越えねばならぬのだ。あの二人を―― 権力を欲するあまり、野心など持っていなかった私を追放した藤原時平と源光の二人を、私が……『道真』が京で生きているうちに、殺すためにな!
 トキヨミの一族の末裔を探し出すのは難しいが、幸いメフィストは時間跳躍能力を持っており、時に干渉するトキヨミの一族の代用にはなる……それに、もし万一ピースがうまく合わなくても、私にはこれがある―― 」
 誇らしげに言いながら、道真はその左手の中に光を生み出す。

 光は数秒の刻を経て凝集し、二つの瑠璃色の珠となって道真の掌に収まっていた。
「まさか……あれは、文珠!?」
 道真の開いた左掌に生み出されたものを見て、西郷は驚愕する。

 二十年前、未来の世界で神道真が葛の葉とその生まれ変わりにもたらしたことが逆転の布石となった……圧縮・凝縮した霊気を一定の特性を持たせて解凍することで任意の効果を呼び起こす『文珠』を、二十年の時を経て祟り神であるはずの道真も使えるようになっていたのだ。

 つまり、今の道真は限りなく神の道真に近い力を持っている、といってもいい。

 驚愕……そして、絶望以外には何もできようはずはない。

「これを作り出せるようになるまで長かったが、多少の誤差もこれで『調』『律』すれば……」
「ふふ…あはははははははははははっ!!」
 微かな絶望を混入した西郷の言葉を受け、得意げに語る道真のその言葉を遮る……生死の混在する戦いの場にそぐわぬ笑い声が、道真の肩の高さから響いた。

 松原に響け、といわんばかりの高笑いを見せ、葛の葉は横目で道真を見据えると、哀れむかのような響きすら含ませて呟く。
「知らなかったの……時間跳躍能力者は生まれ変わりの方よ?」

「なんだと?!貴様っ……時間跳躍能力者ではないとでもいうのかっ?!」
 その眼に『嘘をいうな』という、殺意にも似た強い念を込めた光を滲ませ、道真は問うが、葛の葉は軽い口調で応じて返す。
 
「あんたも案外間抜けね。いくら魂が似てるからって言っても、私と生まれ変わりとの区別もついてなかったの?」
 やや芝居がかった、あからさまな呆れをその口調に滲ませながら言うと、葛の葉はその胴回りに変異した右腕を巻きつけられた上、右手の先を首根に据えられていることで、文字通り生殺与奪を握られているにも関わらず、にやり、と人を食った笑いを浮かべ、周囲を一瞥する。

 血塗れの西郷の傍らで戌の式神・ショウトラが傷口を舐め、癒している。

 涙目で、それでもなお心を侵食する恐怖と戦いながら、道真の精神波に捉えられている式神の支配を解くべく一心不乱に精神を集中している幽子も見えていた。

 二人とも、葛の葉と葛の葉の『家族』のためにここに来ている。

 その想いを感じるからこそ、葛の葉は道真を挑発する。

 怒りによって相手の意識を一方向にのみ向けさせることで生み出された勝ち目を、余裕によって握り潰させないために……なにより、自分達のために戦ってくれている心優しいこの二人の想いに応えるために!

 横目に映る道真のこめかみが……恐らくは彼女の思惑通りの激しい怒りによって、ひくり、と動いたことを確認すると、葛の葉は道真の精神の堤防を決壊させる最後の一槌とするべき言葉を打ち込んだ。

「それに、あんたが過去を修正しても、結局今そうしてあんたが鬼になっているのと同じように、あんたにやられた恨みで鬼と化した政敵が『道真』を取り殺すだけのことよ。
 そんな時間の復元力なんてものも知らないあんたが過去を修正しようだなんて、ちゃんちゃら可笑しいって言ってんのよっ!」

 言い放った葛の葉の耳に、苦虫を噛み潰したかのような音が……聞こえた。

 それ自体は恐らくは幻聴だろう。だが、その幻聴を現実味のあるものにするだけの殺意を孕んだ形相が、京の鬼の貌に浮かんでいる。

 怒りのままに葛の葉の胴に巻きついた右腕が引き絞られ、肋骨を軋ませた。

 歯軋りの耳障りな音が耳朶を打つ。
「ふざけるな!私がこの銅鐸を見つけてからの十年は―― 失われた過去を取り戻すため……文珠を作り出せるようになるために費やした刻と労苦も、無駄だというのか!!」

「当然よっ!!世界ってのはあんたの思い通りに回ってないのよっ!!」
 締め付けられた肋骨に皹が入っているだろう……重く、鈍い痛みが葛の葉を支配しようとするが、葛の葉はその支配を跳ね除けるかのような強い口調で返す。

「き…………貴様ぁ!」
 その身に纏う殺意が、膨らんだ。

 ここまで培い、積み重ねてきた行為全てが的外れだ、と宣告されたことで生まれた、理不尽な怒りをぶつけるべく、極大の雷を操るべく意念を凝らしつつ、支配下にある三体の式神にも攻撃の指令を出す。

 最早理性は残ってはいない。

 ただ、怒りに任せるまま……この場にあるすべての存在を破壊し尽くし、魔族の衝動を解放するという意志だけが、道真の心を支配していた。


















「死ね!メフィスト!!」

 電流が右腕を駆ける。





















 ほぼ同時に、二条の斬撃が走り……粘りを帯びた、琥珀色の血が飛び散った。



 さながら蔦のように伸び、葛の葉の胴に巻きつくことでその動きを縛めていた道真の右腕が、アンチラの耳刃によって切り落とされたのだ。










 式神繰りの集中そのものは切らせていないはず―― 驚きとともに道真は幽子を見るが、幽子も驚きで目を丸めている。

『奴ではない、だと?

 ……ならば、誰が式神のコントロールを奪った?』
 斬り落とされた右腕を繋ぎ合わせつつ、道真がそう思った矢先であった……その懐から飛び出たエネルギーの鉤爪が、ビカラを掴んだのは。



 葛の葉に向けて直線的に突進していたビカラが、急激にその直線に鈍角の変化をつけ、道真へと突き進む。


 至近距離で突然自分に向けられた突進を躱す術を、道真は持っていなかった。


 吹き飛ばされた道真の懐から弾け飛び―― 地面に落ちてあっさりと砕け割れた宝珠から、年の頃にして三つほどの子供を抱きかかえたまま、印を結んで精神を集中している一人の陰陽師が現れる。


 全体に色素の薄い、痩躯の陰陽師の名を……葛の葉は叫んだ。

「や……保名ぁ!」

 陰陽師・安倍保名―― 生まれながらに『サトリ』の力……強力な精神感応能力を持つ、葛の葉の良人であった。





 式神繰りは精神感応と密接な関係を持つ。




 式神と精神を同調させることで五感を共有し、式神を手足のように操ることが式神繰りの基礎であり、深淵でもある。

 だが、その指令となる精神波に何らかの原因によってノイズが生じた場合、良くても暴走は免れない。

 いや、精神波の不調に伴ってコントロール不全に陥る『ただの暴走』ならばまだしも、契約という呪で縛られている式神がその呪から一時的にとはいえ解放されてしまえば、その矛先は、今まで己を縛っていた陰陽師へと向かうことにもなりかねない。

 それほどまでにデリケートな精神波による指令を、保名は精神感応によって奪い取り、書き換えた指令を式神に中継することによって式神を操ったのだ。

 言うなれば、道真が送信した情報を傍受した上、書き換えた情報によって強制アクセスを試みたと言ってもいい。

 無論、膨大な情報量を持つ精神波を書き換えて送信することには、精神崩壊のリスクもつきまとう。

 だが、そのリスクを保名は厭いはしない。

 愛する妻と息子の生命が天秤に乗っているのだ。瑠璃宝珠に施された結界の中で、葛の葉を道具として使おうと考えている道真の胸中を知ってより、自分がどうなろうとも、二人の命を守り通す覚悟は出来ている。

 その覚悟を己の寄る辺とし、極限までに集中することで、針のように細く、刃のように鋭く磨き上げて放った精神感応による強制アクセスで、即座に、そして無理矢理道真から式神のコントロールを奪い取ったのだ。


 術を通さぬ瑠璃宝珠の結界とはいえ、空気や音、視界は通す。


 人質として……そして、囮として使用するには、外から完全に隔絶せず、生きて足掻く姿を確実に見せた方が都合がいいから、という発想からだろうが、保名がこれまで忌み嫌い、見聞きすること……いや、呼吸することと同様に、自らの意思とは関係なく他者の意識を常に流れ込ませてきた『サトリ』の力もまた、術ではないのだ。

 術を通さぬ結界が、術に近いが、術ではない異能の力によって切り崩されるという思いもよらぬ事態に唖然とした道真が、漸く正気を取り戻したその時……一筋の炎の帯が道真を襲っていた。


「えっと〜〜……アジラちゃん、お願い〜〜〜!」
 
 保名が奪い取った式神のコントロール……その手綱を託された幽子の呼びかけに応じて放たれた、アジラの炎であった。

「ぬぅっ!!」
 浴びたものを石に変える魔性の炎を、躱せる体勢にない。


「よしっ、あれなら……!」
 炎に包まれる道真の姿を思い描き、霊刀を杖に立ち上がった西郷が声を上げた。


 しかし……道真は、躱すための挙動も起こさなかった。ただ袖に手を入れ……『それ』を引き出す。



 ―― 颶 ――!

 炎が吹き散らされる。

 その炎の恐ろしさ―― 強力な分、裏返せば自らにも害悪を及ぼすことにもなりかねない諸刃の剣である特性を持つことを承知している道真は、その袖から引き出した扇を振るい、烈風を巻き起こしたのだ。

 いや、吹き散らしたのみならず、風によって一塊の炎が押し流されていた。

 そして、その炎の向かう先には……子供を抱きかかえた陰陽師がいる。

「…………っ!」
 迷う暇はなかった。葛の葉は、その一瞬で集めることが出来る霊力を両手に掻き集めて収束し、盾とする。

 霊力の渦によって炎の大半は砕け、空気の中に消え失せる。しかし、その全てを防ぎきれたわけでもない。

 その証左となるかのように、一片の炎を浴びてしまった葛の葉の左腕は、手首から肘のあたりにかけて徐々に石と化している。

「くっくっくっくっ……庇いあう真似をするとは―― それではまるで人間ではないか、メフィストよ?」

「うっさいわね!人間のどこが悪いのよ!
 あんたこそ、元人間の癖に人間の良さを忘れるなんて―― 愚かを通り越して、哀れ以外の何者でもないわね!!」
 そう言い捨てる葛の葉の胸に、二十年の想いが去来する。

 抱きしめられた喜び……己が身を省みることなく他者を守る力……ともすれば握り潰せそうなほどに儚く、弱々しいが、確かな力強さを感じさせる生命の輝き……そして、失った時の哀惜―― 人間になる、と決めてから感じてきた強い想いが、その胸の内に渦巻いていた。

「ふん―― 時に介する能力も持たず、人間に影響されて魔族の本性を忘れたお前になぞ用はない……仲間とともに――」
 が、その悪態も道真にとってはただの悪足掻きでしかない。葛の葉とその仲間を睨みつけると、その両手に雷を宿した道真は、あくまで見下した態度で宣告する。

 
「待て、葛の葉―― それは……それだけは止めるんだ!!」
 妻が何を考えているのかを察した保名が、葛の葉を押し止める。

 だが、葛の葉は言葉を答えにはしなかった。

 振り返り、笑みと確かな想いを良人に投げかけ……右手で懐から一枚の符を取り出す。

 賀茂に渡された『時の刻みに干渉する術』が封じられた一枚の符―― 時を凍りつかせ、その中で動くことが出来るという秘術の中の秘術であるが、その時間はおよそ二呼吸分だけ、とごく短い。

 それで倒せなければ、待つのは全滅のみ―― それを避け、確実に道真を倒すため……葛の葉はあえて封じ込めていた力を解放しようとしていた。



 人として生きたかったという後悔は当然ある。人間として生きた二十年の思い出が走馬灯のように駆け巡り、逡巡が生まれる。

 しかし、その思い出があればこそ、たとえ鬼として生きることになろうとも生きていける―― その決意が、葛の葉の背を押した。

 葛藤は、生まれた一瞬で消えていた。

『―― ありがとう、保名……童子丸を、宜しくね』
 想いとともに、葛の葉は念を込めた。

 左腕を覆っていた石が、さながら木の皮を剥ぎ落とすかのように剥がれ落ちていく。

「―― 消し飛ぶが……」
 同時に、道真の嘲笑を交えた叫びが徐々に遅くなり、止まる。

 刻が凍りつくかつかないかの時点で、道真に向けて一直線に駆け出した葛の葉の右手が、白く輝く。

 主に炎を操る鬼……炎鬼として生み出された『メフィスト』の力を、拳の一点に込めた、白熱の拳であった。

「いい……なにっ?!」
 勝ち誇った道真の嘲笑が再び聞こえ始めたその時、炎鬼としての力を解放した葛の葉の炎拳が道真の胸板を貫いていた。

 背中にまで貫通した白熱の炎拳が、道真を炎に包む。
「お……おのれ、メフィストおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ」
 しかし、道真はその一撃にも耐えていた。

 ―― 轟 ――!

 左右の手に宿る雷……そして、それを呼び水にして遥か天空から落ちてきた雷が、葛の葉を撃っていた。

 落雷直後の独特の臭気が松原を満たす。

 そして、そこに葛の葉の姿はなかった。


 西郷の……保名の意識が怒りに白く染まり、視界が狭くなる。


 弾け飛ぶかのように駆け寄り、斬撃を見舞う。

 幾枚もの意念をこめた破魔札を投げつけ、それを炸裂させる。



 だが、それら全てを扇の一振りで弾き飛ばした道真は……焦りの浮かんだ表情で言った。

「メフィスト……どこだ!どこにいる?!


 ―――― どこに、『消えた』っ!?」




 怒りのあまり、道真は忘れていた。

 『もう一人のメフィスト』が見せた時間跳躍能力を発動させた際の力の源が、自らの雷であったことを―― そして、今葛の葉が使ったものも、別の角度からのアプローチとはいえ、時に干渉する能力であることも……理解してはいなかった。



 西郷の手から弾き飛ばされた太刀が、何者かの手に収まる。

 忽然と現れたその気配に彼らが気付いたその時……霊刀である伯耆国安綱の峰には、左手が添えられていた。

 峰とはいえ、霊刀の強力な霊威に直接触れることによって、半ば以上を鬼と化しているその左手から白煙が上がる。

「―― 葛の葉!!」
 中空で安綱を握ったのは……葛の葉だった。


 時間跳躍能力の持ち主である『生まれ変わり』……美神令子と葛の葉を道真が今の今まで勘違いし続けたほど、同一といってもいいほどに似通った魂である葛の葉が『時に干渉する力』に触れたことで時間跳躍能力に目覚めるという奇跡が……起きていた。


 雷撃がスイッチを入れた時間跳躍能力により、そこ……十秒後の未来の、道真の頭上に現れた葛の葉は、霊刀のもたらす痛みにも構うことなく、全体重をかけて道真の肩口に刃を食い込ませる。

 かつん、という硬い衝撃が葛の葉の手に伝わった。

 巨大な邪気に触れた安綱の霊威が、白い雷にも似た火花を上げる。

 そして、枯れ枝を山刀で切ったかのようなあっけない感触が葛の葉の手に伝わったその時、葛の葉は地面に跪いていた。

 霊威の火花による容赦ない打撃にその身を苛まれ、最早動くことも難しい。

 だが、道真もまた甚大なダメージを受けていた。

 一時的にとはいえ、邪気を消し飛ばされ、核の一部を切られたのだ。並の魔族ならば、滅んでいてもおかしくはない。

 だが、流石に道真はアシュタロスによって特に強い力を与えられただけのことはあった。
「メフィスト……貴様を侮りすぎたのが敗因か」
 動きそのものは鈍くなっているものの、それなりに言葉に力はある。
「しかし……貴様が今、時を越えたことに変わりはない。今は退くが、今斬り落とされた『枝』を補い、力を取り戻したその時こそ、銅鐸の鍵とした上で、この恨みを晴らしてくれる―― その時を待っているがいい!」

 その言葉とともに、天から雷が落ちた。

 雷によって視界が灼きつく。

 光によって白く染められた世界が徐々に暗闇に落ち着いてきたその時には、道真の姿は、既にその場にはなかった。

 ただ、邪気を消し飛ばされた核の一部……梅の枝をそこに残して―― 。

「梅の……枝?
 ―― そうか……道真公の邸宅にあった梅の木が大宰府にまで飛んでいった、という話は聞いたことはあったが……道真公の怨霊も、恐らくはそのような道真公に縁のある梅の木を核にして作り上げられたということか」

 葛の葉が拾い上げた梅の枝を見て、西郷が呟く。


 陰陽五行道には、相生と相克という言葉がある。

 木は火を生み、火は土を生むというように、互いを生み出す相生と、水は火に克(か)ち、火は金に克つという、互いを消し合う相克―― という風に、この世を作り上げるもの全ては、互いに生かし生かされる関係と、互いに殺し殺される関係との密接な結びつきにある、という理論なのだが……道真に関わりの深い梅の『木』を核として成り、雷を操ることに長けることになった『道真』にとって、その成り立ちが『金』気によるものである霊刀による攻撃は、最も有効な攻撃手段だったのだ。

 調伏そのものは出来なかったものの、曲がりなりにも道真を撃退したことで今後の対策も立てやすくなったことに希望の光を見出す西郷ではあったが、希望に表情を輝かせる西郷と違い、葛の葉と……保名の顔は暗かった。



「葛の葉……どうしても、行くのか?」
 その心を読めるが故に決意が堅いことは判ってはいる。しかし、納得いかない口調で尋ねる保名に、葛の葉は頷いて返す。

「仕方ないじゃない……道真に憎まれて、狙われることになったんだし―― あいつを倒すために鬼の力を呼び起こしてしまったんだから」

「バカなっ!今は倒せなかったが、もう道真公に対する方法は掴んでいるんだぞ!道真公に狙われたからと言って、お前が去る必要などないじゃないかっ!!」
 葛の葉の言葉に、当然の如く西郷は反対する。
 
 しかし、西郷のその言葉に対して、葛の葉はその眼に深い悲しみの色を湛えた、嬉しさと悲しみが綯い交ぜになったような笑顔を薄く見せ、続けた。
「保名には判るだろうけど―― 道真が逃げてくれて最初に思ったのは、安心でも恐れでもない……『残念だ』って一言なの。
 今も、こうして話している間にも『戦いたかったのに』『止めを刺したかったのに』『まだ血が足りない』って言葉が渦巻いて……必死に抑えていないと、全てを壊してしまいかねないのよ―― そんな心の持ち主が、本当に人として……親として生きて行けると思う?」

 西郷は二の句を告げることが出来なかった。

 確かに、かつて封印した鬼の力を呼び起こさなければ、道真を退けることは出来なかったであろう。だが、その力こそが心を侵食し、人として生きようという葛の葉の望みを断ち切ろうとしている……その『妹』の立たされた境遇に対して何も出来ない己の無力に、西郷は押し黙る以外には何も出来なかった。

「大丈夫よ……この力を抑えてくれるかもしれない神様には、心当たりがあるから―― 童子丸には、『狐の化身だった私は、正体を人前で晒してしまったから逃げていった』って伝えてやって?」
 苦い顔を向ける西郷と、妻のあまりに重い決断を推し止めることは出来ない、ということを知っているためだろう―― いくらかの諦観をその顔に覗かせて佇む保名に笑顔でそう言って、葛の葉は手にした梅の枝を軽く振る。

 その目には、うっすらと涙が見えていた。

 意を決し、踵を返す葛の葉―― の鼻先に、人影が現れる。

 寅の式神・メキラの力によって瞬間移動を果たした幽子だった。

 その腕には、半ば呆けている保名の腕から奪ったのであろう、保名と葛の葉の息子である童子丸が抱かれている。

 眠る童子丸を抱きかかえ、その頭を撫でながら幽子は葛の葉に対すると、言う。
「でも〜〜、葛の葉ちゃん、ちゃあんと戻ってくるんでしょ〜〜〜?じゃないと〜〜、この子が〜〜、かわいそうよ〜〜〜〜」

 幽子からかけられたその言葉に、葛の葉は気持ちと同じく沈んでいた顔を上げる。

「私〜〜、お母様の顔は〜〜、知らないから〜〜〜、置いてかれるこの子の気持ちは〜〜、ちょっとだけなら判るの〜〜〜」

 何不自由なく育てられた貴人とはいえ、実の母とは生まれてすぐに引き離され、乳母に育てられたことは、この笑顔を絶やすことのない幽子の心に、一抹の寂しさをもたらしていた。

 乳母は当然愛情を持って幽子を養育したことには違いない。だからといって、母の温もりが恋しくなかったわけでもないのだ。

 その寂しさを、初めて逢ったこの子供に味あわせたくない―― その思いを涙を溜めた眼差しに込め、幽子は童子丸を葛の葉に差し出し、言う。

「だからね〜〜、葛の葉ちゃん〜〜 ……行く前に〜〜、童子丸ちゃんだっけ〜〜……この子に『ぎゅっ』ってしてやってあげて〜〜〜。
 それだけでいいから〜〜〜〜」

 行くのは止めない……しかし、せめて置いていく息子を抱きしめていけ―― そう言って愛息を示した幽子の言葉に、心が震える。

 西郷に投げかけた誓いとは裏腹に、もう誰とも逢うことはないだろう、と覚悟したはずの気持ちが、萎える。

 だが、一度震えた思いは、最早その動きを収めることはなかった。

 誓いとともに葛の葉の凍らせたはずの心が融け……涙となって―― その双眸からとめどなく溢れた。





 落涙するままに、眼だけではなく、感覚全てを駆使してその生命の全てを記憶するかのような抱擁で葛の葉はしばし童子丸を抱きしめる。

「……じゃあ、行ってくるわ」
 およそ数分にも感じられる十数秒を経て、抱擁を解いた葛の葉は涙を流しながら、良人に息子を預けると、力強さを滲ませる口調で言った。

 色白の陰陽師は息子を抱き上げて頷きで応じると、返す。
「ああ……童子丸は任せてくれ―― ただし、これだけは言わせてくれないか。
 お前は『愛することを知らない』とずっと言い続けてきたが、お前の心はもう愛することを知っている。
 鬼になりそうな今も……その気持ちがあり、人であろうとする限り、お前は人間だ。それを忘れないでくれよ。
 義兄上も私も、童子丸も―― 皆、お前の帰りを待っているんだからな!」

「―― 判ってるわよ。絶対に戻ってくるから」

 その言葉とともに踵を返す葛の葉。

 未だ枯れ果てぬ涙は、一歩一歩その場から離れるごとにその両目から溢れてくる。

 しかし、その涙を拭うことはしない。

 下手に拭って涙を止めてしまっては、本当に鬼になってしまいそうだから―― 『鬼は涙を流さない。涙を流すのは人だけだ』……その人の矜持があればこそ、心のままに涙を流すのだ。






 宴の松原には……無言の慟哭が響いていた。





















「遠路はるばる……しかもその身重の身でご苦労であったな。まぁウメガエモチでも―― 」
 突然の来客に対して、天神にして学問の神でもある菅原道真はその神格の高さにも関わらずの腰の低さで応じていた。

「挨拶はいいわ。それよりも……これを―― 」
 筑前国・大宰府を訪れた『客』は、そのやり取りがいかにも煩わしい、といった風情で一本の枯れ枝を示す。

「ふむ……これは―― 飛梅の片割れ、か。これを核にして、私の怨霊が形をなしていたとはな」
 道真を慕い、一夜にして都の邸宅から大宰府の役宅へと天を駆けた伝説を持つ梅の木……その残された枝であっても捨てることが出来なかった主を慕う想いと、道真自身の末期の未練とが交わることで、都を揺るがす希代の怨霊と化したことに、神の『道真』は少なからぬ驚きを抱く。

 だが、その呪詛の大本が判れば対応も容易い。時を掛け、その応対さえ誤らなければ、その怨みを打ち消すことすらも出来るだろう。
 その希望を胸に、道真は『客』に頭を下げる。
「私が捨てた怨念が、都を荒らすとは……私の不首尾だった。
 君達には迷惑を掛けたな。その詫びといってはなんだが、私に出来ることならば何でもしよう―― 言いたまえ」


 
「そうね……頼みたいことは二つあるの。一つは、私を人間に戻すこと」

 その胸に去来するのは、何時までも素直になれない彼女の生まれ変わりの姿。

 ―― あの頃の私も、あんな風だったのかしら。

 生まれ変わりの見せた、小娘のような可愛らしさを思い浮かべ、小さく笑みを溢した葛の葉は……「そして、もう一つは―――― 」その言葉を、続けた。




 道真の頷きが、答えとなった。



























 葛の葉が去ってから、一年が経とうとしている。

 童子丸は四つになり、母のいない生活にもそれなりに慣れてきたらしい。

 義兄上と嫁御の鈴殿は、童子丸の資質はできるだけ早くに磨いた方がいい、と仰ってはいたが、まだまだ野や山を駆けて遊びたい盛りの童には違いないし、何より、まだ母の匂いが残るここから引き離し、陰陽寮の義兄上の下に預けるにはあまりに忍びない。

 この年頃ならば、本来ならば、母親に甘えたい年頃であることに違いはないのだ。

「父上父上父上ぇ――――――――っ!!」
 と、童子丸の声が聞こえてきた。

 ―― 全く、朝も早いというのに元気のいいことだ。

 私は竈(かまど)の世話を式神に任せると、童子丸の部屋へと足を向ける。

「早く早く父上――――――――――っ!!」
 明らかな弾んだ声に引き寄せられて向かったそこ―― かつての葛の葉の私室の障子に、歌が記されていた。

 『恋しくば 尋ね来て見よ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉 ――』

 ―― あいつめ、戻ってきたのならば素直に顔を出せばいいのに。

 照れ屋というか、なんと言うか……全く変わらない相変わらずの態度に、私は苦笑とともに童子丸の頭を一撫ですると、問う。

「童子丸―― ちょっと遠いが、一緒に出かけてみるか?
 母上に逢いに――?」

 少し驚いた風を見せ……童子丸の顔が、輝いた。

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