ザ・グレート・展開予測ショー

平安霊異譚・中 逢魔の松原(GS)


投稿者名:すがたけ
投稿日時:(06/ 2/26)

 目覚めた私が第一に目にしたものは、天地左右が同じ色に染められた、瑠璃色の世界だった。


 あまりに明確な異常に、やや混乱した私は周囲を見渡す。

 瑠璃一色の世界にありながら、葛の葉譲りの薄く赤みがかった髪や、桃色の肌の色を保ったまま安らかな寝息を立てている一人息子―― 童子丸の存在が、異常が私の目になく、この『世界』そのものである、ということを告げている。


 気を失う前の出来事を思い出す。


 恐らくは式神だろう―― 葛の葉の姿を模したその敵の攻撃を受け、その上で更にその袖口から延びてきた蛇の式神の放った雷に打たれ、情けなくも意識を失ってしまったが……童子丸とともにこうしてここにいる、ということは……式神の『主』にとって、私達の生命には別に用はないらしい。

 それを証明するかのように、私が懐に忍ばせていた呪符の束もそのままだ。義兄上や賀茂様には及ばぬものの、曲りなりに術者である私に符を持たせたまま閉じ込めておくとは、舐めているのだろうか。

 ―― 否!

 私はその直感を信じた。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前……霊符よ、我に彼の者の姿を知らしめよ」

 束から抜き出した五枚の呪符を五芒に配し、早九字を切る。

 呪符がそれぞれ線で結び合わされ、面を形作り、程なくして―― 他ならぬ、私自身の影がその面に映る。

 我知らず、確信とともに呟きが漏れていた。

「―― なるほど……やはり、瑠璃宝珠の陣、か」

 宝珠の内に獲物を閉じ込める結界術の一種―― 外からの衝撃には脆いが、先ほど私が使った顕正の術―― 目の前にあるものの本来の姿を映し出す術が、術者である私の姿を映し出したことからも判るように、内側からの力や術を鏡に映る光の如く、そのまま術者へと弾き返す……術者を閉じ込めるにはうってつけの術だ。

 だが、完全に外から遮断されている、というわけではなく、視線は通るし―― 「出でよ、クビ……マコラ―― 」外の声もやや聞こえ難くはなっているが、確かに聞こえる。

『くくく……メフィストの『力』を使えば―― 』
 そして、含み笑いにも似たもう一つの『声』もまた、明瞭に私の心に響いていた。


 ―― メフィスト……葛の葉のことか。

 妻のかつての名を明らかな邪念を持って呼ぶその『声』に、私は掴みかからんばかりの思いを抱く。

 葛の葉の素性……そして、その過去は出会ってすぐに義兄上や賀茂様に聞いていた。

 かつて物の怪だったという素性。陰陽師の面汚しとして処刑された、とされていた高島どのとの出会いで創造主を裏切ったこと。高島どのとの約束を守って人間となり、義兄上の腹違いの妹として西郷の家に引き取られたこと―― 。

 私をごく限られた人以外から遠ざけてきていた忌むべき力……『サトリ』の力の前にはその過去を隠すことが出来ないことを踏まえた上で、あえて明かされた葛の葉の過去だったが、実際に私の前に立った彼女の『心』は、その人ならぬ生まれから他者を避け、過去に受けた消えない傷の痛みにうずくまり―― 自分に他人を愛するということが出来るのかどうか、ということに疑問を感じている……ただの娘のものだった。


 私の力を知りながら、それに構うことなく私と添い遂げてくれた裏表のない真っ直ぐな魂を、外見には強そうに見えても、支えるものがいないと不安で容易く折れる脆さを抱えていたその心を、2年前に童子丸が生まれたことで次第に『母』としての力強さを増していた葛の葉を……この声の主は、踏み躙ろうとしている。

 本来ならば人間には使うことが出来ない域にある瑠璃宝珠の陣を使うほどの力量の持ち主ということは、私が太刀打ち出来るような相手ではないかも知れない。

 だが、葛の葉を傷つけ、利用しようとするその行いを、私は許すことは出来ない!



 こうして私たちを生かして捕らえている以上、敵が狙うのは葛の葉ただ一人だろう……そうなれば、必ず隙は出来る。


 私は意念を凝らし……隙が出来るその時を、待った―― 。





 〜平安霊異譚・中 逢魔の松原〜




 月星から降り注ぐ、白々とした明かりが、眼下に黒く横たわる松原を照らし出している。

 初春の冷気を伴う夜気が頬を叩く中……『葛の葉……準備はいいか?』葛の葉の頭の中に、西郷の念による声が直接響いた。



 大内裏の西に位置する広大な松林……宴(えん)の松原―― 清流殿を建て替えるために用意された土地であるとされているが、実際には建て替えはなされておらず、真偽の程は定かではない。

 だが、これより40年ほど遡る887(仁和3)年の夏の頃、 宮中の若い女房が松林の奥から現れた、水もしたたるような美男の姿をした鬼によって食い殺された―― という逸話を『今昔物語』『古今著聞集』などに見ることが出来るように、この華やかな名を持つ松原が、その名とは裏腹にこの魔都においても特に闇が色濃い場所であることと、建て替えが避けられたこととは無縁ではあるまい。


 その都の陰の気を煮つめたかのような場所……その中でも特に強い邪気の立ち昇る一点を見据え、葛の葉は力強い羽音とともに宙を征く。

 彼女の左右には、彼女と同じ大鷲を模した式神の足に掴まった『葛の葉』の影がある―― 無論、足に掴まっている『葛の葉』もまた式神だ。

 西郷が葛の葉に授けた策は天地二面からの強襲、そして、式神を利用しての撹乱であった。

 そのために生み出した式神の数は、西郷が六体、葛の葉が二体―― 両者ともに数だけならばそれぞれ十体は同時に使役出来るのだが、あくまで優先すべきは人質である保名と童子丸の確保であり、それをなした上での道真の調伏である。

 数の上で限界まで使役したところで、操りが雑になれば何の意味もなさない上、攻撃のための余力までなくしてしまっては最大最後の目標を達することなど出来はしない。

 特に、道真を一度はその一太刀で屠ったこともある葛の葉の圧縮霊気による斬撃……彼らが持つ手札の中でも最も有効だと判っているその攻撃の威力を、撹乱のために使役する式神の操作によって削いでいるようでは本末転倒以外の何者でもないのだ。

『こっちの方はいつでも行けるわよッ!』
 葛の葉は、簡潔に西郷の念話に肯定の念で返すと、最良の機会を見計らって下される指示を待つ。

 道真がいかなる策を張り巡らせているかは判らない。だが、魔族というものは基本的に持つ『力』が大きく違う人間を舐めてかかっている。だからこそ、いかに策を巡らせていようとも、自然とその策には『侮り』という名の綻びが生じて来る。

 そして、その間隙を突くのが魔族や鬼、妖魅に対しての人間の戦い方であり、西郷は、かつて道真の前に苦杯を舐めたあの若い頃と違い、その『人間の戦い方』を常日頃から行い、磨き上げて二十年を過ごしてきたのだ。

 葛の葉はそれを―― いかなる強敵であっても出し抜き、裏を取ることの出来る抜け目ない知性と技術……なにより、その経験に裏打ちされた策を西郷が有していることを事を、知っていた。

 だからこそ、単純な『力』だけならば遥か上をいく葛の葉が、力で劣るはずの西郷の指示を素直に受けているのだ。






 そして……二十年を経てもなお衰えを見せぬ京の鬼・道真との圧倒的力量差を覆し、張られた罠を切り裂く策―― その第一歩となる西郷の念が……葛の葉や、松原の一点を包囲する式神達に向けて、静かに放たれた。

















 松原の闇に、月光が差し込む。

 流れる風が、冴え冴えとした冷気を運ぶ。

 血よりも赤い光が、闇に一筋の彩りをもたらす。

 不吉さを併せ持った暖色が冷気を断ち割り、その闇の一点を貫いた。



 照らされたものの真の姿を映し出す、赤い光を受けた亜麻色の髪を持つ水干の女の姿が透け、その胸の高さで宙に舞う紙細工の人形―― いわゆる形代の姿を映し出す。


「メフィスト……では、ない?」
 風に乗り、光源に近い闇の中から、疑問に驚きが配合された呟きが聞こえた。

 その光と月光が朧に映し出し、声が発生したことから幻影でないことも判明した烏帽子姿の目標に目掛け、さらに闇の左右から飛び出た二つの影が襲い掛かる。

 術者の霊力で形作られているが故に、それ自体が霊力を持つ式神の手刀や拳による打撃を容易く躱した、烏帽子と直衣(のうし)姿の『京の鬼』が、その一体を刃の鋭さを持つ爪で引き裂こうとする……が、その目論見は、背後から音もなく降りかかってきた刃によって頓挫する。

「お言葉ですが、あれは大事な妹……葛の葉の姿でしてね―― アシュタロスに創られた『メフィスト』という魔族のものでは……断じてない!」

 躊躇なく背後から斬り下げる、必殺の意図を込めた斬撃を爪で受け止められたにも関わらず、西郷は不適な笑みとともに返す。

 霊刀『伯耆国安綱』―― かつて、征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷征討を祈念して伊勢神宮に奉納し、のちに夢枕に立った神のお告げによって佩刀とすることになった源頼光が酒呑童子の首を落としたことで、現代には『童子斬安綱』の名で呼ばれて伝えられる、同じ安綱作の一振りには劣るものの、それを鍛えた伯耆国の刀鍛冶・大原安綱によって鬼斬りの霊威を込められたその太刀に西郷がふんだんに流し込み、増幅された霊気と、かつて柱ごと横島の首を苦もなく切り裂いた魔性の爪に込められた霊気とが、雷光に似た白い火花を散らし、道真の姿を闇の中から完全に引き摺り出した。


 無論、西郷の操る式神―― 葛の葉の姿をした三体の式神もまた、西郷と道真の鍔迫り合いを黙って眺めているわけではない。

 三体の式神のうち、赤い光に照らされてその正体を晒した一体が、水干の袖から一枚の札を引き出して、道真の右側から肉薄した。


 右手は爪で霊刀を食い止めており、防ぐことは出来ない。

 また、左手の自由は利くものの、人間と同じ姿を取っている以上、その身体は人間と同じ可動域というものに縛られてしまうため、開いた左手で対処しようにも、その身体を捻るなり、一歩引いて体を入れ替える必要が出てくる。

 だが、それをやるならば、結局は食い止めていた西郷の斬撃を受けてしまう。


 つまり……どちらにせよ、西郷か式神の攻撃を受けてしまうということに変わりはないのだ。




























 それが、人間と同じ身体を持っているならば――。






















 疾駆してきた式神が、あと二歩で道真を間合いに捉えるという距離にまで接近を果たした刹那、道真の左手が金属に似た光沢を覗かせ、だらりと垂れ下がる。


 液体のような質感の金属の鞭―― そう呼ぶに相応しい変化を遂げた『道真』の腕が空気を裂き、肉薄する式神を襲うのと時を同じくして……大気が震え―― 爆ぜた。



















「つ……まさか」
 微かに疑問の曇りを内包した、短く、鈍い苦鳴が……一つ、『道真』の傍らに蟠る闇の中から聞こえた。

「―― まさか?
 まさか、人間風情に自分の居場所を突き止められるとは、ということでしょうか?それとも―― そのたかだか人間風情が『返りの風』を省みることなく、式神を使い潰した、ということでしょうか?」

 吐き捨てるかのように闇に問うた西郷の、白を貴重とした狩衣の左肩がみるみる朱に染まっていく。


 元来、式神繰りというものは、精神感応に極めて近い。

 意識を直結し、五感を共有することで、式神を自分の手足のように使いこなし、支配する―― そして、そのつながりが深ければ深いほど、より精密に使いこなすことが出来るのだが……それは良いことばかりでもない。

 感覚を共有する、ということは、その式神の感じた『痛み』をも感じてしまうことにも繋がるのだ。

 ときたま、足をつった式神の感覚に引き摺られ、陸上で『溺れる』式神使いというものも見られるが、それも式神と術者との感覚共有が強すぎるために起きる現象の一端だ。

 無論、手練の式神使いともなれば、共有する感覚の領域を必要最小限にまで落とし込むことによって、受ける影響を減らすことも、別に用意していた形代を身代わりとし、その『痛み』を受け持たせることで自分に被るダメージを減らすことも出来る。



 だが、結局は減らすだけにすぎず、西郷の言う『返り(かやり)の風』と陰陽師達の間で呼ばれる“揺り返し”の影響は、大なり小なり受けることに代わりはない。



 ましてや、式神の攻撃のための動きの制御を重視するために感覚を深く共有している上、その感覚の邪魔になるから、という理由で受ける衝撃を軽減する身代わりとなる形代との接続をせず、式神に込めた霊力の全てを起爆剤として霊符……破魔札に注ぎ込んで『道真』の腕で出来た鞭の攻撃を受けると同時に撃ち込み、不可避の霊的爆発に巻き込んだのだ。
 全ての霊力を注ぎ込んだことで『支え』を失い、自ら発した爆発によって粉々に吹き飛んだ式神の影響を受け、西郷の肩口が服の内側から弾け、鮮血を溢れさせることも当然のことといえる。

 無論、西郷にも傷による痛手はあれど、それを上回る効果はもたらされていた。

 制御する式神が被った想像以上のダメージによって、闇の中に潜み、待ち伏せていた道真が思わず発したうめきによってその所在を明らかにさせることで、式神と葛の葉を戦わせている最中に、ごく近くに潜んでいた道真自身が挟撃する、という道真の張っていた罠を台無しにしたのだ。

 待ち伏せという策が、その位置を見抜かれてしまえばその意味を失う以上……道真の待ち伏せを無にするという結果は、西郷が傷を負ってもなお余りある大きな効果であるといえた。



 恐らく隠形の術を使っていたのだろう―― 拳よりもやや大きい単眼の式神をその肩に乗せた状態で闇から染み出してきた黒い直衣姿の偉丈夫が、その目論見を崩した壮年の陰陽師を忌々しげに睨みつけ……言う。
「―― まさか、メフィストなしで私を引き摺り出すとはな」

「先ほども言いましたが……メフィストではなく、葛の葉、ですよ―― 私の妹の、ね」京の鬼の殺気を伴う視線に、西郷は強靭な意志の込められた視線とともに返す。「それにしても、二十年前には太刀打ち出来ないと思っていましたが……使いどころを考えていない式神の使い方といい、式神を打たれて出来た少しばかりの手傷に驚いてしまっているところといい―― 弱くなりませんでしたか?」

 明らかな侮蔑を織り交ぜた西郷の言葉に、道真の眦(まなじり)がわずかに跳ね上がる。

「ふん!私が直接相手してやってもよかったが、万一のこともある故、万全を期しただけのことよ」
 だが、挑発によって生み出された表情の変化を瞬間で押さえ込むと、道真は不遜な態度を取る陰陽師に対して応じて言う。



 ―― 嘆息。


 失望の色に塗り潰された嘆息を、西郷は発した。

「―― 万全?
 ああ、確かあの時は一度葛の葉に一刀両断に斬り捨てられたんでしたね……あなたを蘇らせたあなたの主……アシュタロスの印象の方が強くて、ことが終わった後に『引き分けにしてやる』などと捨て台詞を吐いて逃げていったあなたのことは、正直覚えていませんでしたよ」











 無論、嘘である。










 才気溢れる陰陽師として将来を嘱望されていた若い頃……太刀打ちできない圧倒的な力の差の前に食った敗北感という名の屈辱も、道真絡みの一件で失われた好敵手の生命も、忘れることは出来るはずもない。

 だが、これは一生に一度あるかないかの、勝たねばならない戦いだ。

「あなたの式神繰りを見ていて判りました。京の鬼とはいえど……少なくとも、式神繰りでは私の足下にも及ばない―― いや、素人の域を出ない、ということはね」
 その戦いを勝つためならば、嘘もつくし、柄ではない挑発もする。

 さもなくば、葛の葉……大切な『妹』とその家族は喪われるのだ!



「言った……な?」
 度重なる挑発に黒い気焔を立ち昇らせ、呟く道真。

 その目は怒りによって血走り、こめかみも震えている。

 その意識の片隅にある醒めた部分が、罠の存在を喚き散らしている。だが、この人間は自分の罠を破られたばかりか、あろうことか自分を罠に嵌めようというのだ。

 許せない!

 ましてや、道真は“鬼”だ。人如きに挑発を黙って受けているわけにはいかない。



 だが、その発想こそが、罠にかける者と罠にかかる獲物との立場をより強固なものに変えている、ということに……気付くことは出来なかった。

「ならば見るがいい!私の操る式神―― 十二神将全ての力を!!
 出でよ、バサラ!メキラ!アンチラ!アジラ!サンチラ!インダラ!ハイラ!シンダラ!ショウトラ!ビカラ!!」

 呼びかけとともに道真の影が波打ち、その黒々とした波紋の中から次々に現れる十の獣の姿が、音もなく西郷の前に並び立つ。


 が―― 十二もの式神と道真……都合十三という数の鬼を前にしてもなお、西郷の顔から余裕めいた笑みがはがれることはなかった。



 いや、むしろ、その瞳には、勝機を見出した光が宿っている。



 道真がその光に気付いた時―― 西郷の声が響いた!


「幽子様……今です!!」


 その直後……何かが翻る音が聞こえた。

 言うなれば、旗を翻したか……衣をはためかせたかのような音が―― 。




 道真の目が驚きによって見開かれる。


 『そこ』には、地面近くまで伸びた長い黒髪を背の中ほどで結わえた、水干姿の娘の姿があった。

 その右手には、広げればその小柄な身体全てが覆い隠されるだけの大きさであろう、隠形符がくまなく貼り付けられた薄衣が握られている。


 西郷の背後に忽然と現れた人影に、瞬間……西郷以外の者の意識全てが、その娘―― 幽子に向けられた。

「ね〜〜……あなたたち〜〜、そんなこと〜〜、したくないでしょ〜〜?もう、止めよ〜〜〜ぅ?」
 式神たちに潤んだ瞳で訴えかける幽子。

 緊迫した空気を一気に弛緩させる、あまりに間の抜けた訴えに、道真は思わず崩れ落ちそうになり…………その異常に気付いた。



 式神の制御が……出来なくなっている、という異常な事態に―― 。

 十二体もの式神の同時使役というものは確かに難しい。手練の陰陽師である西郷ですらも万全の状態で最大十体……それも、動きの精密性や感覚の同調を大幅に殺ぎ落とした上で、という制約もつく。五感を完全に共有し、速度や動きの滑らかさや精密さを保った上でそれだけの数の式神を使役することは、並の人間には不可能であるといってもいい。


 それだけの膨大な量の情報を同時に処理できるほど、人間の精神……ひいては脳というものは発達はしていないのだ。


 だが、あくまでそれは人間にとっては、の話である。

 死して人ならぬ鬼……魔族と化すことで、人間よりも遥かに高い霊力を有することになった道真にとっては、十二体もの強力な式神を使役するということは、多少難しいことにはちがいないものの、不可能と言えることでもない。

 だが、その制御が出来なくなっていた。

 道真の血色の薄い表情に、驚きが漣のように拡がっていくと同時に……肩に乗っていた子(ね)の式神――クビラ―― が真白い光を発し、道真の目を灼いた。

「な……まさか……私の式神を!
 

 ―――― こんな小娘ごときが、奪うだと?!」
 唐突に受けた光によって一瞬視界を奪われた道真が、かすむ目で幽子を睨みつける。

 その視線に気圧される幽子だが、ひときわ大きい体躯を有する丑の式神・バサラと一角の午の式神・インダラが遮るように立ち、刺すような視線に思わず涙ぐむ幽子を庇う素振りを見せた。

 ―― やはり、天才だな。
 その様に、西郷は心中で快哉を上げる。


 戦場となるであろう宴の松原に幽子を連れていく―― 連れて行くように言い出したのは他ならぬ幽子だが、余人を交えることを嫌った葛の葉の反対を説き伏せ、道真の裏を取る策の要としたのは西郷だった。



 切っ掛けは、保名と童子丸とを連れて天を駆ける酉の式神・シンダラとの一瞬の邂逅を寂しそうに語る幽子の言葉だった。

 その直後に届いた葛の葉の手紙から、二人をかどわかしたのが道真の式神であろうこと―― そして、その式神こそが、幽子が呼びかけていたその式神なのだ、ということを悟った西郷は、遠く離れていながらも、呼びかけだけでその飛翔を一瞬とはいえ妨げた幽子のその才能を高く評価していた。

 ましてや、十数人の訴えを同時に聞き、それ一つ一つに応じることが出来た『厩戸の皇子』こと聖徳太子を生み出したこともある帝の血統である。何ら訓練をせずとも、式神の複数制御をなすであろう素養は持っていても不思議ではない。

 そして、そのような生まれにある上、幼い頃から霊と慣れ親しんだことで常人の数十倍の天稟を知らずに磨き上げるに至った、いわば才能の塊である幽子が自ら『自分も連れて行って欲しい』と頼み込んできたのだ。

 鬼となってでも勝たねばならない、という決意を持った西郷にとって、その申し出はまさに渡りに船というべき僥倖であった。

 遠く離れた位置からの、何ら意識していない気安い呼びかけだけでその手綱を奪いかけた幽子が、近寄った上で明確な意思をもって呼びかければ、その式神をかなりの率で無力化できるに違いない、と読んだ上で、策の要として幽子を配したのだが……その結果は、予想以上だった。

 目に見えぬ友と慣れ親しみ、無自覚に磨かれた才能によって式神を無力化し、道真をほんの少し動揺させるだけでも御の字と踏んでいたのに、予想を超え、数体を味方につけるに至っているのだ。





 想像を超える明確な好機が、生まれていた。

「―― 今だ、葛の葉!!」

 西郷の叫びが、その好機を捉えるべく響く!

 叫びと同時に、二体の式神が道真の左右から組み付いていた。

 その袖口からは、既に破魔札が引き出されている。



















 ―― 轟音が、洛中の夜を揺るがして鳴り響く。






「ふ……ふざけるなぁぁぁぁぁぁっ!!」
 塔の如くに立ち昇る爆炎の中心で、黒い直衣を炎に包みながら道真が吼えた。



 と、その耳に響く羽音に……上空を仰ぎ見る。

 三羽の大鷲の足にしがみついた三人の葛の葉の姿が、そこにはあった。



「メ…フィストぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ――――ッ!!」
 度重なる屈辱に、道真は冷静な判断力を失っていた。

 ―― 全ての原因は奴にある。

 瞬時にそう思い込むことで自分を慰めた道真の心は、既に暴虐の炎に支配されていた。

 『奴は最早殺しても構わん!万一のために用意していた奴の子を器にすれば済むことよ!』
 そう言い聞かせ、自分の怒りを収める手立てを正当化する。






 羽撃きが風を巻く。



 三つの『葛の葉』の姿が、宙を舞った。





 だが、本来ならば最も大きな死角となる頭上からの攻撃は、その所在を察知されてしまえば、躱すことも隠れることも出来ぬ宙に身を置くこととなってしまう。

 そして、道真はその奇襲に気付いた。

 どれが本物かは、クビラを含む数体の式神の制御を奪われてしまった今は判らない。だが、判らなくとも狙う場所が判っているならば話は単純になる。

 一点に向けて収束するその攻撃を、まとめて潰せばいいだけのことだ。



 道真の頭上一点を狙い、降りかかる三体の『葛の葉』―― その全てをまとめて薙ぎ払うその機を見計らい……道真の右手から雷光が解き放たれた。



「葛の葉――――ッ!!」
 背後から聞こえる西郷の絶叫に、道真は心地よさげにほくそ笑み、ゆっくりと向き直る。

 全身六箇所に散らばる傷を負った西郷の姿が見える。
「……今だッ!!」
 傷だらけになり、血に塗れたその顔が、勝利を確信した笑みに変わった。

「な…なにっ?!」
 そして、その視界の端に…………変化の札を額から剥がす葛の葉の姿が、見えた。

 足に掴まっていた式神が離れると同時に、大鷲の姿のまま道真の視界から離れた葛の葉は、大外から回り込み、低空を滑るように飛ぶ大鷲の姿から本来の亜麻色の髪の美女へと姿を変えていた。

 地面すれすれを舞う飛燕の如き速度で道真を間合いに捕らえている葛の葉の右手には、既に圧縮された霊気の塊が握られている。

 式神による絶え間ない波状攻撃と挑発、道真の式神の制御を奪う、という様々な手段で道真の神経をすり減らし、意識を誘導した上で……その『虚』だらけの攻め手の中にただ一つ交えた『実』の刃を意識の外からぶつける―― 西郷の腐れ縁の昔馴染みであり、アシュタロスに生命を奪われた葛の葉の初恋の相手……高島の得意とした撹乱術の応用であった。

 式神や変化の札、果ては身代わりの形代を惜しげもなく使ってまでも夜這いにいそしんでいた高島の得意の分野に頼るのは、西郷にとって正直な話業腹ではあったが、その高島との知恵比べによって自然と身に着いた撹乱術が、今、葛の葉を危地から救おうとしていることに、西郷は死した『友』に心で謝辞を述べる。

「き……貴様ら!卑怯とは思わんのかっ!!」
 道真の口から思わず飛び出た悪態に、葛の葉と西郷から異口同音に言葉が流れる。

「『ヒキョーでケッコー、メリケン粉!!』」
 主に西郷を出し抜いた時、高島が使っていた口癖だった。

「待て!『メリケン』とは一体なんのことだっ?!」
 その言葉が響くとほぼ同時に―― 葛の葉の圧縮霊気による刃が、道真を左肩から袈裟懸けに斬り下げた!

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