ザ・グレート・展開予測ショー

青春の健在!


投稿者名:とおり
投稿日時:(06/ 2/14)

「いってらっしゃい、おキヌさん」

「行って来ます、人工幽霊一号。
 戸締りよろしくね」


いつもの通学路、ひんやりした空気が首筋を撫でる。
今年の冬はいつにも増して寒くて、白く色づいた息が朝もやの街に溶けていく。


「急がなきゃ…、電車に乗り遅れちゃう」


下宿している事務所から六道女学園までの道のりを、私は電車とバスを乗り継いで通っていた。
事務所から程近い駅から郊外に向かって走る電車は朝の時間帯には人が少なくて、いくつかのターミナル駅になるとようやく少しばかり人が乗り込んでくる位。
都心から反対の、国分寺の方に向かう電車はとても静かで、私はこの時間を英単語帳などを開いて勉強する時間に当てていた。
彼に気付いたのは今日みたいに、足早に電車に飛び乗った時。
座る席はいつもたいてい同じなんだけど、その日はちょうど急いでいた事もあって、扉が開くのとは反対側の席にぽんと体を預ける様に座って。
間に合った…とばかりに息を少し整えてから、さあ今日も勉強するぞと膝に乗せた鞄を開こうとして、隣に座っているはずの人に影が無いのに気がついた。
車内に差し込む朝の新鮮な日差しがでこぼこと乗客の影を映し出しているのに、彼の前には通路に窓の形が落ちていて、びっくりして覗き込む。
60に近いだろうか、座っていても分かる大柄な体、しかしそれでいて痩せてげっそりとこけ落ちた頬や土気色の皺の寄った手のせいか、彼の印象は決して明るいものでは無かった。


「…」


思わず、しげしげと見つめなおす。
閉じた瞳の上からも、その疲れが見て取れる。
日を背に受けて、暖かさをじっくりと感じ取る様に椅子に深く腰掛け、少しばかり前かがみになって揺られている。
彼は何をしているのか、何がしたいのだろうか。
だが、彼は何もしなかった。
注意深く観察していても、結局私が電車を降りるまで、時折目を開いてはなにやら車内を眺めているだけで。
そんな日が何日も続いた。
彼は来る日も来る日も電車に乗っていて、私が六道に向かう為に電車を降りるまで動かない。
彼はどこかに向かっているのだろうか?
それとも、帰ろうとしているのだろうか。


「ううん、違う…。この人、多分」


恐らく自分が死んでいると自覚していない。
だからこそ、ああやって毎日の様に同じ場所に同じ時間に現れる。
どこへ行くかは分からないけれど、彼はそこへ向かって朝の電車に乗っている。
毎日を同じ様に、止まった時間を繰り返しながら。
ちらと横目で彼を見る。
いつものまま、いつものように穏やかに座っている。
この人に、伝えなきゃいけない。
あなたは、もうこの世の人ではない。
還るべき所に、還らなければいけないって。
でも、どうやって。
彼にはきっと、なにか遣り残した事が。
していたい事があるはず。
それは、何―?
線路の音と響く振動音が耳障りで、考えがまとまらない。
気ばかりが焦って、ついため息を付く。


「…はぁ」

「若い人が、朝からため息など付いていてちゃいけないね」

「え?」


彼だった。
いつの間にだろうか目を開けこちらを向いて、困ったような顔をしている。
思わず不思議な物でも見るように、まじまじと彼を見つめてしまって。
朝日に翳るこけた頬が印象的で、目には力が残っていて。
だけれど、出てきた言葉はまとまらない。


「あ、あ、あの…。
 お、おはようございます」


真っ白な頭から飛び出した挨拶はしどろもどろで、恥ずかしくなって俯く。
そんな私の様子に彼は目を丸くして、少し笑う。
まるで孫のやんちゃを思い出す様に。


「…ああ、おはよう」

「あれ、あたし…。何を言ってるんだろ」

「や、驚かせてしまってすまない。
 君が沈んだ顔をしていたものだからね、つい」


私は改めて驚いていた。
彼の口調は明るく朗らかで、恐らくは病人であったろう影など微塵も感じられなかったから。


「…この前も、この時間にいらっしゃいましたね」

「おや、そうだったかな。確かにこの時間にこの電車に乗る事は多いんだが。
 お嬢さんの事は覚えていなかったよ、いやすまないね」

「あたし、六道女学園に通う、キヌって言います」

「六道女学園の生徒さんか。私は高見、まあ見ての通り病院に通う中年、いや初老の、といった方がいいかな。
 あまり自分では老人だなんて、言いたくもないんだがね」

「ふふ、今は60くらいでも普通に働いていますからね」

「私も働けたら良かったんだが。
 なんでも、病院に細かく通わなくてはいけないらしくてね。
 おかげで毎日の様に、朝早くから電車に揺られて通院だ。
 どうせ検査の内容など決まっているのだから、朝寝させてくれても良さそうな物なんだがね」


全く、とでも言いたげに彼は肩をすくめておどけて見せた。
死者であるはずの彼が、いやね、かかっている医者がとか、あの看護婦は、とか。
聞いてほしかったのだろうか、でも明るくカラッと話す様は、病人とは思えない。
そして、高見さんはやはり気付いていない。
生前に残した想いに捉われて、今ここに深く座って、何かを探している。
それは一体、何だろう。
考える時間を与えまいとするかのように、電車が駅に到着して、あたしはじゃあと挨拶をして別れて、この不思議な時間は終わった様に思えた。
だけど、きっと明日になれば彼はまた、同じ場所に同じ時間に。
何かを求めて、現れるのだろう。





―――――青春の健在!―――――





駅舎を出て、いつものバスに乗り込んで、右側のドア近くの席に座る。
ドルンとエンジンがかかる音がして、バスが少し背伸びをすると、ゆっくりと走り出す。
また英単語帳を引っ張り出しながら、でも覚える気にならなくて。
頭に浮かぶのは先ほどの彼との会話。
彼の通院、いつ終わるとも知れないその先には、何もない事を私は知っている。
300年、幽霊として山に潜み、ひたすらに暗い地底でまんじりとして、輪廻と言われるその輪から外れて。
ただそこにいて、あまりに長い時間を幽霊として過ごして。
だんだんと生きていた時の事を忘れて、なぜそこにいるのかも分からなくなってしまって。
そうなってしまえば、地縛された自分と変わる人間を求める様になって…。
自分に取って良いか悪いかしか考えられなくなって、ついには悪霊として祓われるしかなくなる。
横島さんを殺そうとしたのだって、あの時にはまた失敗したとしか思わなかった。
彼が佇むように、いっそ静かに現れているのは思念の残渣が強いからだろうけれど、生きていた時の思い出と一緒に、成仏してほしいと思う。
だけど。


「成仏…かあ」


私は死んでいたけれど、成仏しなかった。
いや出来なかったのは大妖を撃退する為のシステムの一部として、特殊な条件が整えられていたから。
この世にとどまる事を、死ぬ前に決められていたから。
生まれ、死んで、そして生き返って。
だからこそ出会えた美神さんと横島さん、六道のみんな、氷室の家族。
300年前には思いもしなかったたくさんの、かけがえのない大切な縁を結べて、良かった事もたくさんあった。


「成仏って…なに?」


そうだ。
いつの間にか慣れてしまって、考える事も無くなっていたけれど、いつも霊たちは言っていた。
消えてなくなりたくないと。
一人で消えてしまうのは嫌だと。
成仏、仏に成るとはなにか。


【大丈夫、死んでも生きられます】


あの時横島さんに何気なく言った言葉。
死ぬという事が次の生に繋がるという意味なら、間違ってはいない。
それが出来ない事が、どういった意味を持つのだろう。
きちんと生きて、きちんと死ぬ。
死ぬ、命がなくなる事。
この世を去るとはどういうことか、この世に残るとはどういうことか。
わからない。
そんな事も、わからない―?
自分も渇望していたはずの、成仏というものが。
あれだけ長い時間を幽霊として過ごしたのに。
あの世に行く事、今を生きる事、遺した想い、残る人の想い。
一番理解する事が出来るはずな、自分なのに。
冬の朝、しゃんとした光の中をかとことと走る空間が私には急にもどかしく不安に感じられて、早くバスを降りたくて仕方なかった。





帰り道。
電車を降りてから、冬に時折吹く厳しい風を受けて街をしばらく歩くと、美神事務所に帰りついた。
今朝の事が頭にこびりついて、授業もまるで手につかなくて、とにかく早く家に帰ってきたかった。
荷物をベッドの上に放り出して着替えもしないまま、じっと枕に顔を埋めて時間をつぶす。
日が西に傾いてようやく私は起き上がる気になって、もそもそとしわしわになってしまった制服を脱いで着替え、階下の事務室に降りると気付けば美神さんが一人、暖房の効いた部屋で書類処理を行っていた。
何時間か続けていたのだろうか。西日の差し込む部屋の空気がしんとして落ち着いている。
時折聞こえる紙のすれる音にまぎれて、私はそっと紅茶を差し出した。
あら、ありがとう、おキヌちゃん。
美神さんはすっと受け取ると、手を休めてくれた。
お互いに、淹れたての香りを楽しむと、美神さんが書類に目を落としながら言った。


「今日は早かったわね」

「ええ、美神さん、あの…」


カップから口を離し、何?と聞き返す美神さん。
もやもやとした今朝からの事を、美神さんに相談したかったから、ちょっとあまえたかもしれないけれど、全部を美神さんに話した。


「…電車にいつも座ってる幽霊がいる、か…」

「はい、別段何をするという訳ではないんですけど」

「ふうん。
 それで、おキヌちゃんはその幽霊が気になってる…と」

「ええ。何をしたくてずっと座ってるのか、分からないんですけど…」

「難しいわね。
 何をしたくてそこにいるのか、何をしてあげればいいか、それが分かれば簡単なんだけどね。
 それに、おキヌちゃんは破魔札で強引、というか強制的に成仏はさせたくないんでしょう? 」

「…それも、そうなんですけど。
 成仏するってことがなんなのか、よく分からなくなっちゃって…」

「成仏する事なんて、生きている私たちにはどういう事なのか、分かるはずないじゃない。
 おキヌちゃんにしたって、死んでたにしても成仏はした事ないんだし」


美神さんの言ってる事は、確かにその通りだと思う。
成仏がどういった事なのか、私達には分かるはずもない。
だけど―。
少なくとも私は、わかろうとしなくちゃいけない。
例えそれがただ消えてしまうだけのなのだとしても、ずっと幽霊だった私は。
もう戻れないのだと、彼に伝えてあげなくちゃならない。
命が尽きて今なおあそこにいる彼が、次の命になって戻ってこれるように。
私は、成仏ってなんなのか、わかろうとしなくちゃいけない。
わからない、で済ませちゃいけないんだ。
成仏であるとか、生きる意味であるとか、私には分からない事ばかりだけれど。
延々と電車に乗り続ける彼に、なにかせめて。


「…おキヌちゃんのしたいように、してみなさいな。
 納得のいくまで、ね」


美神さんはそういうと、席を立って背後の書棚から何冊かの本を出してくれた。
それらには西洋や東洋のいわゆる天国やあの世などといった物がどういった背景で生まれた思想なのか、またどんな物であるのか、魂の輪廻とはなにか―という事が語られている。


「さっきも言ったように、私達には生きている限り永遠に成仏、あの世に行くって事はどういうことなのか、分かりはしないわ」

「…寂しいですね」

「だけどね、おキヌちゃんが言う様に、分かろうとすることは出来る。
 理解しようと、努める事は出来る。
 それが必要な事だって言うんなら。
 色々もがいてみなさい、おキヌちゃん」


思わず上目遣いに美神さんを見ると、美神さんも頬杖をついて私を見ていた。
ほら、目で訴える。
私は嬉しくてはい、と思わず大きな声で答えると一足飛びに階段を駆け上がっていった。





「弁当食べようぜ」

「あなたはそんなのばっかりですわね」

「まあまあ、美味しく食べましょうよ」


魔理さんが嬉しそうに声をかけて、弓さんが言い返して。
六道学園でのお昼休み。
教室から見えるたくさんの木々も春に備えて古い葉を落としきっていて、少しだけ寂しくて。
でもそんな寂しさを埋めてくれる弓さん魔理さんと昼食を一緒にしていた時に、私は美神さんとしたのと同じ様に、高見さんの事を相談してみた。


「ふうん、電車にいる幽霊、ねえ」

「幽霊の事を考えるのはよろしいですけど、一歩間違えば危険な事はわかっていらっしゃるのでしょう?」


身を案じてくれる弓さんの言葉。


「ええ、それは分かっているんです。だけど」

「そいつのやりたいようにしてやりたい、か。おキヌちゃんらしいよ」


魔理さんも相槌を打つように、言ってくれる。
気をつけなよ、と。


「はい。でもね、やっぱりあの人を気持ちを大切にしてあげたいんです。
 そうでなければ、しっかり死ねない、そういう気がするし―」


あたしのしてあげられる事は、そのお手伝いをする事なんじゃないか。
二人の気遣いがとても嬉しかったけど、そう思ったから。


「しっかり死ぬ、ねえ。あたしにゃよくわかんないなあ…」

「そりゃあ、死ぬなんて経験、あたし達はしてませんもの。
 氷室さんみたいなのは、本当に特殊な例だし、氷室さんにしたって特別一回死ぬ前の事や、死ぬ時の事、死んでいた時の事を全部覚えている訳ではないでしょう」

「そうなんですよね…、苦しかったとか寂しかったとか、そういった気持ちをおぼろげに覚えているだけで。
 だけど、その気持ちがあるから、彼にもなにかしてあげたいって、そう思うの」


二人は、ちょっとだけ苦い顔をしていたけど、魔理さんがふとこんな事を言った。


「まあ弓の言うように、死ぬってことがどういうことか、分かりはしないけどね。
 あたしのじいちゃんが死んだ時、考えた事があったな、って」

「それはどんな?」


弓さんが玉子焼きを口に運びながら、答える。
すると魔理さんもまた、パンを牛乳で流し込みながら、言った。


「いやね、そのじいちゃんてのが、あたしは大好きだったけど。
 ばあちゃんや母ちゃんに苦労をさんざかけた、悪いじいちゃんだったみたいでね。
 ばあちゃん家に遊びにいくと、よくばあちゃんが、このくそじじいが! なんて言ってたもんだったんだよ」

「…そう」


弓さんがぽそりとつぶやく。


「それで、年取って体を悪くしてからも酒飲むのを止めなくてね、結局は大往生しちゃったわけだけどさ。
 お通夜の時、泣いてたんだよ。ばあちゃんが、さ」

「散々、ひどい思いをさせられたおじいさんの為、に?」


弓さんが、魔理さんにか細く聞く。
手に取ったおにぎりは、浮いたまま。


「そ。家族の事を顧みないで博打とか喧嘩とかしてたみたいでさ、じいちゃん。
 あたしはそれで、ばあちゃんが泣いてるのに、驚いてさ…。
 そんな人のために泣けるばあちゃんが凄いって思ったし、ばあちゃんが泣いてくれた事で、じいちゃんも、そのなんだ。
 おキヌちゃんが言う言葉を借りるなら、しっかりと死ぬ事が出来たのかな、って」

「泣いてくれて、かぁ…」


あたしがかぼちゃの煮つけに箸をさして口に運ぼうとした時、弓さんが表情を強張らせて、言った。


「でも魔理さん、私は。
 あなたのおばあさんの為にも、生きている時にもっとたくさん、おじいさんは何かをしてあげるべきだったと思いますわ」

「…そうだろうけどな。じいちゃんも腹のそこから悪い人じゃなかったからこそ、ばあちゃんだって泣いたんだろうし。
 母ちゃんだって、やっぱり寂しかったんだろうな、泣いてたよ」

「もう亡くなった方の事ですから、どうしようもないですけれど。
 生きている時に、もっともっと、家族の事を考えて…。
 そう、しっかり死ぬ事が大切なら、しっかり生きる事だって、大切だと思いますわ」


言い終えると、弓さんには珍しくお弁当をかき込む様にがつがつと食べていた。
もしかすると、お父さんとの事で、思うところがあるのかもしれないけど。
魔理さんの言う事も、弓さんの言う事も、私にはわかる気がする。
しっかりと生きて、しっかりと死んで。
終わったという事を、きちんと受け止める。
亡くなった人も、残る人達も。
それが出来て、初めて。
成仏が、出来るんじゃないのかなって。
一口にほおばった煮つけは、甘くてほこほこして、美味しかった。





彼に話しかけるようになってもう10日。
奇妙な光景と言っていいかもしれない。
繰り返される毎日の挨拶。
高見さんはいつものように、きょとんとした視線を送ってくる。
私もまた、いつものように答えるのだ。


「おはようございます」

「…ん、おはよう」

「この時間の電車によく乗ってらっしゃいますね」

「そうだったかな?病院に行くのに良く利用するんだがね」

「ええ、いつも御一緒するものですから、つい」

「はは、そうかい。あなたはどこかの学生さんかい?
 …元気そうでなによりだ」

「あたしはそれだけが取り柄ですから」


彼は常に一日の始まりにいる。
既視感、とでも言えば良いのだろうか。
ぐるぐると廻る様に、車窓の風景が上滑りしていく。
たんたんと揺れる電車、差し込むさわやかな朝日。
私達がその場にとどまり続けるには、あまりに電車は速く走る。
この二週間で彼から色々な事を聞いた。
通院している事。
病気のせいで仕事も退職している事。
奥さんと子供がおり、自分の病気を申し訳なく思っている事。
昔この沿線で働いていた事。
そして、病状がかなり重いらしい事。
毎日同じ様に見えて、私達は初対面の学生と老人が話をしているのだけれど、落ち葉を積み上げるようにぽつぽつと彼が話す言葉は何かを見据えているようであり、振動音にかき消されていく言葉を私はしっかりと記憶していた。
彼もまた家族を愛し一日を懸命に生きる人だったのが、嬉しい。
市井に生きる、平凡と言っていいかもしれないくらいの彼の生前の姿が、今のこの人を映しているのだと改めて感じたられたから。
彼にとって何が最善か、こうして話し、通院を毎日見届ける事で出口が見えてくると、今は思う。





2週間が過ぎて。
日課の様になった高見さんとの朝の会話。
いつもの様に、朝の光を背に受けて彼の隣に座っていた。
わずかに浅く、背をぴんと伸ばして。


「…病院に行かれるんですか」

「ん、ちょっとした治療を受けにね。
 おかげでせっかく美味しい鍋の季節だと言うのに、食べられやしない。
 全く、災難だよ」

「なおったら、思い切り食べられるといいですね」

「なおったら…か。そうだね、腹一杯に食べたいね…」

「大丈夫ですよ」

「そうだといいが。
 まあそれにしても、今の様子では冬が過ぎて春になってしまいそうだがね」

「冬だけでなくて、春も美味しい物が多いですから。
 春が駄目なら、夏だって」

「あははは…。そんなに食べてばかりいたら、君なんかは太ってしまうだろうに」

「太って…太るかなあ…。
 少しだけですめばいいんですけど」


二の腕をぷにぷにと触りながら答えると、お互いに笑う。
なんだろうか。
もしかしたら、自分の望む通りの結果は出ないかも知れない。
彼が祓われてしまう可能性は捨てきれないけれど、死の運命に逆らった、あの時みたいに。
自分にそっくりだった女の子の運命に、少しばかり抵抗をしたくて、迷いなく魂を輪廻の輪に戻す、神に仕えるあの優しい農夫、死神にちょっといたずらを仕掛けた時みたいに。
死神は魂を導く事が出来さえすればいいのだろうか、それとも死者の言葉に多少なりとも耳をかたむけてくれるのだろうか。
少なくともあの時、死神はあの娘が現世にとどまる事を許してくれた。
それは、生きている者の願いを、死に行く者の声を聞いてくれるという事ではないのか。
好意的に過ぎる解釈かもしれない。
でも、死を司る農夫が示してくれたものは、今隣にいる彼にも同じ様に降り注ぐべきだと。
長い長い時間の果てに、私が受けたこの世界の愛情を、彼にもほんの少しだけ。
ふふっ、なんだろう。
あれだけもどかしく感じていた朝の客車の空気の密度が、濃くなっていく様に思えた。


「きっと、きっと直りますよ」


高見さんにそう言って、私は笑う。
彼はもう死んでいるのに、直るって。
でも、出てきた言葉に嘘は無くて、私はもう一度彼に向かって、こう言った。


「絶対、直ります」


だから、心配しないで下さいね。
彼は驚いたように目を見開くと、私に笑い返してくれた。


「…ようやく、笑ってくれたね」

「えっ…?」


彼が言った言葉に感じる違和感。
彼は何を言ったのだろう。


「…もしかして、気付いて…」

「気付いたというよりは、なんだろうね。
 今分かったというべきかも知れないけれど」


私は彼の言葉を、黙って聞いていた。
自分が今までしようとしていた事、してあげたかった事。
彼に伝えたいのだけれど、光に包み込まれる様に溶けて、言葉として出てこない。
穏やかに話す彼に、言ってあげたいのだけれど。
電車がホームに滑り込んで、少しばかり停車する。


「私は病院に行って、おそらくは帰ってこれなかった。
 治りはしなかった。
 そうか、そうだった…。
 私は、もう」

「はい、あなたは―。
 もう、亡くなって…います」


言葉が震える。
彼の為に出来る、これが一番の事のはず、なのに。


「亡くなって…か。そうだ、自分が死んでから。
 何故未練がましくこうしていたか、不思議だけれど。
 私は多分、君を見ていたかったんだろう」

「…」

「見てごらん、あの学生さんは、鞄を肩にかけて、階段を駆け登っていく。
 私も若い頃、駅近くの工場に遅刻しまいと急いでいたよ。
 今は遠い昔になってしまった…」

「昔…、いいえ。
 今、ですよ」

「今か…、そうかも知れない。
 眠たげな学生さんたち、ホームを急ぐ人たち。
 あれらはかつての私、私の青春そのものなのだから。
 彼らの名前も知らないが、彼らが元気な事が。
 君が元気になって、本当に嬉しい。
 キヌさん―」

「はい、私は。
 この名前を貰って。
 今、しっかりと。色々大変ですけれど、私は今、生きていますから―――」

「生きているから、か。君の元気も、生きていればこそ、なのだろうね」

「そうです、だから―――」


私は言いよどむ。
でも彼の目をじっと見つめて、恐る恐る口を開いて。


「しっかりと、死んでください」


思わず口を戻しまぶたを伏せる。
意を決すると、彼に訴える。


「あなたの青春は、その想いは。
 私達が今こうして、受け継いでいます。
 だから……。
 だから、どうか。どうかしっかりと、死んで下さい。
 私達が、しっかりと生き、しっかりと死ねるように。
 あなたが、次もしっかりと生きられるように」


彼もまたこちらを向いて、繰り返す。


「しっかりと死に、そして生きる。
 私は、この朝日の中でずっと。
 君達を見ていたかったが…」


さわやかな朝の光が降り注ぎ、車内に差し込む。
おぼろげな彼の体が薄ぼんやりと溶け始めていく。


「私はもう帰らない。
 最後の日。
 君に、君達に会えて、本当に…嬉しい…。
 さようなら。
 もう発車だ。
 死へともう発車だ。
 さようなら。
 元気な君達。
 今、私は。
 私の青春は健在なのだからと、はっきりそう言えるのだから。
 …ありがとう、キヌさん」


窓から差し込む光は強さを増して、洗い流すように彼の体を溶かしていく。
やがて彼自身から目を閉じた時、私に彼の呟きが届いた。
ありがとう。
さようなら。
一瞬ほうと強い光が弾け、散る。
発車のベルが鳴り、急いで席を立つ。
この2週間がまるで嘘だったのかのような、静かな藍色の席を振り返りながら。
とんと軽い音を立ててホームに降り立つと、かしゅんとドアが閉まる。
さわやかな朝の光は相変わらず、その席を照らしていた。
青春は健在なのだ、彼が言ったように。
ホームに溢れる人たちはそれぞれに階段を駆け上る。


「えい、やっ」


私もまた、一足飛びに飛び上がる。
立ち去っていく人達の想いを今に残すように、しっかりと踏みしめて。
過ぎ去っていく青春はいつだって、元気なのだから。




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