ザ・グレート・展開予測ショー

うたかた


投稿者名:喰来井戸
投稿日時:(06/ 2/ 9)

  


 じっとりと暑い、夏の日。
 開け放たれた窓の外のセミの声が、どこか遠くに感じられた。
 卓袱台の上の、まだ湯気の立っているカップラーメンには手もつけずに、横島忠夫はただ一点を見つめていた。
 カップ麺より左奥、卓袱台の上に無造作に積まれた夏休みの課題の上。
 そこに、一匹のカゲロウがいた。
 透明の薄い翅に、華奢な体つき。目に留まってなお、不用意に押し潰してしまいそうな危うさ――
 
 じくりと広がる胸の痛みさえ、なぜか愛しく感じた。







   ◆◆◆






「なんでわざわざ夏休みに学校に来にゃならんのだ」
「仕方ないだろう。幽霊には休みなど関係ないだろうしな」
 不機嫌そうな横島の声を、教師が一蹴。
 まだまだ暑い真夏日に、出校日でもないのに呼び出されたのは、お馴染み、除霊委員のメンバーである。
 教師によれば、図書室でポルターガイスト現象が起こっているらしい。
「まあ、夏休みと言っても、先生も生徒も結構いますからね。見過ごせませんよ」
 と、ヴァンパイアハーフのピート。
 彼の言うように、校舎の外からは部活動に勤しむ声が聞こえてくる。おそらく、補習や自主勉強に励む者もいるだろう。
「そうジャケー。図書室が使えんのは迷惑だろうしノー」
 頷く大男、タイガー・虎吉。
「ところでタイガー」
「なんですカイノー、横島サン」
 げし
「貴様見るからに暑苦しいんじゃっ! 近寄るなっ! つーか帰れ!!」
「そ……そんな、せっかくの出番を……あたっ!」
 げしげしげしげしげし
「あっ……ちょ、ちょっと……痛っ! 痛いけん、横島サン! あ、暑いからって八つ当たりせんでつかさい!!」
 蹴り続ける横島と、蹴られ続けるタイガー。
 そんな二人を尻目に、
『夏休み中に委員会活動……青春だわ!』
 感激する机妖怪、愛子。
「……あー、ま、とにかく頼んだぞ」
 そして名もなき教師Aはつき合ってられんとばかりに、そそくさと冷房の効いた職員室へと去っていくのであった。





 最も北側に位置する一階の片隅。
 ほかよりも幾分涼しい気配のする密やかな場所に、図書室はある。
 常ならば静寂に包まれているはずの空間だが――
『フ……ククククク、ヒャーハッハッハッハッハァ!!!』
 音を立て、揺れる窓。
『落ちろ! おちロ!! オチロッ!! 受験なんか落ちてしまえぇぇぇっ!!』
 宙を駆ける本、椅子、脚立……はたまた机まで。
『受験、受験と言われ続けた勉強づけのサマーヴァケーション……俺の青春を返せぇぇぇぇぇえ!!』
「やかましいわっ!」
 一閃。
 怒声と共に放たれた横島の霊波刀の一撃に、哀れ、受験戦争の敗者は呆気なく昇天していった。
「……ワシらって呼ばれた意味ないですノー」
「除霊より片づけの方が大変そうですしね……」
 苦笑しながら、ピートが周りを見渡す。釣られて、横島も辺りを見やる。
 ポルターガイストは除霊と同時に収まったが、室内は物が散乱し、さながら台風一過の惨状である。
「片づけも除霊委員の仕事なのか……?」
 思わず、ぼやく。
『みんなんで除霊の後始末……青春よね!!』
 夏休み中、そうとう暇だったんだろうなあ。
 痛々しいほど輝かしい愛子の瞳を見て、三人は思った。





 はた、と横島は動きを止めた。
 図書室の備品や散らばったプリント類、図書カードなどをあらかた元に戻し、幾らかすっきりした頃。
 やはり圧倒的に量の多い書籍を整理している最中のことである。
 足下に転がっている分厚い革表紙の百科事典が目についた。
 その事典はカ行のページを開いて横たわっている。
(カ…………)
 いつか見た、希薄な存在が頭を掠めた。
 横島は左手に抱えていたトルストイやらドストエフスキーやらの小説を適当に本棚に突っ込むと、その場に腰を下ろし、事典を拾い上げた。
 ぺらり
 捲る。
 ぺらり
 捲る。
 ……ぱらり
 戻る。
 ぺり――――
 手を、止める。



カゲロウ 

カゲロウ目に属する昆虫の総称。小型種ばかりで、体長15oを越す種類は少ない。体は軟弱で、翅は普通無色透明。後翅は著しく小さい。幼虫は水底の泥や岩の上で生活し、鰓(えら)で呼吸する。水上で脱皮して半透明な翅を持つ亜成虫になり、さらに脱皮して成虫になる。成虫は口器が退化して採食ができず著しく短命。ただし、幼虫期間に数年を要する種類が少なくない。なおウスバカゲロウ、クサカゲロウ類はこれとは別群の昆虫。








『……横島君?』
 どれくらいそうしていたのか。
 ぼんやりと事典を眺めていた横島は、愛子の声に我に返った。
『どうかしたの?』
 顔を上げると、愛子のほ他にピート、タイガーの二人も怪訝そうにこちらを見ている。
「え……あ、いや……て、あれ? もう片づいたのか?」
「ええ。夕方になっちゃいましたけど」
 横島の問いに、ピートが答えた。
 床に散らばっていた本は綺麗になくなっており、図書室の時計はすでに六時を過ぎていた。他の生徒たちはとっくに帰ったことだろう。
「んじゃ、帰るか」
 ぱたりと本を閉じて、横島は立ち上がった。
「その前に先生に報告しないと」
「めんどくせーな。もう帰っちまったんじゃねぇの?」
 事典を本棚に入れる。
『あ、ちょっと横島君! 並び順違ってるわよ、それ』
「そりゃ、図書委員の仕事だろ」
『も〜!』
「――――――」
「――――!」
「――……」

 ガラリ――
 
 ――――――――バタン





 夕暮れの町を歩く。
 昼間より気温が下がってはいるが、まだ暑い。
 汗が滲んだ。
 足は、意識せずとも自宅のアパートへと向かっている。
 横島は遠く、赤く染まった空を見ていた。
 ここからでは夕日は見えない。
 彼は夕日を思い浮かべようとした。
 彼女と見た夕日。
 赤い太陽。
 思い出せても、そこに鮮烈な印象はない。場所や時期、天候によってその様相を変えるせいだろうか、どこか靄がかかったように曖昧な記憶。
(毎日沈んでるはずなんだけどな……)
 胸中で呟いた。
 毎日昇っては沈む太陽。あたかも、目まぐるしく繰り返される生物の生き死にを象徴しているかのように。
 カゲロウのことを想う。
 ひとたび地上を舞えば、子孫を残し、果てるだけの儚い命。
 彼らはいったいなにを思っているのだろう?
 なにを思って……死んでいったのだろうか。

(ルシオラ……)

 自分は彼女の最期を見ていない。





 枕元の時計の音。
 虫の声。
 時折聞こえてくる車の通過音。
 暗闇の中でなら、微細な音も煩わしいほどはっきりと認識できる。
 下着姿で万年床に寝転がった横島は、夜に浸食された虚空を茫洋とした眼差しで眺めていた。
 熱気を孕んだ夜の闇は目に優しい。
 たまに吹く風が、汗を冷やした。
 まだ就寝には早い時間帯だが、なにをする気にもなれなかった。彼女を想うことすら億劫なのに、頭から離れない……
 今思うと、彼女と一緒にいたのはほんの短い間だけだった。アシュタロスから解放されてからは、一週間もなかっただろう。
 それでも彼女は、満足して逝ったのだと。
 自分が彼女のために身を投げ出したのと同じように、死ぬことに後悔も未練も悲嘆もなく、満足して逝ったのだ、と……
 そう思うことが一つの救いであり、慰めだった。
 でも……
(でもさ、ルシオラ…………胸に穴が空いたみたいだよ…………)
 横島は右向きに寝返りを打つと、体を小さく折り曲げ、強く目を瞑った。詮ない考えを、振り払うように強く。
 一切の暗黒の中、眠りの訪れを待つ。
 脳髄が痺れ、堕ちてゆく感触。
 彼は、夢も見ないほどの深い眠りが来るのを予感した。
 それがきっと――










 死と同じ場所にあれば、いい。



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