ザ・グレート・展開予測ショー

蜂と英雄 最終話 〜さようならがさみしくないなら〜


投稿者名:ちくわぶ
投稿日時:(06/ 1/15)







 傷ついたジークとベスパの前に立ち、両手で作り上げた魔力の壁で炎獣を押し止める者がいる。
 それは年端もいかぬ、オーバーオール姿の少女アンジェラ。
 なぜこんな事をしたのか、本人ですら良くわかっていない。
 ただ――心に湧き起こった想いに突き動かされ、気付いたらこうしていた。
 残された最後の力を振り絞り、彼女は炎獣を弾き返した。
 予想していなかった出来事にルシエンテスは一瞬反応が遅れ、彼は炎獣の身体たる
 業火に包み込まれてしまう。



「ぬぅ……何事だ!!」



 霊力を全身から放出して炎をかき消したはいいが、その衣服や肉体は焼け焦げて
 深刻な被害を受けていた。
 見下ろせばアンジェラが主たる自分にその手を向けている。
 その姿をじっと瞳に捉えたまま、ルシエンテスは地面に降り立つ。



「どうしたというのだ。おかげでこの肉体が使い物にならなくなってしまったぞ……
 答えよ、アンジェラ――!!」



 老人の身体がぐらりと傾き、糸が切れたように後方に倒れた。
 そして――代わりにそこに立っていたのは、乾燥した血液のように赤黒いミイラ。
 わずかに宙に浮きながら、禍々しい殺気を膨れ上がらせていく。



「わ……わたし、私……は……」



 震えるその手を握りしめ、アンジェラは怯えていた。
 刷り込まれた存在理由を、自ら否定する行い――彼女の心は、与えられた知識と
 芽生えた感情の間で激しく揺れ動いていた。
 自分が誰だったのか、どうしてここにいるのか――
 心を掻き乱し、身動きが取れなくなってしまっていた。



「さあ、聞かせてもらおう……」



 音もなく移動し、ルシエンテスはアンジェラの目の前に立つ。
 暗い穴だけが開いた、光を宿さぬ眼窩がその小さな体を見下ろしていた。



(ダメだよ……そこにいちゃ……ダメ――!!)



 まだ自由の戻らぬ身体を横たえたまま、ベスパは見ていた。
 用をなさなくなった使い魔の末路を――誰よりも知っている彼女だからこそ。
 目の前に迫る現実が何を意味するのか、考えるまでもなく理解していた。



「わ、私……一緒に……いきたい……」



 作られた道具としてではなく――心を持つただひとりとしてその言葉は紡がれる。
 自らの全てを捨てるに等しい選択をすることは、どれほど怖いものであるだろうか。
 胸に内に眠っていたちっぽけな勇気を振り絞って、答えは示された。



「――お前はワシのために働き、役に立った。
 おかげでここに至るまでの手間がずいぶんと省けたものよ。
 その働きに免じ――反逆には目をつぶってやろう」

「あっ……」



(逃げて、逃げて――!!)



「ご苦労だったなアンジェラ……お前の役目は終わった――」



 骨と皮だけの腕が、静かにアンジェラの胸に突き刺さる。
 だが、そこから血は流れない。
 ゆっくりと引き抜かれたその手には、淡く輝く青白い球が握られていた。
 そこから発せられる波動は、底の見えぬ暗闇に身を置いていた幼い命。
 ルシエンテスはそれを頭上に掲げ、指先に力を込めた。



「やめろ……やめろッ、やめろーーーーーーッ!!」












 一陣の風が吹き抜けた。
 青白い光の綿帽子が、ぱあっと舞い上がる。
 それは残酷に、ゆっくりとベスパの前に降り積もった。
 目を見開いたまま呆然としていると、かすかに温かいひとひらの光が近付いてくる。
 両手でそっとそれを受け止めた刹那、彼女の中になにかが流れ込んできた。






『これ……あんたが作ったの?』

『……はやく食べないと料理冷めちゃうよ』






『……それ、私が選んだの』

『え、あ、そうなんだ。良いセンスしてるわよ、アンジェラ』






『大丈夫だった?ほら、掴まって』






『妹がね、いるんだ――って、ごめん、関係なかったね』












『手、あったかいね……』












 それは魂の残り火。
 道具として作られた存在が、唯一自分の心に明かり灯したわずかな記憶――。
 たった、それだけ。
 それだけが、アンジェラという少女にあった全てだった。
 砕け散った心の破片が頬を伝うのを、ベスパは止めることができなかった。



「あっ……あ……あっ……うわああーーーーッ!!」



 体の上に降り積もる魂の破片をかき集め抱きしめ、ベスパは泣いた。
 そして今頃になってようやく、その身体に少しずつ自由が戻ってくる。
 自分の不甲斐なさを心底恨めしく思いつつ、彼女はアンジェラの残骸を抱きしめたまま
 這うようにしてジークの傍へと近付いていく。



「ジーク……起きてよ……まだ、あんたにはやることがあるでしょ……」



 全身に岩石の楔を打ち込まれたジークは、ピクリとも動かない。
 うなだれた顔を覗いてみれば、目は閉じられ、唇から血を滴らせているだけだった。
 ここで終わってしまうのか――今までの全てが無駄になってしまうのか。
 押し寄せる感情に耐えきれず、ベスパはジークの胸元にすがりついた。



「嫌だ……こんな……こんな終わりかた――お願い、目を開けて……」



 ジークの胸元が涙で滲む。
 こぼれ落ちた涙は彼の血を溶かし、首に掛けられていたマリンブルーの宝石に触れた。
 ワルキューレより受け取った、穢れた水を浄化するというアクアマリン。
 それがわずかに輝いたことを、ベスパもルシエンテスも気付いてはいなかった。



「ファファファ……他人のことで感傷的になるなど、ナンセンスじゃな。
 しかし、よくよく邪魔が入る。
 貴様らの始末は後回しにして、魔神復活を優先させるとしよう」



 ルシエンテスはアンジェラの肉体を無造作に放り投げると、火口の上空へと飛んでいく。
 目の前で噴火が繰り返される場所までやってくると、黄金の林檎を放り投げた。
 それはあっという間に小さくなり、火口に吸い込まれて消えていった。



「さあ、今こそ目覚めの時だ!!
 大地母神ガイアの産み落としたる、暴風雨の化身にして全ての風の父……
 破壊の魔神テュポンよ――!!」



 両手を広げ、天を仰ぎルシエンテスは叫ぶ。
 求め続けてやまない、究極の存在の姿を待ちわびながら。
 ところが――。



「……どうした、長い間封じられてその力が鈍ったのか?
 なぜ何も起きん!?林檎の製法も完璧だったはずじゃ!!」



 火山は噴火を続け、暗雲と竜巻は変わらず存在していたが、何も変化が起こらない。
 どこに落ち度があったのかと眉間にシワを寄せていると、頭上から光の筋が連続して
 降り注ぎ、ルシエンテスの胴体を貫いた。
 だが、砂でできているその身体にダメージを与えることなく、光の筋は通り抜ける。
 何者かと顔を上げると、羽根を持った女の魔族ハーピーが飛来していた。



「くたばれッ、クソジジィ!!」

「くっ……どいつもこいつも、こざかしいわゴミ共がッ!!!!」



 魔神が復活しないうえ、あまりに何度も邪魔をされたルシエンテスは怒りに任せて激昂した。
 宙を舞うハーピーに向けて、逃げ場が無いほど霊波を乱射したその時だった。
 背中から、なにかに貫かれたのを感じた。
 その身体は砂であるから、当然痛みなどは感じない。
 が、凄まじい違和感が全身を駆け巡る。
 身に起きた異常に、ルシエンテスは生を受けてより初めての戦慄を憶えた。
 首だけを振り向かせると、魔剣を突き立てているジークの姿が飛び込んできた。
 体には無数の破片が刺さったままだったが、その眼光は死んでいない。



「この瞬間を待っていた……望みを果たせず、怒りに冷静さを失ったこの瞬間を……」

「小僧……これは――どういうことだ!?」

「お前が手にしていた林檎は偽物……限りなく本物に近い、
 文珠を使って波動までコピーしたイミテーションだったのさ……」

「なんじゃと……!!」

「本物は――あっちだ」



 斜面に座り込んでいるベスパの手には、霊波動を遮断する布に包まれた本物が握られていた。
 横島からもらった文珠でのコピーは良いアイデアだったが、その効果時間は長くない。
 最後まで敵を信じ込ませるために、自分の傍に本物を置いておく必要があった。
 本物の波動でルシエンテスを呼び寄せ、気付かれぬようにすり替える。
 戦いの中でこれをやるのは非常に困難であったが、狙いは見事に成功したのだ。





「それにしても、幸運だった――姉上からもらったこの宝石が、
 力尽きかけた俺に最後の力を与えてくれた……もう、逃がさん!!」

「それは……いつか無くしたアンジェラの石――!!」

「これが……そうだったのか――どうやらツキは、初めから俺に味方していたらしいな」

「ぐぐぐ……か、身体が……固まる!!身動きが取れん!!」



 ルシエンテスを貫いたグラムは、その邪な魔力を際限なく吸い取る。。
 魔力によって保っていた砂の身体は、まるでセメントのように固まってゆく。
 もはや、逃れることは不可能だった。



「おのれ、何故だ!!なぜこんな事になった!?ワシがゴミのような貴様らに――!!」

「お前は――くだらないと切り捨てた人間の……知恵と心に負けたんだ!!」

「ば、バカな……バカなーーーーッ!!?」

「このまま、お前を火口に沈める。
 そのうえで封印が修復されれば、二度とこの世界に戻ってこれないだろう。
 憧れた魔神と共に、タルタロスの闇で永劫の時を過ごせ!!」

「ぐおおおおおッ!!!?」



 ジークは残る全ての力を振り絞って、火口へと飛び込んでいった。
 真っ赤に煮えたぎるマグマのプールにルシエンテス共々魔剣を突き刺すと、
 そこから溶岩が熱量を吸い取られて固まり、広がっていく。
 足場のように広がった端から新たなマグマが流れ、また固まる。
 そうしてジークのいる場所は、小さな島のように浮き上がっていた。



「もう……ここまでか……剣が……指から離れない……」



 魔剣はジークの願いを叶えた。そして今、破滅をもたらそうとしている。
 手にしたもの全てに訪れる運命が、目に見えぬ鎖で身体を縛り付けているかのようであった。
 薄れゆく意識の中、横島や雪之丞、小竜姫やパピリオ――そしてワルキューレの顔が浮かんでは消えていく。
 そして最後に思い浮かんだのは、彼の心を捉えて放さぬ美しい蜂――。

 少しオレンジのかかったブロンドを持ち、純粋な心を肉感的でしなやかな肢体に包む魔族。
 そのアンバランスな魅力に、自分は惹かれていた。
 最後に見た顔が泣き顔だったのは少し残念だが、これでいい――。

 そう思った時だった。
 名前を呼ぶ声が聞こえる。
 引き戻された意識の中に、火口へ飛び込んでくるベスパの姿が映った。



「ジーク!!」


「バカ……何をしにきたんだ……」

「――助けるために決まってるでしょ!!」

「お前だって怪我をしているじゃないか……それに、黄金の林檎はどうした……?」

「あれは外に置いてきたよ…… それより早く!!」



 差し出された手に、ジークは顔を上げるのが精一杯だった。



「ダメだ……もう立つこともできない……それに、手が剣から離れん……」

「そんなのこうすれば――!!」



 ベスパはジークの右手を取り、強引に魔剣から引き離した。
 そして肩を貸し、飛び立とうとしたその時だった。
 火口内部の壁が崩れ始め、巨大な破片が雨のように降り注いでくる。
 さらにマグマが激しく波立ち、特大の噴火を始めようとしていた。



「1人で逃げろ……お前まで巻き添えになる」

「嫌だ!!」

「これは命令だ……!!」

「そんな命令、聞けるもんか――」

「ベスパ、私は……お前にまだ死んで欲しくない。だから――」

「私だって!!私だって……ジークが死んじゃったら、この先どうすればいいのよ……
 もう、1人になりたくない……置いていかれたくないの!!」



 ぐらりと、2人の頭上に巨大な影が覆い被さる。
 剥がれた壁の一部が、圧倒的な質量を持って倒れ込もうとしていた。



「すまない、ベスパ――」

「謝らないで……私が決めたことだから――後悔はないわ」



 互いに身体を強く抱き寄せ、2人は降り注ぐ岩石と溶岩の中で目を閉じた――。












「ぶはーーッ!!」



 エトナ火山ふもとの平原にて。
 美神令子率いる攻撃班のメンバーは、カタコーム(地下墓地群)から脱出した途端に魔族の集団と遭遇してしまった。
 ここぞとばかりに冥子のプッツンで応戦したものの、モタモタしていたら核弾頭の衝撃波で吹き飛ばされてしまう。
 そこで、横島が最後の文珠を使ってあるアイデアを決行したのである。
 それは【潜】の文字を浮かび上がらせ、地面に潜るというものだった。
 直後、衝撃波は地上にいた魔族達を吹き飛ばしてしまったのである。
 ほとぼりが冷めるのを待って、令子が最初に顔を出した。
 続いて横島やその他の仲間達も、地面から這い出してくる。



「とっさのアイデアにしては、なかなか良かったわね横島クン。
 地面の下は息苦しかったけど……」

「身体が土臭いわ……」

「いやー、まさかあそこで見たモグラの姿が役に立つとは。
 秘技、土竜の術とでも名付けましょうか。わっはっは」

「まだ安心出来ませんよ皆さん。急いでこの場所から離れましょう」



 ピートの言葉に全員は頷き、エトナ火山から離れるように走り去っていく。
 それからわずか数分後、火山の火口に逆天号の主砲が撃ち込まれたのを彼らは見た。
 それはゼウスの雷(いかずち)【テイ】を再現したものだった。
 強烈なエネルギーの奔流が火山と大地を揺らす。
 火口はその半分以上が跡形もなく吹き飛び、その形を変えてしまった。
 やがて空に立ちこめていた暗雲が晴れ、竜巻が姿を消し――火山の噴火は沈静化した。
 人間、神族、そして魔族が協力し――台風の化身テュポンの復活は潰えたのである。



 ヨーロッパ――特にイタリアを震撼させた、魔族による核弾頭強奪事件とローマ襲撃事件はこうして幕を閉じた。
 日本から呼び寄せられたGS達も故郷に戻り、それぞれの暮らしに戻っていった。
 そして、何事もなかったかのように月日は流れた。






 シチリア島タオルミーナ。
 坂の多いこの街の外れには、古いが立派な屋敷がある。
 芝生の敷き詰められた広い庭に、オーバーオールの少女と真っ白な髪とヒゲの老人が遊んでいた。
 それを、やや猫背気味な眼鏡をかけた中年の男が見守っている。
 少女は屈託のない笑顔で笑いながら男の傍に駆け寄った。



「ねー、とーちゃんも一緒に遊ぼうよ。そのほーがじーちゃんも喜ぶよ?」

「あ、ああ……そうだな。それじゃあお義父さん、お手柔らかにお願いします」

「シャキっとせんか馬鹿者。そんな事で新しい商売が成功するかッ!!
 この子のためにも、ワシに根性を見せてみよ。くらえ伝家の宝刀、コブラツイストぉ!!」

「あだだだだ!?お、お義父さん――ギブ、ギブ!!」



 少女と老人は、憑依から解放され――手厚い治療を受けた後、本来の意識を取り戻した。
 もちろん、憑依された直後のことは何ひとつ憶えてはいない。
 2人は元いた場所に帰され、普通の生活に戻っていった。
 その姿を、離れた小高い丘から見つめる2つの影。
 海から吹き付ける風にその髪をなびかせているのは、蜂の化身。
 腕を組み、一歩後ろに立つのは英雄を祖先に持つ穏やかな魔族。



「――行こう、ベスパ」

「うん……」



 ジークとベスパは生きていた。
 あの時――岩壁に押し潰される一歩手前で、飛来したワルキューレとパピリオが2人を救った。
 ワルキューレとパピリオは肉親の無事に、心から喜んでいた。
 斜面に残された人間と黄金の林檎も無事に回収され、全ての憂いは無くなった。
 ベスパもジークもひどい怪我をしており、とりわけジークはあとわずかでも治療が遅れていたら
 死んでいたほどの重傷だった。
 しかし、魔族の頑丈さは順調に傷を癒し、一週間もすれば動き回れるほどに回復していた。






 回復した2人は、当然の如く魔界正規軍の本部に呼び出された。
 ベスパは重要参考人として犯罪者と変わらぬ扱いであったが、一切の不満を口にしようとはしなかった。
 正装し会議室に向かうと、そこにいたのは意外なことにアモン将軍だけ。
 厳しい尋問や罵声を覚悟していたが、少し拍子抜けしてしまう。
 青く短い髪の逞しい中年は、貫禄のある口調で2人を迎えた。



「まずは2人とも無事で何よりだった。任務の遂行、ご苦労だったなジークフリード中尉」

「恐れ入ります」

「さて、今回のお前達の行動……色々と問題行動だらけだったわけだが……」

「全ての責任は私にあります。罰するなら、それは私の――」

「あーあー、勘違いをするな。過程はどうあれ、全てカタを付けたお前達の功績は
 素晴らしいものだ。かといって公に表彰すると喜ばない連中もいる。
 というわけで、内々にお前達に褒美を与えようと思うが、異存はあるか?」

「異存など……ありがとうございます、将軍」

「では、さっそくお前達の望みを聞かせてくれ。
 ひとつだけ、可能な願いを叶えてやろう。
 戦い、傷ついたお前達には充分にその資格がある」






 ジークは言った。
 ベスパの潔白を証明し、反逆者の汚名を取り下げて欲しいと。
「その願い、聞き届けよう」とアモンは答えた。
 べスパは願った。
 何ひとつ選べぬまま、この世界に咲いてしまった哀れな花に――
 もう一度チャンスをと――。
「……神に伝えておこう」と、アモンは答えた。



「――お前が集めたアンジェラの霊体の破片を元にしても、新たに生まれてくる魂は
 もはや他人だ。自己満足でしかない行為かもしれんぞ」

「――それでも……お願いします」






 それから一年後、ジークとベスパはイタリアに姿を現していた。
 人間の姿に変身し、ローマ市内を歩いて行く。
 ベスパはあの時アンジェラにもらった服を着て――。



「……あたしはアンジェラをを救ってやれなかった。
 あの子は――あたしだった。だから、救ってあげたかった……」

「彼女を気にしていたのは、そういうことだったのか」

「今でも思うんだ……あの子の命は何のために――何の意味があったんだろうって」

「生きた意味……か」



 やる瀬のない想いを吐き出すように、ベスパは呟いた。
 しばらく黙っていたジークは足を止め、振り返ったベスパの目を見つめ返しながら言う。



「あの少女は――ベスパと出会うことで、温もりを知った。
 手を繋いだとき、彼女は笑っていたのだろう?
 心から微笑むことができたなら――それだけで意味があると、私は思う」

「だけど……」

「失われてしまったものは戻らない。だが、生きている我々がすべき事は――
 その美しい心と命から学び、決して忘れないことだ。
 人を愛し死んだ魔女のアンジェラ、哀しい運命を背負ったアンジェラ……
 私はこの2人が確かに生きて、死んだことを記憶し続けよう」

「忘れない……事……か」

「――ん、そろそろやってくる時間だぞ、ベスパ」



 ジークが腕時計に目をやると、正面から乳母車を押した若い夫婦が近付いてくる。
 ジークとベスパは、今日この場所でこの夫婦がやってくることを知っていた。
 そして、その乳母車には生まれて間もない赤ん坊が横たわっていた。
 ベスパはごく自然に、その夫婦に話しかける。



「――可愛い赤ちゃんだね。ちょっと顔を見せてもらってもいい?」

「ええ、どうぞ」



 乳母車を覗き込むと、赤ん坊がしきりにまばたきをしながら見つめ返してくる。
 ベスパはそっと、その子の頬に人差し指を近付けてみる。

 すると、驚くほど小さな手が、しっかりと指先を握り返し――赤ん坊は笑う。
 ベスパはその瞳を滲ませながら優しく、優しく微笑み返していた。

 その後ろで、ジークと父親の話が聞こえてくる。



「――この子は私たちの宝物……かけがえのない――宝物です」

「そう思って貰えて、この子も幸せですよ」

「ええ、幸せにしてみせますよ、必ずね――」



 咲き誇る優しさの中で、その赤ん坊は笑っていた。
 やがて会話は終わり、夫婦は軽く会釈をして通り過ぎていった。
 ベスパはその後ろ姿を、ずっと見つめ続けている。



「――これでいいのか、ベスパ」

「あの子、髪も目の色も違ったけど……同じ笑顔だった
 ――今度はきっと、幸せになれるよ……」

「ああ……そうだな」

「ありがと、ジーク。わざわざ付き合ってもらっちゃって」

「たまにはこういうのもいい」

「――あの……さ」

「どうした?」

「もし――私が消えたら……ジークは、憶えててくれる……?」



 遠くを見つめたまま、ベスパはポツリと呟く。
 その横顔の美しさに少し胸の高鳴りを感じながらも、ジークは少し明るい口調で答えた。



「まぁ……お前ほど手のかかる仲間はいないからな。
 忘れろと言われても、忘れてやらないさ――」

「……ちょっと、それどういう意味?」

「言葉通りなんじゃないか?」

「うわぁ、腹立つ言い方――って、こら、逃げるなぁ!!」








 出会い、別れ――生きて死ぬこと。
 思い出と記憶は心に刻まれ、語り継がれていく。
 さようならがさみしくないなら――
 手放すときためらわないなら――
 そこにどれほどの意味があると言うのか。
 彼らは未来へと歩いて行く。
 そして、いつの日にかきっと――
 蜂と英雄の紡いだ物語も、語り継がれる日が来るのだろう――



  

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