ザ・グレート・展開予測ショー

平安霊異譚・前 京の鬼(GS)


投稿者名:すがたけ
投稿日時:(06/ 1/14)

 ―― 宴の松原には鬼が出る。

 その噂はいつ頃から広まったものか―― それを知る者は、いない。

 だが、四方を四神相応の結界によって固められ、霊的に守られたはずの京の都であっても……人が集まり、怨みや憤り、嫉妬や欲望といった情念が積み重なっていく限り、内に陰の気は溜まる―― いや、そう言うよりはむしろ、術によって不自然なまでな清浄さを作り上げ、空白地に押し寄せる邪気を四方を固めることによって防ぐ代わりに、循環を捨てて閉じこもっていたばかりに、内にこもった陰の気は逃れる場所を失うことになり、逆に陰の気のわだかまり易い地―― いわば魔都へと変貌を遂げていたのだ。

 長岡京や難波京のように使い捨てることを由とするならば、この地に無理矢理築き上げた不自然なまでな清浄さもそれほど影響を与えることはなかったに違いない。

 だが、この地に都が開かれてより百年をゆうに越え、何者かを恐れるように遷都を繰り返してきた時の帝も既に世にない。故に、この魔都にわだかまった陰の気は飽和状態となり、ごく簡単なきっかけを経て魑魅魍魎へと変じることになっていた。

 魔を退け、鬼を封じるために施された結界の内にこそ、鬼を生み出す陰の気が満ち溢れているということは皮肉と言うより他にないが、この国の『人の欲』の坩堝とでも言うべき都……その中でも『通貴の者』……所謂貴族のみが足を踏み入れることを許される内裏の一角にある宴の松原に鬼が顕れると言うこの事実は、欲望と言う面でも頂点に近い者達が集う場所であるが故に、ある意味では至極当然でもあるといえた。


 そして、宴の松原に―― また一つの鬼が舞い降りた。









 ―― 一筋の雷光とともに。






「メフィスト―― 騙し討ちで私に一太刀を加え、アシュタロス様を退けたとはいえ、奴が人となって二十年……衰えるには充分よ。
 ましてや、ここにおびき寄せれば――」


 暗い雷が、不気味な輝きを帯びて天を裂く。

 雷鳴が、悪鬼の含み笑いの如くに都を揺さぶった。







 〜平安霊異譚・前 京の鬼〜










 魔族として生まれた私は、人で言うところの『幼少期』という頃の経験をもっていない。

 アシュタロスに作られたその時から完成した一つの『作品』として産み落とされたからだ。

 その時にはそれで当然と思っていたし、生体としての完成までにおよそ20年という時をだらだらと過ごす人間という生き物に対して『不便だ』という感覚すらも抱いていた。

 だけど、人の中で生きていく中で、その空白はあまりにも大きかった。

 『母親』になった今となっては、特にそれを強く感じる。








 思えば、愛というものの存在を教えてくれた高島どのは、私の心に強烈に焼きついて死んでしまった。

 西郷どのは、あの時に飲み込んだエネルギー結晶や、元魔族という身の上が宿した力が故に『狐の化身』などと噂されていた私を兄としてかばってくれた。

 亭主である保名も、バケモノ扱いされている私を精一杯に愛してくれている。

 しかし、私にはその想いに応えることが出来ているのかは判らない。



 そして何より、あの子……童子丸をどう愛していいのかも、よく判らない。


 こういう時ほど、私は自分の生まれを呪う時はない。

 明確に言葉を持たないために笑うことや泣くことでしか自己主張が出来ず、扱い方を間違えばすぐに壊れてしまいそうな『子供』という存在を、子供の頃の記憶というものを持たず、愛する術を知らない私はどう接すればいいかが判らない。

 いや……むしろ、そんな私に本当に他人を愛することが出来るのか――それが全く判らないと言ってもいいだろう。



 沈む気持ちに溜息を一つつき、私は井戸の蓋に手を掛ける。



 その時だった。

「――ねぇ……おばちゃん」

 その声が、私の後ろから掛けられたのは。


「おば――ッ?!」



 その失礼な言葉に思わず振り向いて気付いた――その声の主の気配に、私が気付いていなかったことを。

 気配を持たないがために、気配を感じさせずに近寄ることの出来る相手……つまりは――

「―― アンタ……まさかッ!」

 ――式神!?

 舌打ちとともに身構える私に、前髪を下ろした禿(かむろ)姿の式神はくすくすという笑いとともに告げた。

「道真様からの伝言だよ?『お前の息子は貰い受ける。返して欲しくば宴の松原まで来い』ってね。
 ―― ただし、その前に僕達を退け……」
 子供を模したそいつの、お決まりの言葉を最後まで聞く気はなかった。


 手に集めた霊気―― その開放点を極限までに小さく、細く集中することで刃の鋭さを持たせた霊気の塊を横薙ぎに振るう。

「―― 判ったね?」
 刃状に収束された霊波の斬撃を受け、高笑いとともにヒトカタを素にして作られた式神は消え失せた―― が、その高笑いを合図に、十を楽に越える小さい……だけど、その小ささは見せ掛けだけということが判る影が森から染み出てきた。


 ―― 許せない。

 今ごろ出てきて。

 ―― 許せない。

 私の日常を脅かそうとでも言うのか。

 ―― 許せない!

 たとえ私がどうなろうとも、あの子に手は出させない!!

 『許せないのなら、力を解き放て』

 人間として暮らすうちに忘れていた、魔族特有の破壊の衝動が耳元で囁く。


 その衝動に身を任せ、私は囲みを切り裂いた。


 だが、切り裂いたはずの囲みは続けてその場から浮き上がってきた土くれの人形によって塞がれる。


 進路を塞がれたことによって生じた一瞬の停滞に乗じ、突き出た腹以外を痩せ細らせた鬼……所謂餓鬼が私の背に牙を突き立てようと迫った。


 ―― 甘い!


 その牙が届くよりも早く、私の左手に握られた破魔札が餓鬼の眉間に張り付き……私の霊力と餓鬼の妖気を起爆剤として弾ける!



 道真はこの程度で止められるとでも思ったのだろうか……だとしたら、あまりにも私を舐めすぎだ。

 今は人間だが、まがりなりにも私もアシュタロスによって作られた魔族だったことに変わりはない。

 たとえ二十年前にアシュタロスから奪ったエネルギー結晶がなくても霊力の総量とパワーは人間よりも遥かに多く、強いことは明らかだというのに、数が多すぎると言う以外には並の術者にも対処出来る程度の魔物を差し向けている。

 あまりの数の多さから来る鬱陶しさにそう思い至った瞬間と、母屋の方角から轟音が響いてきたその時とは寸分違うことはなかった。

「しまったっ……こっちはおとりっ?!」

 思わず私は歯噛みする。

 保名も陰陽師としては一流と言ってもいい。だが、相手は神に奉じられる程の人間の魂の一部を核として、アシュタロスが特別に力を注いで作り上げた亜神だ……この程度の式神や邪鬼風情ばかりを使うはずもない。
 つまり、本命である母屋に差し向けられた道真の眷属は、今私が戦っているこいつらよりも遥かに強い!

 ―― 邪魔!

 背筋に感じる恐怖を振り払いながら放った舌打ちとともに、道を塞ぐ土人形を霊気の塊で砕いたその時、空気を焦がすかのような高く、激しい音が再び母屋を揺らし、二条の刃が土壁を切り裂いた。

 母屋の側から吹いてきた緩やかな風が運んできた、落雷の直後に似た独特の臭気が鼻を突く。

 ―― まさか。

 雷、という最悪を連想させる単語が、心臓の鼓動を早める。

 ―― いや、違う!そんなことはない……あるはずはない!!

 後から後から湧いて出る小鬼や式神の群れ……それ以上に尽きることなく湧き出る厭な予感を引き裂き、切り払い、鬼の血と吹き出す汗に塗れたまま母屋へと飛び込む。




 しかし……そこには誰もいなかった。



 寝ているはずの子供も。


 数ヶ月ぶりに役目を終えて帰宅し、久々の我が家でゆったりとくつろいでいたはずの亭主も。

 倒れた鉄瓶から立ち上る湯気と、壁に刻み込まれた皹や焼け焦げ、炸裂した呪符の切れ端といった爪跡が、私が足止めされた数分の間に何が起こったかを如実に物語っていた。


 ……獣の咆哮にも似た声が聞こえた。

 他でもない私自身の――怨嗟の叫びだった。
























 彼女がその力に気付いたのは、何時のことだったかは判らない。


 少なくとも、物心のつく前からは虚空を見上げては笑いかける娘ではあった。


 そして、物心のついた頃にも変わらずにその空を舞う『友』に笑顔を振り撒いていた。


 他に友がいれば、その笑顔を『目に見える友』に向けていき、次第に『目に見えぬ友』のことを忘れることが出来たかもしれない。


 しかし、彼女には他に『友』と呼べる存在はなかった……そのために、自分にのみ見える『友』に笑み、ともに語らうだけでしか孤独を埋めることはできようはずもなかった。


 故に、年を経るとともに研ぎ澄まされ―― 帝に連なるものとしての生まれとともに孤独を更に深めていく素となる『見鬼の力』――彼女はそれに苛まれ……。


「あれ〜〜、あなた〜〜、見ない顔ね〜〜〜?」


 苛まれ……。



「ねぇ〜〜〜、重いでしょ〜〜〜?ちょっとここで休んでいったらど〜〜〜お〜〜〜?」



 えっと……別に、苛まれてはいないようだった。




 太平楽な呼びかけに一瞬だけ『それ』はその動きを止め、彼女と視線を交わす。


 だが、視線で交わされた、言葉を介さぬ会話は一瞬で途切れた。




 思い直したかのように再び宙を駆け去った『それ』を名残惜しそうに見送り続ける彼女の背中に、声が投げ掛けられた。


「幽子様……また、何か?」
 声の主―― 長烏帽子に狩衣、長刀を佩いた長髪の男に振り返り、十二単をその身に纏った彼女……幽子は緊迫感を一切感じさせることのない間延びした口調で返す。


「あら〜〜、輝清ちゃんじゃない〜〜〜。
 あのね〜〜、今〜〜、お友達になってくれそうなコがいたんだけど〜〜〜、飛んでっちゃったの〜〜。あっちの方に『ぴゅ〜〜〜』ってね〜〜〜」
 寂しげな表情を浮かべ、南の天から北の空へと指を向ける幽子。

 『輝清ちゃん』と呼ばれた壮年の男……帝の血に連なるこの娘の警護役に相応しい血筋を有しながらも、参内を許されるその血筋のみならず、陰陽寮の中でも陰陽頭(おんみょうのかみ)賀茂忠行に並ぶとも称される実力で陰陽博士という官職を得た西郷輝清は、その指の向く先に不吉なものを憶え、やや考え込む。

「あの方向といえば―― 宴の松原か。十年前に調伏して以来、あそこから鬼が出たという話は聞いてはいないが……」

 その西郷の呟きに一切耳を傾けることなく、マイペースを崩すことなく続ける幽子。
「人を乗せてて〜〜、辛そうにしてたから〜〜〜休んでいったらどう〜〜〜って言ったんだけど〜〜〜」

 よほど気を張っていない限り、聞く者に眠気をもたらす程に間延びした口調に混じる響きを聞き逃さなかった西郷は……「『人を乗せて』――ですか?」見鬼の力を持つ貴人に訪ねる。

「ん〜〜、そうね〜〜〜。あれは〜〜男の人と〜〜〜、子供だったかしら〜〜〜?」
 相変わらずのゆったりとした口調で返す幽子のその一言を頼りに、西郷は推察を開始する。

 日は天に高くあり、時はまだ逢魔が刻には程遠い―― いかに力ある鬼といえ、表立って動ける時ではない。

 となると、恐らくは式神であろうが、禁裏の上空にまで至る結界をも突破した上で大人と子供をまとめて運ぶだけの力を持った式神を使ったとなると、その術者は自ずから限られてくる。

 それだけの術者で現時点で最も考えられるのは播磨の『道摩法師』こと芦屋道満か、その流れを汲む鬼道の遣い手だろうが、西郷は最も疑わしいはずのその線は早くに捨てていた。

 いかに力量に富むとはいえ、陰陽寮に属さぬがために内裏に入ることが許されぬ身分である道満やその一門の巫覡が禁中に入り込むだけの理由はない上、もし万一導き入れる者があったとしても、賀茂と西郷という陰陽寮にその名を轟かせる二人が目を光らせている今の禁中においては、一切を隠し通すことなく事をし通せると言うものでもないからだ。

 となれば、別の何者かだが、それ以外の術者を表裏合わせて照らし合わせてみても、それだけの力を持つ使い手は賀茂や西郷自身、もしくは彼の妹くらいしか思い当たる相手はいない。

 知らぬ間にその力を伸ばした予想だにしない術者か、はたまた全く別の何者か―― そう考え、西郷が再び深く思考の海に潜ろうとした矢先、一羽の鳩が彼の目の前でその翼を翻した。


「これは……葛の葉、か?こんなところに式神を寄越すとは、何かあったのか」
 その鳩を模した式神を寄越した術者を一目で――とはいえ、この禁裏に施された結界を潜り抜けるだけの力量を持つ術者などはそうはいないが―― 見抜き、怪訝そうな瞳で西郷は白鳩の形をなした式神に向けて右手を差し出す。

 その差し出された掌にとまった鳩が、白煙を上げて一枚の紙へと変ずる。

 そこにしたためられた文言に西郷は目を通し……その目を驚きに見開いた。

「な〜〜に〜〜、どうかしたの〜〜〜?」
 その中央に安倍家の式神の証である桔梗印―― 現在で言うところの所謂五紡星を中央に配した紙を覗きこむ幽子に気付くことなく、呟く。
「道真公の怨霊が……保名くんと童子丸をかどわかした、だと?」

 二十年前、アシュタロスによってこの世に再びの生を受け、幾度となくこの都に恐怖をもたらした『京の鬼』……つい先頃、彼を失脚させた者の血に連なる皇太子をその祟りで黄泉の地へと引き摺りこんだ菅原道真の霊が、血は繋がっていないとはいえ『妹』である葛の葉の伴侶である義理の弟と甥をかどわかし、宴の松原に葛の葉を誘い出そうとしている。

 彼の怨霊が今になって何を企むかは判らないが、確実にその企みが葛の葉夫婦やその息子のみならず、この都にまで災いをもたらすことだけは言える。

「今度は……好きにはさせん!!」

 鬼神もこれを避く……そう言うに相応しい殺気を滲ませながら、西郷は式神だった紙を握り潰した。

































「そうか……道真公の怨霊、か」
 苦虫を噛み潰したような顔で言うと、その高烏帽子の男は西郷、そして、遠く摂津から馬を飛ばして都……陰陽寮までやって来た『西郷の妹』―― 葛の葉を見る。

「葛の葉くんの気持ちは判らなくもない……しかし、私は陰陽寮を統べる者として、道真公の怨霊を調伏することに手を貸すことは出来ないのだよ」

「そんな!忠行殿!!」
 その言葉に併せて食って掛かろうとする西郷を、高烏帽子の男は軽く右手を挙げて制すると咳払いのあとにその眼光を強めながら言う。

「15年前の藤原家の氏長者だった時平殿や、10年前の源家の右大臣殿……そして、つい先だって時平殿に連なる保明親王までもが祟り殺されたことは知っているだろう?死後20年経ってもなお収まらぬその祟りを避けるために、大宰府に左遷される前の右大臣に復することでその霊威を鎮めようとする動きがあるのだよ」
 今更に過ぎないがね―― そう続けて『忠行殿』……陰陽頭・賀茂忠行は高烏帽子を外すと、年齢の割にやや額が広くなった頭を掻き毟りながら苦りきった顔で溜息を一つつく。

 葛の葉には判っていた。賀茂が冷たさで言っているのではないことも、下手な刺激をすることで祟り神たる道真の怒りを更に増すべきではない、と言わんとしていることも。

 だが、そんなものは彼女には関係ない話だった。

 ―― たとえ己の生命に代えても、二人を助け出す。





 葛の葉の瞳に宿った、決意を秘めた危険な光……それに感づいた賀茂がたしなめようと何事かを口にしようかとしたその時、妙に間延びした声が場を支配した。

「でも〜〜、葛の葉ちゃんの子供と旦那さんには関係ないでしょ〜〜〜〜?」

 一度にその場の空気をゆったりとしたものに塗り替えた声の正体……本来ならば……特に、このような時間には宮中に居なければならない幽子の姿に面食らった賀茂と西郷に構うことなく、女官一人を供として引き連れてきた帝の血を引く貴人はそこはかとない寂しさを滲ませる口調で続ける。

「それに〜〜、あの子もかわいそうだったわよ〜〜」

「あの子というと……式神のことですか?保名くんと童子丸を乗せて道真公の下に飛んでいたという、あの――」
 間延びする幽子の言葉を半ば遮るような形で割り込む西郷の言葉に、薄く涙ぐみながら頷くと、幽子は更に続ける。

「だって〜〜、本当は厭がっているのに〜〜、力づくで従わされてるのよ〜〜〜。かわいそうじゃないの〜〜〜」

 その幽子の言葉に、陰陽師二人は驚きを禁じえなかった。


 式神というものはそもそも、用いられてこそその真価を発揮する。

 ある程度の自意識は持ってはいるが、それを契約という呪によって縛り付け、その際に生じるストレスを含めて操作することで、縛られていない“鬼”本来の力以上のものを引き出す――それが式神使いというものの常識である。


 実際の式神というものを知らないが故の甘さ、と断じることは簡単だ。

 だが、『式神の心』という陰陽師の常識では考えられないことを真剣に思い悩み、道具に過ぎない式神に対して涙を浮かべることが出来るこの幽子という娘が言うとなると話は別だ。

 生まれつき……いや、もしかすると生まれる前から備えていたかもしれない天賦の才、そして、『目に見えぬ友』と語らってきた時間と密度では年長であるはずの賀茂と西郷を大きく凌駕する幽子の直感は、軽んずることは出来ない何かを孕んでいるのだ。

「大丈夫よ〜〜、葛の葉ちゃん〜〜〜。わたしも輝清ちゃんも手伝ってあげるから〜〜、元気出して〜〜〜」

「私もッ?!」
 
 本来ならば止めるべき立場にありながら、内心では今にも駆け出しそうな葛の葉に助力をする心算でいたその心中を見抜かれた、という点で半分……そして、もう半分の驚きを初めて出会ったばかりの葛の葉に対して助力を申し出た幽子に向けた西郷は、戸惑う葛の葉に構うことなく声を掛ける幽子に向き直る。


 その西郷の驚きに、笑顔を伴った頷きで返す幽子。
「もしかして〜〜、行かない心算だったの〜〜〜?妹を見捨てるなんて〜〜、薄情よね〜〜〜〜」

「い、いえ……そんな心算は……」
 有無を言わせぬ笑顔で西郷を圧倒する幽子と、整った顔を引きつらせながらの笑顔でそれに応じる西郷。

 その二つの笑顔……そして、思わぬ助力に呆気に取られ、呆然とそのやり取りを見るしか術を持たなかった葛の葉の姿に、賀茂は苦笑を噛み殺しつつ八咫烏が印された一枚の札を烏帽子に仕込まれた隠しから取り出すと、葛の葉に向けて差し出す。

「賀茂様……これは?」
 賀茂は、怪訝そうな色をその美貌に浮かべた葛の葉からあえて視線を外すと、殊更に外に目を向けて一人ごちる。

「私が修めた術には、陰陽の技の他に天文道と暦道があってね―― その過程で得た術に、時の刻みを操るものがあったんだが……人の身に余る術として妙神山に住まう竜神様にその術を封じていただいて以降、その術の使い手はいなくなっているんだよ―― いかに都の治安を守ることを旨とする陰陽寮とはいえ、存在しない術の使い手を取り締まることは難しい。ましてや、道真公に手を出さないと決めたとなると、そういった危険な術の使い手が道真公の怨霊とが争うことはむしろ共倒れを狙う好機と見て静観するのが、陰陽寮が取る手段……そうは思わないかな?」

「……あ」
 手は出さない。そして、余人にも手を出させない―― 言外にその響きを含ませた賀茂の言葉に思わず息を呑んだ葛の葉に対して、都随一の陰陽師は悪戯っぽい笑みを浮かべ、続けて言う。

「あくまでこれは独り言だけど……私も子を持つ親だからね。子を攫われた親の気持ち、というものは理解出来るよ。願わくば、保名殿と童子丸には無事に帰ってきて欲しいものだよ」

 言いながら懐から三枚の紙を取り出した賀茂は、人をかたどったそれを手にしつつ、幽子に付き従っていた女官に無言で訴える。

 賀茂の『他言無用でお願いします』という訴えを察したのだろう……文という名の女官は『ええ。ただし、幽子様の御身に何かがあれば……判っていますね?』という笑顔で返し、賀茂と交差させた視線を暫時虚空に舞わせる。

 賀茂が念を凝らす。

 そこには諦めたかのように俯いたまま、車座に座り込む三人の姿が変わらずにあった。






 ただし、葛の葉の前に置かれていた一枚の札――それだけはその場から消えていた。










 宴の松原で鬼が笑う。
「ふふふ……前は不覚を取ったが、今度はそうはいかんぞ」

 胸中で猛り狂う復讐の昏い悦びに打ち震えながら――。

「不意を打たれた前と違い、十二神将という手駒もある……なにより、ここには『これ』がある―― 二十年前、私がこれを知っていれば……な」

 瞳の内にある闇色の輝き―― それよりもなお暗い……光すらも抜け出せないのではないか、という印象を第一に与える真の闇が、そこにはあった。

 蟠るその闇を背に、“京の鬼”菅原道真は笑う。


 含み笑いが哄笑へと変じるには、数秒も必要とはしなかった。

今までの コメント:
[ 戻る ]
管理運営:GTY+管理人
Original GTY System Copyright(c)T.Fukazawa