ザ・グレート・展開予測ショー

絶望は、イヌを殺すか?(4)


投稿者名:APE_X
投稿日時:(05/ 8/20)

 波立った水面が収まるよりも早く。
 歩道のコンクリートタイルの破片を振り払いながら、『獣人』が身を起こした。


『―――…ゴボッ…!ガハッ、グ…』


 苦しげに咳き込む口許から、ぼたぼたと血の入り混じった唾が滴り落ちている。
 些か締まりのないオチが着いたとは言え、横島の一撃は霊的、肉体的どちらとしても急所である心臓を、確かに射抜いていた。

 この好機に真っ先に反応したのは、やはりというべきか、事務所の一番槍を自認するシロ。


「〜〜〜おのれッ!先生の仇ぃっ!!」
「―――あっ、バカやめ…――!!」


 アストンマーチンの屋根から身を躍らせ、歩道に爪先が着くやいなや、ドンッ、と空気の弾ける音を響かせて突進する。
 人狼の身体能力を全開にしたそのダッシュには、美神の制止も間に合わなかった。

 文字通り風を巻いて、一気に標的の目前へ肉薄したシロが、霊波刀を振るう。

 間一髪、右袈裟に斬りつけた霊波刀を転がって避け、両手足を地に突いて低く構えた獣人の眼が爛、と輝いた。
 伸びきったシロの脇腹目掛け、カウンターのかぎ爪が振るわれる―――。

 ドッ、ドドンッ!

 だが、伸ばしたかぎ爪で獲物を捕らえるよりも早く、獣人はふたたび飛び退った。
 路肩に停車した車の窓から、エンジンを止める暇も惜しんだ西条が抜き打ちで援護の火線を放ったためだ。

 その的確な反応に感謝と賞賛を送りかけて、美神は息を呑んだ。


「―――シロ!?」
「シロちゃんっ!!」


 一跳びで5mほど距離を取った獣人の手前で、シロが崩れ落ちるように膝を突く。
 美神の位置からは、反撃された様子は見えなかったというのに。

 硝煙を立ち上らせる銃口を油断無く標的にポイントしたまま、視線を険しくした西条が車外に降り立つ。
 その射線を塞がないように身を低くした美神は、神通棍を取り出しながら素早くシロに駆け寄った。
 すぐに西条の車の助手席から、転げるように飛び出したおキヌも駆けつけてくる。


『――…グルルル…』
「キサマ、今いったい何をしたッ!?」


 後脚と上体を撓め、今にも跳びかかってきそうな体勢の獣人に、抜き身の霊剣を逆手に構えて銃を向けたまま、西条が問いかけた。
 未だ、牙を剥きだした口の端から紅い滴をこぼす獣人は、当然のように応えない。

 かわりに、10m余りの距離を隔てて睨み合う彼らの間で、顔面蒼白のシロを抱え起こした美神が呻いた。


「シロっ、ちょっとしっかり…――って、何このニオイ…っ!?」
「…うっぷ、っ!」


 脂汗を顔面にびっしり浮かべたシロを片腕に抱えながら、ちょっと涙目な美神が残る片手で鼻を覆う。
 すぐ脇では、やっぱり涙目のおキヌが口許を抑えて軽くえづいている。

 ―――人間でもつーんと目に来るほどの強烈な臭気が、獣人の元いた地点を中心に渦巻いていた。


「に、ニオイ…!?」

「……。そりゃ、人狼の嗅覚でこんなの喰らえばねー…」
「ぅっく…。お、お稲荷さんって、『ふぇれっと』とかの仲間なんですか…?」


 唯一人、事情が分からない、といった表情の西条を余所に、引きつった表情で鼻を摘んだまま、美神がげんなりと呟く。
 西条のいる方はちょうど風上になっていて、まだ被害を被っていないらしい。

 ついにぷるぷると痙攣しだしたシロに霊的治療を施しながら、学校で聞いたペットの話を思い出して、おキヌも呟き返した。


「んなワケないでしょ…!だいたいコレ、何かの腐敗臭よ!?」
「―――じゃあ、やっぱりワザとじゃない…?」

「…ワザとじゃなきゃ、こんな強烈なニオイ、世界中のドコ探したって見つかりっこないわ…!
 ――…なかなかエゲツないマネ、してくれるじゃないの…!!」


 その、『世界中のドコ探したって見つかりっこない』『強烈なニオイ』の大元は、そう言った当人の丁稚宅だ。
 ついでに言えば、『エゲツないマネ』をしでかしたのもその丁稚。

 まさに、世の中には知らない方が幸せな事もある、という言葉の好例だった。


「―――な、何のこれしき…!、…先生の仇は、拙者の手で…ッ!」
「あ、まだ無理しない方が…。勝手に横島さん殺しちゃってるし…」


 ぐぐぐ、っと貧血を起こしたまま無理やり立ち上がろうとしたシロが、『…あうっ』とか呻きながら再び沈没する。
 尻餅を突くようにへたり込むシロを、抱き止めたおキヌに任せて、入れ替わりに美神が獣人へと向き直った。

 ―――そも、美神たちの目的はあくまで『霊障を解決する』事であって、別に相手を叩き伏せる事ではないのだ。

 勿論そのために必要なら、というか美神の場合は趣味も兼ねて、相手をシバき倒す事もままある訳だが。
 今回は少々相手が悪い上に、すでに横島が充分にダメージを与えて行った後でもある。
 そのダメージが抜けきらない今の内に、話し合いで解決してしまう方が手もカネもかからない。

 闘る気満々なシロが戦力外である事は、むしろ美神にとって好都合であるように思われた。


「―――ちょっとアンタ!、ドコの稲荷神だか知らないけど、まだ罪が軽い内に降伏した方が身のためよ!
 今すぐ被害者たちの術を解いて大人しくするって言うなら、いくらか罰も軽くなるよーに手を回してやっても良いけど!?」

『……。』


 神通棍と破魔札を構える美神と、霊剣を提げて45口径を向け続ける西条。
 世界でも指折り、超一流と言って間違いないGS二人の臨戦態勢に対しながら、獣人に気圧される様子はない。

 美神の勧告を聞いて考え込む素振りをみせる『稲荷神』と、構え続ける二人との間を、車道を通過する自動車の音だけが流れて行く。

 今なお立ち上がろうと足掻いているシロの背中を撫でてやりながら、おキヌはその緊迫した空気に呑み込まれていた。
 ぴりぴりと張りつめ、肌を刺すような緊張感に彼女の神経が限界を迎える寸前。

 車道にはみ出して駐車したアストンマーチンに向かって、長距離便らしき大型トラックがクラクションを鳴らして通り過ぎた。
 叩きつけられたホーンが、張りつめた静寂の中で酷く大袈裟に響く。
 驚いたおキヌが思わず眼をぎゅうっ、と閉ざして小さく悲鳴を上げたその一瞬に、獣人が動いた。

 足場を変えるでもなく、かぎ爪を振るうでもなく。
 ただ、身を震わせるように軽く力を込め、霊力を開放する。


「「「「!!」」」」


 美神が咄嗟に神通鞭を伸ばし、西条の指に力が入る。
 だが、それ以上何をする間もなく、息を呑む彼らの目の前で、『それ』は変化した。

 渦を巻く霊気の中から顕れたのは、今までの毛並みと同じ赤褐色の毛髪を、収まり悪くはねさせた青年の顔。

 狩衣を纏い、烏帽子を頂いた服装は、古の貴族の出で立ち。
 薄く小さく整えられた眉の下から、涼しげな切れ長の眼差しが美神たちに向けられている。

 淡泊な印象の、まず美しいと評して良いだろう顔立ちが、冷淡に歪んだ。


『―――分からんな。何故、我がキサマらごときに許しを乞わねばならぬ?』


 傲然と、見下す目つきで告げる。
 その皮肉げに歪んだ澄まし顔が、美神の心の琴線を大いに刺激した。

 曰く、『ああっ、こーゆー二枚目ヅラしたヤロー、お笑いキャラに叩き落としてケッチャケチャにしてやりたいッ!!』。

 ―――どちらが悪役か、判らなくなりそうだ。


『我に無礼を働いた事は見逃してやる。疾く去ぬれ、賤の者ども!』


 あくまでも見下す態度を崩す事なく、まるで虫を追うかのように掌まで振って見せる。

 人間誰しも見下されるのは面白くないもの。
 ましてやここにいるのは、『あの』美神令子だ。
 自分が他人を見下したり足蹴にしたりするのは大好きだが、逆に自分がそうされる事など断じて許しはしない。


「ぐぬぬぬ…ッ!アンタ、ちゃんと状況分かってんでしょーねッ!?
 他人のモン勝手に弄くっといて、あんまりフザケた寝言ぬかすと、しまいにゃ痛いじゃ済まないよーな目に遭わすわよ!?」
「れ、令子ちゃん、落ち着いて、冷静に…!」


 ザワザワザワ、っと渦巻く怒りのオーラに艶やかな長髪を逆立たせ、殺る気満々にガンを飛ばす。
 今の彼女の耳に、腰の引けた西条の諫言など届かない。


『ほう…面白い。できるものならやって見せよ。―――『あの男』の半分ほども我を愉しませられれば、褒めて遣わそう』


 煽るような『稲荷神』の台詞に、ビシッ、と何かが弾けるような音がした。
 幻聴であって欲しいという西条とおキヌの願いも空しく、美神の額に浮かんだごっつい血管が、音源を如実に示している。

 獰猛に犬歯を覗かせた、ちょっと笑顔とは思えないような表情で、美神は微笑んだ。

 軽く手首を捻って舞わせた光の鞭が、空中に螺旋を描き出す。
 先端でコンクリートを打ち砕くそれを、天女の羽衣のように纏わりつかせ。
 殺気も顕わに立ちはだかる様子は、天女は天女でも、陽炎を背負って悪鬼を祓う摩利支天。


「上等よ…。警告はしたからね…!」

「あわわわ…!」
「みっ、美神さは〜んッ!!」


 美しくも猛々しいその形相に、何かを思い出すような、かすかな翳りが青年の顔を彩る。
 そんな相手の様子にも、半べそであわあわと呻く西条とおキヌにももはや構い付けず、美神のヒールが地を蹴った。


「このGS美神が、極楽に行かせてあげるわッッ!!」



***



 空気を切り裂き、収束した霊波の鞭が奔る。
 四方八方から軌跡を変えて襲いかかる斬撃の嵐は、しかし標的を捕らえきれず、空を斬りつけ続けていた。

 舞うように身を翻しつつ、いつの間にか手にした扇でその致命的な攻撃を捌き、お公家顔の青年が嘲笑う。


『どうした?女。――…この程度では、あの者の剣には遠く及ばぬ。威勢が良いのは口だけか?』
「―――ッ、この…ナメた口を…!!」


 そのいらうような口調にムカムカと苛立ちを募らせて、美神はさらに間合いを詰めた。
 詰まった距離の分だけ鞭の長さに余裕が生まれ、斬撃の軌跡に変化が加わる。


「…これならどうッ!?―――1っ!」


 上段から唐竹割りに打ち下ろされた斬撃を、半身になってかわした青年の頭の脇から。
 しなった鞭の先端が、横殴りに襲いかかった。

 さすがに予測を外れたその攻撃までは捌き切れなかったのか、『稲荷神』が掲げた扇でその攻撃を受け止める。


「2っ!」


 先に繰り出した鞭を追うように投げつけたネックレスの精霊石が、青年の目と鼻の先で爆発めいた閃光を放った。
 その目眩ましに紛れてさらに踏み込んだ美神の左手には、手品まがいの手際で取り出した破魔札が握られている。


「3っ!!…〜〜〜ッ!?」


 掛け声とともに破魔札を叩き込もうとして、美神はぎょっとした。

 翳した袖の向こうから、嘲るように眼を細めた青年が嗤っている―――!


『甘いな?…――彼奴と同じ手口では、届かぬ』


 攻撃を一度防御させておいて目眩まし、そして追撃。
 それは、横島が最初に『彼』を引っかけた手と同じ。

 しかも、横島が手刀の間合いからそのまま文珠を叩きつけたのに対して、美神は鞭の間合いからさらに踏み込んでいた。

 折角の奇襲連続攻撃も、より連続性の良い状態で同じ技を見た相手には通用しない。
 元々は美神の方がオリジナルであり、違いを生んだ差は技量でなく手にした得物の差だが、現実に通用しない物は通用しないのだ。

 美神の手の中から、扇に払い除けられた破魔札が弾け飛ぶ。
 翻って直線的に喉元を狙う扇の先端を瞳に映しながら、美神は奥歯を食い縛った。
 先に払い落とされた鞭では、間に合わない。

 だが、その扇は慄然と硬直する美神の喉を貫く事なく、再び翻って離れた。


『む。…――無粋な男め…!』
「何とでも言いたまえ!この西条輝彦の眼が黒い内は、令子ちゃんに指一本させるとは思わないでもらおうか!」


 弾倉と薬室に残った弾丸を連続で叩きつけつつ、西条が美神の斜め後方から飛び込んで来た。

 撃ち尽くした拳銃を素早く霊剣に持ち替え、斬りかかる。
 今度は西洋剣術の、手首と肘の反しを多用した高速の斬突が青年を見舞う。

 西条の霊剣《ジャスティス》は、細身の長剣―――《レイピア》であり、その扱いは一般に最も良く目にする《フルーレ》に近い。
 より重量のある《サーベル》や《ソード》、突きに特化した《エストック》などに比べると、手数の多さと多彩な変化とが身上だ。
 その太刀行きは和剣術の《小太刀》や小具足術により近く、かつ間合いはそれらよりも若干広め。

 一撃の威力と速度なら、横島やシロのような遠間からの突き込みや、充分に勢いを乗せた美神の神通鞭の方が上だろう。
 だが一撃必倒を慮外に置いて、手堅い当たりと手数とを優先した場合には、西条の剣技に軍配が上がる。


『……ッ!、これは…小賢しい…!!』


 おそらく初めて目にするだろう西洋剣術の、威力よりも回転速度を重視した、しかし充分に霊力の乗った霊剣の鋭利な剣閃の嵐。
 これには堪らぬ様子で、さしもの『稲荷神』の青年も後退を余儀なくされた。

 再び5mほど飛び退り、西条の間合いから逃れた青年には、だが息つく暇も与えられない。


『―――…!、何と!…大したものよ』
「〜〜〜ッ、ナメるなっ!!」


 狩衣の喉元目掛けて霊波の刀身を突き込んだのは、おキヌに抱えられてへたり込んでいた筈のシロだった。
 スウェーするように軽く仰け反って半歩退いた青年の眼が、感歎に瞠られる。

 この強烈な臭気の中、嗅覚に優れた犬神が何の支障もなく立ち回れる筈がない。
 他人事のように驚いてみせる『稲荷神』とて、実はすでに嗅覚がバカになっていて、大層不便しているのだ。
 膂力や反応速度に優れる『獣人』の姿からあえて人型に変じたのは、それが最も五感の内の嗅覚に依存しない形態だからである。

 そんな状況で、冷や汗にまみれながら、それでも猛烈な突進を見せる少女の気迫は、確かに手放しで賞賛されるに値した。

 一方、賞賛を向けられたシロの方は、踏み込んだ足を踏ん張って伸びきった上体を強引に引き戻し、横様に霊波刀を振るう。
 必倒とは言い難い牽制の斬撃、その腰の捻りをも利用して体勢を入れ替え、片眼青眼に構え直した。
 常人の眼には残像も残さない一瞬の攻防で、逃れ行く青年の頭を抑え込む。

 この戦闘レベルでの並外れたセンスが、人狼である彼女の天性の狩猟者としての本分だ。
 だが、その顔はいまだ青ざめて汗にまみれ、太刀筋もまた本来の鋭利さにはほど遠い。


「この…ッ!!」

『―――その気概、実に見事…!』
「「「「……ッ!?」」」」


 追いついてきた美神の神通鞭が、風切る音を響かせて打ち下ろされる。
 その一撃を、青年は無造作に、その場の誰もが思いも寄らなかった方向へとかわした。

 真っ直ぐ、霊波刀を構えたシロに向かって踏み込んだのだ。

 咄嗟に反応したシロが突き上げた霊波刀に胸板をえぐらせ、肩口を貫かれながら。
 滴り落ちる血を伝わらせた手で少女の細い手首を捉え、無事な方の片腕でその腰を抱き寄せる。


『気に入ったぞ、娘。我と共に参れ』
「うぷッ!?く、臭ッ…!放せ…ぅおぇっ…!!」


 抱き寄せられた方は堪ったものではない。

 顔に押しつけられた胸板から発散する、生ゴミを下水に浸して熟成させたようなニオイに、霊波刀の維持すらできなくなる。
 自分が何を言われたのか判断する余裕もなくしたシロは、ぅえっ、おぇっ、とえづきながら、無意味にじたばたと暴れた。


「―――あ、アンタ、ロリコンだったのッ!?」


 不潔ッ!、と美神が叫ぶ。

 普段はこういうのは横島の役回りなのだが、不在の場合は彼女自ら代行するらしい。
 ―――誰がツッコむのか、と言う辺りについては考えてもいないようだ。

 残念ながら、言われた『稲荷神』の方は『ロリコン』という単語を知らないらしく、碌なリアクションも返さない。


「……。み、美神さん、今はそーゆー事言ってる場合じゃ…」
「そ、そうね!――…横島クンの次はシロって訳!?ジョーダンじゃないわよッ!
 ウチのスタッフはアンタのオモチャじゃないんだからねッ!!」


 どうにもノリの宜しくない『稲荷神』に代わって、おキヌがおずおずとツッコミ役を買って出た。
 ボケをスカされた美神も、そのツッコミのおかげで何とか我に返って仕切り直す。
 スベった照れ隠しも含めて、額に四つ角を立てた美神の神通鞭が心持ち強めに路面を叩き、青年を威嚇する。

 だが、ようやく返された青年の反応は、いたく無感動なものに変じていた。


『―――何だ、まだおったのか。もう良い、下がれ。うぬらに用などない』
「ぬな…ッ!?」


 かちん、っときた美神が激発するより早く。
 青年の血にまみれた腕が適当に―――だが、膨大な霊力を乗せて振るわれる。


「……ッ!」
「何っ!?」
「―――しまっ…!!」


 ドッ、と溢れる妖気に全身を打ち据えられ、防御する暇もなく。
 美神たちの視界が、暗転した。



***



 遠くから、お囃子の音が聞こえる。
 今時ちょっと珍しい、黒い煤をもうもうと立ち上らせるアセチレンの赤茶けた灯火。
 わた飴やりんご飴、射的に金魚掬いにひよこ釣り、雑多な夜店が立ち並ぶ石畳。

 細かな波をかたどった紬の裾を、子供のはしゃいだ笑い声に軽く翻されて、美神は眼をしばたかせた。


「…――?」


 何故、自分はこんな所にいるのだろう?
 そもそも、今日はドコの、何のお祭りだったっけ?

 彼女にしてはやや地味な印象の、しかし実はかなり豪華な浴衣の胸元で、左手の団扇を半ば無意識に扇ぎつつ、小首を傾げる。

 何かが間違っている、そんな違和感に眉根を寄せて見回した視線は、すぐ脇の露天の軒先に止まった。


「―――いーか?射的のてっぽーってのはな、タマ込めがいっちゃん重要なんだ…」


 井桁かすりの浴衣を適当に着崩した横島が、見ず知らずの子供相手に熱弁を振るっている。
 せっかくの浴衣にも構わず、いつも通り赤いバンダナを額に巻いて、大袈裟な身振り手振りで射的のコツを教授していた。

 相変わらず、モノノケと子供にはモテる男だ。


「スッゲー!」
「おにーちゃん、ありがとー!!」


 口々に賞賛やら感謝やら騒ぎ立てる子供たちに、笑って手を振ってやった横島が、美神へと振り返る。
 へらっ、とこれまたいつも通り締まりのない笑顔を浮かべて寄ってくる横島に、美神も少し微笑んで見せた。

 ―――せっかく着飾ってるんだもの、少しくらいはね。

 もっとも、目の前のこのおバカには、着物の善し悪しどころか、《織り》と《染め》の違いも判らないのだろうけれど。
 と、わざわざ口に出すまでもない些細な不満を抱いた美神は、いつの間にか先ほどの違和感を忘れている。


「美神さん。…――これ」
「…?」


 そう言って、少し遠慮がちに手を差し出す。
 指先で、小さな珠が夜店の軒先を彩る提灯の明かりを弾いて煌めいている。


「…かんざし?―――今時、珍しいわね?」
「ええ。…――そんでコレ、ちょっと良いなーって思って…その、まあ、所詮は夜店の景品なんスけど…」

「―――え?私に…?」


 横島の言うとおり、セルロイド製らしい安っぽい筈のかんざしは、夜店の灯りの中では結構美しく、照り映えて見えた。

 状況から言って、最初から横島が美神に渡すつもりでそれを差し出した事くらい、分かりそうなものだが。
 何せ普段のおちゃらけた横島を見慣れている分、そういった行動をとるとは美神の想定外だったのだ。

 ちょっと意表を突かれてドギマギしながら、後ろを向いて結い上げた髪を差し出す。


「じゃ、着けて?」
「ぇ、あ…ハイ」


 背後で何やらわたわたっ、と無意味に慌てているらしい横島の気配を感じながら、軽く顔を俯けてじっと待つ。
 今までは気にもしていなかった、うなじに少しかかった後れ毛が、横島の手の動きに揺れてくすぐったい。

 ―――もう、バカッ!あんたが変に意識するから、こっちまで余計に恥ずかしいじゃない!

 などと、ちょっと八つ当たり気味な事を心の中だけで呟いてみる。
 今、自分はどんな顔をしているのだろう。
 きっと、お子様みたいに真っ赤になっているに違いない、なんて。

 想像するだに羞じらわしい事を考えてしまった美神は、まともに視線を上げられなくなった。


「―――ぁ、終わりました、よ」
「…どう?似合う?」

「う〜ん…やっぱちょっと、安っぽすぎるかなー…?」


 振り向くに振り向けず、背中を向けたまま尋ねた美神に、横島のちょっと上擦った答えが返される。

 つくづく雰囲気の読めない男の、いつも通り朴念仁丸出しな返事に何故か少しほっとしながら、美神は肘鉄を叩き込んだ。
 その実、九割方は自覚的な八つ当たりだったりするのだが。


「―――バカねッ!こーゆー時はてきとーに『似合う』って言っときゃ良いのよッ!!」
「げほ…、んーな事言って、ホメたらホメたで何かしら怒るクセに…」


 並みの男なら間違いなく悶絶する美神の肘鉄を、まともに鳩尾に喰らいながら、軽く咳き込んだだけで美神の横に並ぶ。
 尋常ならざる打たれ強さを遺憾なく発揮した横島の横顔を見上げて、美神はちょっと慌てて話題を振った。


「それにしても、あんた相変わらず子供にはモテるわよねー」
「――…子供に『は』って何スか、『は』って!」

「何って、そのままの意味よ」


 ううっ、どーせどーせ、オレなんてっ、とイジける横島に苦笑する。

 横島は別にモテない訳ではない、というか実は結構モテる部類に入るだろう。
 外見的にも、顔立ちは決して悪くはないし、背もそこそこ高く、まあ無難な見映えの持ち主だ。
 イマイチだらしない表情と、おちゃらけた言動とが、素材をこの上なく見事に台無しにしている面は多分にあるが。

 実際、彼に気のある(と、思われる)女性は決して少なくないし、その事は当人も理解している、筈だ。
 ただ、この男、一人一人個別に接している間はきちんと向けられた感情にも気付けるのに、それを巧く総括できないらしい。

 まあ、元々があまり物事を深く考えず、その場のノリに任せて状況に流されるタチである。
 俯瞰して物事を捉える、などというのは元来不得手な方だし、仕方ないのかも知れない。
 第一、その辺を自覚されては、美神の方が堪らない。

 ―――コイツの長所は、このニブさだもんね…。

 そんな事を考える美神は、恋愛に関してはちょっと臆病な方だろう。
 何のかのと言いつつその臆病さを許容できる、という意味では、彼のニブさも甲斐性の一つ、と言って良いのだろうか?


「―――まあけど、子供好き、ってのはありますよ。向こうもそれが判るんじゃないッスか?」
「…その一点だけでも、あんたを尊敬できる気がするわ…。私、子供って全ッ然、ダメ」


 時間を超えて預けられた幼い日の自身をすら、思わず蹴り倒したくなった経験を持つ美神は、うぇっ、と舌を出して見せた。
 ひのめぐらいの乳児ならともかく、こまっしゃくれた事を言い出す幼稚園から小学校にかけての子供は、彼女にとって鬼門だ。

 その事を熟知している横島には、だがやはり異論があるようだった。


「でも、可愛いじゃないッスか。――…オレ、将来的には三人ぐらい欲しいなー、っとか思ってますけど…」


 やっぱり今どき珍しい、紙張りらしい狐のお面を後ろ前にかぶった子供たちが走り抜けて行くのを見送って、横島が呟いた。

 お世辞にも清廉とは言い難い、むしろ煩悩まみれな日常からは判りにくいが、横島はこれで結構、面倒見の良いタチだ。
 それに、いっそ甘い、と評した方が良いぐらいに優しい気質でもある。

 彼はきっと、良いお父さんになるのだろう。

 普段の彼しか知らない者が見たらちょっと驚くかも知れない、横島の酷く優しげな眼差しを見上げて、美神は何とは無しに囁いた。


「冗談でしょ、私はヤーよ。――…どんなに頑張っても一人が限界。三人なんて、ヤメてよね」

「―――…ぇ…?、あ、あの…美神さん…?」
「―――…あ゛」


 戸惑ったような横島の声に、自分が今何を口走ったのかに気付いて、美神の顔が真っ赤に染まる。

 ここで、以前の横島なら煩悩丸出しで飛びついてきたりして、ぐだぐだのギャグに落としてくれたのだろうけれど。
 最近の彼は、どうも妙なタイミングで煩悩をどこかに置き忘れてくる事が多い。

 元来おちゃらけたキャラをウリにする彼は、実はその分、真剣なシチュエーションに免疫がないのだ。

 つまり、今、目の前で真っ赤になって固まっている彼は、それだけ自分の事を真剣に考えてくれている、という事で。
 その事が嬉しいような、こそばゆいような、はずかしいような。

 何が何やら、頭の中がぐちゃぐちゃにひっくり返った状態のまま、黙りこくった二人の瞳が、お互いに覗き合う。


「―――…ぁ…」


 自分だけを映し込む瞳を見上げて、美神はそっと両掌を差し伸べ、少し火照った横島の頬を包み込んだ―――。



***



「すべてッ!忘れてしまええー!!」
「―――ぐぉわッ!!?」


 ドゴッ!!

 美神の絶叫とともに、鈍い音が辺りに響き渡る。
 哀れな犠牲者の身体が垂直に崩れ落ち、あちこち砕け、ひび割れたコンクリートタイルの上に膝を突く。


「私は何も言ってないし、あんたは何も聞いてないッ!いーわね、横島クンっ!!…――ハッ!?」


 立て続けに半狂乱で捲し立ててから、美神は頭突きをかました額の痛みで我に返った。

 彼女の両手の中でぐーるぐーると目を回しているのは、横島ではなくて西条。
 周囲を見回せば、そこは最前『稲荷神』とやりあったお堀端の歩道だった。
 ―――どうやら、妖狐の幻術にまんまと嵌められていたらしい。

 少し離れた場所では、やはり幻術にかかっているらしいおキヌが、ぽやや〜ん、っとトロけそうな表情を見せている。


「―――…ぁ、横島、さん…」
「……」

「…ぅおッ…!?れ、令子ちゃん…コンクリートの上は、コンクリートの上は…ッ!!」


 胸の前で両手を組み合わせたおキヌの、どこか艶めいた声色の寝言が、何となく面白くない。
 ぽい、っと両手で爪を立てて鷲掴んでいた西条の頭を放り出し、美神はおキヌに駆け寄った。

 背後で何やら、切なげな泣き声が聞こえたような気もするが、取り敢えず聞かなかった事にする。


「おキヌちゃんッ、おキヌちゃんッ!?しっかりしなさいッ!!」
「―――ッ!?、ぁうっ、ぁうっ、ぁううっ!?」


 パンッ、パンッ、スッパァン!!

 幻術に取り込まれ切っているおキヌを目覚めさせるため、美神は心を鬼にして往復ビンタを炸裂させた。
 ちょっと力が入りすぎているような気もするが、あくまでおキヌを目覚めさせるためだ。

 間違っても、おキヌの寝言が何だか気に入らなかったとか、そんな理由ではない、筈だ。―――多分。


「ぅっ…、み、美神さん…?、一体ナニが…」
「気が付いた?、してやられたわ。三人揃って、アイツの幻術にまんまと嵌められた…!」

「―――…いえ、何だかその後、もの凄い『ばいおれんす』で『すりらー』な目にあったよーな気が…」
「……。気のせいよッ!!」


 真っ赤に腫れ上がった頬を抑えたおキヌのジト目から目を逸らしつつ、力一杯言い切ってみる。
 残念ながら、あまり効果はなかったようだが。


「それよりッ!――…シロがいないわ!きっとアイツに連れてかれたのよ!」
「あっ…!、大変!…追いかけなきゃ…!!」

「ええ!行くわよ!!」


 改めて状況を把握し直して頷き合うと、美神のポルシェに急いで飛び乗る。

 おキヌが膝に抱え上げたラップトップの液晶には、《ウルトラ見鬼くん・改》が検知した霊体の位置が、光点として表示されている。
 その表示の中で、一際大きい光点が一つ、現在地である中心から遠ざかって行っていた。
 ―――ここから5kmと離れてはいない。

 まだ、充分追いつける。

 そう判断した美神は、クラッチを踏み込むのと同時にキーを捻り、ギヤを叩き込む。
 普段の整備が良いおかげで一発で目覚めたエンジンが、踏みつけたアクセルに呼応して独特の叩きつけるような咆吼を轟かせた。


「行くわよッ!しっかり掴まってなさい!!」
「ハイッ!」

「令子ちゃん待ってくれ、僕も―――!!」


 ドキャァアッ!!

 幅の広いスポーツタイヤに耳障りな悲鳴を上げさせてスピンターンしたポルシェの後部に、霊剣を提げた西条も飛び乗ってくる。
 西条がしっかり車内に収まったかも確認せず、素早くクラッチを繋ぎ直された黄色いカレラは、ロケットのようにダッシュした。


「――…この美神令子をココまでコケにして、タダで済むとは思わない事ね…!覚悟しときなさいよ…ッ!!」

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