ザ・グレート・展開予測ショー

キリング・ビー・ソフトリー -Killing Bee Softly-


投稿者名:赤蛇
投稿日時:(05/ 1/10)

年代物のエレベーターがゆるゆると昇っていく間ですら、気が遠くなるほどに待ち遠しかった。
ベスパと横島は黙ったまま、凝った装飾を施した針が13階へと近づいていくのを眺めていた。
橋からここまでの間に二人が口を開いたのは、タクシーに泊まっているホテルの名を告げた時と、フロントにルームナンバーを告げた時だけ。
他に誰も居ない密室の中で聞こえる音と言えば、頼りない低音を鳴らすエレベーターと、二人の密かに荒い息遣いだけだった。

チン、と古めかしい音を鳴らしてエレベーターの二重扉が開き、二人は先を急ぐように並んで降りた。
敷き詰められた厚い深紅の絨毯は足音を隠し、人気のない廊下は死者を祀る霊廟のごとく静まり返っている。
等間隔に並んだ灯りはオレンジ色の濃淡を成し、あたかもかがり火を焚いたカタコンベのように見えた。
立ち並ぶドアの数字を横目で確かめながら、ベッドと言う名の死刑台のある部屋へと近づいていった。



ベスパが興ざめなほどに新しい鍵を開けている様を、横島はじっと見つめていた。
やがて、微かな音を立ててドアが開き、ベスパは振り向きもせずに部屋の中に入る。
少し遅れて、気の無い様子のまま横島もまた後へと続き、押し開いたドアの向こうへと足を踏み入れた。

明かりもつけぬ暗い部屋の中へ入ったとたん、横島は身を躍らせて背中を見せるベスパへと飛び掛り、彼女の首筋へキスをする。
そのとたん、ベスパは恍惚の表情を浮かべ、力を失って横島の腕の中に崩れ落ちた。
かつての恋人の時とは別人のように乱暴にあしらって振り向かせ、目を閉じるベスパに挑みかかって唇を交わす。
猛り狂う獣のように激しく絡み合い、唾液に満ちた舌を滑らせ、互いの口の中を思うさまに蹂躙する。
甘美に誘う捻り込まれたベスパの舌が横島の奥歯をなぞり、横島はそれを軽く噛んだ。
息をするのも惜しいほどに、ただひたすら求め続けた。

初夏の頃だというのに、漏れる吐息が白く煙るかに思えた。
月明かりが差し込むだけの闇の中を、ベスパは目を閉じたまま後ろ手を伸ばし、鍵を掛けた。



ゴシック調のダブルベッドが今夜の主を迎えた頃には、すでに真夜中は過ぎて日付が変わっていた。
脱ぎ散らかされた服が床に点々と散らばる有様を見れば、二人にはここへ辿り着く余裕すら無かったことが推し量れた。

愛と美の女神イシュタルの祝福を受け、情欲のままに貪りあった男女は、片時も離れずに静かに佇んでいた。
あとどれくらいの時間があるのかはわからないが、この夜を、この瞬間を無駄にはしたくなかった。
ルビコン川を渡ってしまった二人には、もはや後戻りなど出来はしないのだから。

「なあ、ヨコシマ」

赤く火照った顔を上げて、ベスパが尋ねた。

「これまでで一番幸せだったのはいつ?」

「今だ」

「これまでで一番不幸せだったのはいつ?」

横島はほんの短い間ベスパの目を見つめ、答えた。

「今さ」

そして、またキスを交わした。



ベスパは横島の背中をゆっくりと撫でた。
広く逞しい背中に残る傷跡は、全て彼女がつけたものだった。

南極のとき、彼を殺すために自分が放った銃弾がかすめてつけた傷。
今は無き姉をかばい、自分の妖毒を受けてつけた傷。
そして今、抱かれたときに夢中でつけてしまった傷。

二人の歴史を物語る傷の全てが愛しく、そして悲しかった。

「ヨコシマ」

また、ベスパが問い掛ける。

「ごめんな」

「何が」

「私はお前を傷つけてばっかりだ。いつもいつもお前に大きな傷をつけてしまう。そして、また―――」

心に傷をつけてしまった、そう言いかけた唇がふさがれた。

「―――大丈夫だ」

「でも―――」

「あいつの時も大丈夫だった。今度もきっと忘れられる」

横島はベスパの目を見据え、寂しそうに笑った。
その笑顔は、柔らかな愚者のものだった。

「嘘つき」

「嘘なもんか。人間は忘れることが出来るのさ」

「やっぱり嘘だ。お前はずっと忘れやしないのに、私をかばってそんなことを言っている。お前は優しすぎるんだよ」

「俺は優しくなんかない」

僅かに声を荒げたのを聞いて、ベスパの肩がびくっ、と震えた。
横島はその肩を抱き寄せ、耳元に口を寄せて呟いた。

「優しくなんか、なかったさ」

それは自分に向かって言ったのか、それとも他の誰かへの言葉なのか、ベスパにはわからなかった。



もうまもなく夜が明ける。
未だベスパの身体に変調をきたす兆しは見えないが、いつまでもこうしているわけにはいかなかった。
抱かれているままに目の前で灰と化して滅びるなど、想像するだけでも恐ろしかった。
ベスパは抱き合っていた身体をゆっくりと離して囁いた。

「もう、行くよ」

「―――あ、ああ」

ベスパは知る由もなかったが、それは横島にとってあまりにも残酷な別れの言葉だった。
奇しくも、かつて愛した女が残した呼びかけと同じだったから。
だが、横島はあのときとは違い、今はベスパの気持ちが痛いほどわかっていた。それゆえ、涙は見せなかった。
ベスパが生きのびるにせよ、死ぬにせよ、この恋は今日一日で終わる定めなのだ。

「ベスパ」

「うん」

「また会おうな」

ほんの一瞬だけ互いの目を見つめ合い、やがて二人は目を閉じた。
幾度目かの、そして最後となるキスを交わした。
ベスパの指が首筋に触れてもなお、意識が途絶える瞬間までずっとそうしていた。



暖かな日の光を顔に受けて目が覚めると、ホテルの部屋に残るのはやはり自分一人だけだった。
身を起こして横島は辺りをざっと見渡すが、脱ぎ捨てられていた服はおろか、彼女がいた形跡を示すものは何も無かった。
わかっていたとはいえ、次第に膨らんでくる寂しさを押さえていると、サイドテーブルにあるものが目に入った。
それは、ベスパが持っていたシガレット・ケースだった。

残り少なくなっていた中身を一本取り出し、見よう見まねで火を点けてみる。
カラフルで細い外見とは裏腹に、かなりきつい苦味が口の中に残る彼女の味を押し流していく。
横島は火の点いたタバコをそっと脇の灰皿に戻し、煙が立ち昇っていく様をじっと眺めていた。
小さな炎がじわじわと燃え進み、後には白い灰だけが残されていく。
やがて燃え尽きたタバコは、ぽとり、と皿の中へ落ち、薄紫の煙が途絶えた。

ついに横島は堪えきれなくなって泣いた。
嗚咽を漏らし、顔を伏してただひたすらに泣いた。

ベッドの上で咽び泣く男の様子を、どこからか入ってきたのか、大きな蜂が羽を震わせて静かに見守っていた。

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