ザ・グレート・展開予測ショー

逢魔の休日 -No Man Holiday- <Scene 16>


投稿者名:赤蛇
投稿日時:(05/ 1/ 5)

魂が抜けたように佇む横島も泣き続けるベスパも共に、システィーナ礼拝堂の扉が静かに開かれたことにすぐには気が付かなかった。
真紅の法衣と帽子を纏った男が入ってきたのを見て、ベスパはまだパンドラの箱の底に残っているものがあると思った。

一方、横島は戸惑っていた。
一段高い壇上に立っているのは、あまり思い出したくもない顛末となった依頼をしてきた人物、ヴァチカンの枢機卿に他ならなかった。
カトリックにあまり係わりのない横島でも、枢機卿がローマ法王に次ぐものだということはわかっていた。
今も結界の外で倒れている神学生ならいざ知らず、これほどの高位な地位にいる人物が来た以上、最早ここから逃げる術は絶たれたも同然だった。
ベスパの心情を知ってもなお、横島は彼女を死なすつもりなどなかった。

枢機卿はホールの様子を眺めた。何が起きたかは聞くまでもない。
傍に立つ衛兵に二言三言話し、倒れている神学生を救護室へと運ぶように指示を出す。
ただ気を失っているだけであろうし、おそらく怪我もしていまい。だが、この場に同席させるわけにはいかないのだ。

困ったときの彼の癖で、眼鏡を中指で軽く押しながら伝えるべき言葉を反復する。
忌むべき魔族と、それを助ける人間がいるのならば、ヴァチカンがなすべきことは一つ。何も迷うことはない。
しかし、今は自分の信ずる主の御心に従わねばならない。汝らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈るのだ。

「悪魔の女よ」

そう呼ばれたベスパは、ごく僅かだか身を硬くして身構える。
だが、争う素振りなど微塵も見せず、殊勝として受け入れる覚悟だった。
双方共に認めがたいことではあるが、敬虔な信徒にも似た姿だった。

「神の御名において命ずる。ここより立ち去りなさい」

「―――――!」

老練な枢機卿の口から発せられた予期せぬ意外な言葉に、ベスパは絶句する。
ヴァチカンが神の名のもとに魔族を見逃すことなどありえようか。否、断じて否である。

「な、何をバカなことを言っているんだ!! 私は憎むべき魔族で、世界を滅ぼそうと―――――」

ベスパは慌てて自分の罪状を述べる。
端から見ればある意味滑稽な情景ではあるが、それを笑うものは一人もいない。

「おやめなさい」

片手を上げて枢機卿がベスパを制し、穏やかな声で諭すように言った。

「主は彼を許したもうた」

一拍置いてから、さらに言葉を繋いだ。

「そして悪魔の女よ、彼は汝の父である」

それだけだった。
それで充分だった。



その言葉が染み渡るのに、さほど時間は掛からなかった。
アシュタロスは許された、と枢機卿は言った。
ならば彼らがベスパを滅ぼすことは出来ない。主が許したものを罰するわけにはいかないからである。
ベスパは自分の希望が潰えたことを悟った。

でも、それでいいと思った。
結局のところ、ただの道具が自我を持っているかのような振りをしていただけなのだ。
他でもない、愛してやまないアシュタロスが許されるのならば、どうしてそれを拒むことが出来ようか。
是非も無し。
ほんの僅かな間に、すばやくそう結論付けた。

この時になって初めて、ベスパは枢機卿の背後にある壁画の存在に気が付いた。
晩年のミケランジェロが教皇クレメンス七世に依頼されて描き上げた、見るもの全てを戦慄させるような終末の日の光景。
ダヴィデ王の予言した世界の終焉の日に、光り輝く中央に再臨した裁断者キリストによって罪深き人類は己の罪を裁かれる。
全ての死者は甦り、右側に立つ善良なる羊は神の国へと昇華し、左側へと立つ愚かなる山羊は地獄へと落とされる。
呪われた者は地獄の王ミノスの元へと送られ、激しい炎に投じられる。
その『最後の審判』が、今まさにベスパ自身に下されたのである。



ベスパは吸い込まれるようにしてしばらくの間壁画を見つめ続けていたが、やがて目線を戻して言った。
そこにはもう泣き続ける弱い女はいなかった。
不適に笑う魔族の姿があった。

「わかったよ。なら、長居は無用だね?」

「さよう」

「それじゃ、帰るとしようか」

戻る当ても無い場所へ。

「こいつも連れて行っていいんだろ?」

答えを聞く前から、まだ呆けている横島を抱き起こして立たせた。返事は聞かずともわかっていた。
糸が切れたように力の無い横島の肩を抱いて、ゆっくりと扉の方へと歩いて行く。
その歩みを枢機卿は仔細漏らさずに見つめていた。

「あ、そうだ」

ふと、ベスパが何かを思い出したように足を止め、慌てて振り向いて言った。

「私がスクーターを借りたあのボウヤな、あの子にあやまっといてほしいんだけど」

何のことかと思えば、と枢機卿は口元を微かに歪めて笑った。

「悪魔に奪われたものを取り戻して返すのが我らの役目。その件はもう済んでいるよ」

「ふん、悪かったね」

ベスパもにやり、と笑って返す。
だが、これで心残りは全て晴れた。

「Addio」(さようなら)

そう言い残してベスパは去っていった。
二度と振り向くことなく、静かに開かれた扉から出て行った。

枢機卿はまた、眼鏡を軽く押しながらベスパの最後の言葉を反芻する。
Addio、すなわち、Ad Dio = 「神の御許で」というその言葉の皮肉に、胸の前で十字を切りたい衝動を必死になって押さえねばならなかった。

いつもながら悪魔と対峙するのは疲れる、と傍らに立つ衛兵に聞こえぬようにそっとため息をついた。
悪逆非道な魔を封印する時もそうだが、今日はそれにも増して我が身に堪えた。
この年になって僅かでも神への信頼が揺らぐなど、あってはならぬ耐えがたい苦痛なのだから。

今までの コメント:
[ 戻る ]
管理運営:GTY+管理人
Original GTY System Copyright(c)T.Fukazawa