ザ・グレート・展開予測ショー

逢魔の休日 -No Man Holiday- <Scene 12>


投稿者名:赤蛇
投稿日時:(04/ 9/26)

フィレンツェの彫刻家であったミケランジェロ・ブオナロッティは、時の教皇ユリウス二世に召喚され、新たに完成したシスティーナ礼拝堂に天井画を描くよう命ぜられた。
当初、ミケランジェロはフラスコ画の経験がないことを理由に固辞していたが、ユリウス二世の執拗な説得についに折れ、1508年に制作を開始することとなった。
始めのうちは幾人かの助手と共に分担して描き始めたが、その仕上がりに満足せず、ついには彼一人で礼拝堂に籠もって描き続けることとなった。
完成までのおよそ四年もの間、何人たりとも見せることをせず、まるで何かに取り憑かれたかのように描き続けたという。
そうして出来上がったものが、ルネッサンス芸術の最高傑作と呼ばれる『ミケランジェロの天井画』なのである。

「あ・・・、ああ・・・」

天井を見上げて、横島は声にならない声を上げる。
神族が身近にいるというのにもかかわらず、さほど信心深くない彼ではあったが、それでもこの頭上に拡がる絵画の圧倒的な存在感に、どこか心動かされるものを覚えた。
近年、長い時間をかけて修復が施され、五百年の時が経っているとは思えないほどに色鮮やかな絵は力強く、立体的に見えた。
天頂部には長方形に区切られて描かれた絵が整然と並び、その周囲を様々な人物が、まるで彫刻が飾られているかのような陰影を持って配されている。
とても一人の人物が描いたものとは信じられない光景に、横島はしばしの間見入っていた。

視線を落として辺りを見ると、皆々食い入るようにしてじっと眺め、先程ベスパとなにやら話していた老婦人は十字を切って何ごとかをしきりに唱えている。
よもやベスパも、と思って辺りを見渡すが、さすがにそこまではしていなかったので妙に安心してしまった。

「おおい、ベスパ―――――」

ホールの中ほどで上を見上げたまま微動だにしないベスパを見つけ、邪魔にならない程度の小声で声を掛けながら近寄ろうとするが、思わずその足を止めてしまった。
ベスパは涙を溢れさせ、声も上げずに唯々泣いていた。

今、ベスパの頭上に拡がるのは、ミケランジェロが描いた旧約聖書の世界。
造物主はまず始めに「光と闇を分離」し、「日と月を創造」し、「海と陸を分かち」、世界を作った。
そして中央に位置するものこそが「アダムの創造」であり、今まさに主が指先からアダムへ魂を吹き込む瞬間が描かれている。
後にアダムとイヴは蛇に唆されて禁断の実を口にし、「楽園追放」を経て「ノア」へと続いていく物語。

そこに描かれているものはベスパが、そして彼女の主たるアシュタロスが憎悪し、忌み嫌ってきた神の世界であった。
だが、それと同時にそこにあるものは、アシュタロスが切望してやまなかった「天地創造」に他ならない。
自らの手で新たなる生命を作り上げ、育て、守護することを望みながらも、けして得られなかった幸福。
それがために、かつて『宇宙のタマゴ』の中に、本来は異種族たるべき人間を模したアダムとイヴの世界さえも作り上げていた。
破壊と殺戮の化身として存在しながらも、創造と慈愛の神として在りたかったアシュタロスの望みが、けして届かぬ世界として頭上に拡がっているのである。
ベスパは歓喜と憎悪、そして恐怖にも似た快感に魂を揺さぶられ、恍惚とした表情で涙を流し、時の経つのも忘れて立ち尽くしていた。



どれほどの時間が経ったのであろうか、あれほどいた観光客は一人、また一人と促されて部屋を後にし、いつしか二人はぽつんとホールの真ん中に取り残されるような形になっていた。
いつのまにか四方の扉は全て閉ざされ、外の喧騒が嘘のように冷ややかな静寂が辺りを支配していた。
とうに事の事態に気づいていた横島がしきりにベスパを呼び、体を揺さぶるが、ベスパはなおも上を見つめたまま動かなかった。

「おい、ベスパ! 頼むよ! 本当に逃げなきゃやばいって!!」

横島が幾度となく懇願するように促すが、それでもベスパは動こうとしない。
しまいには、今にも泣き出しそうな情けない顔になってはいるが、一人では逃げ出そうとしない辺りが、彼なりの男らしさでもあった。

「もう、それぐらいでいいかな?」

かちりと開くドアの音と共に、見知らぬ男が現れた。
黒っぽい神学生の服を着たその男は、横島とたいして変わらぬほどに若く見えたが、無論ただの神学生であろうはずもない。
その力量はまだわからないが、さっきまで彼らを追い掛け回していた連中とはわけが違うことだけは確かだった。

「・・・ああ、待たせて悪かったね」

ベスパはようやくに天井から目を離し、ゆっくりと相手の方へ向いて言った。
その口調はあくまでも穏やかであり、まるで旧知の友人とでも話しているかのような口ぶりだった。
男もまた、落ち着いた口調で話しながら、焦るでもなく近寄ってくる。
人気のない広い石造りの空間に、男の鳴らすこつこつという足音だけが響いている。

「君が気にすることはないよ。これが僕の仕事なんだからさ」

「―――――」

「ただ、あんまり遅くなるとマンマがうるさいからね」

まったくかなわないよ、というように軽くかぶりを振るその仕草は、本当にまだ年端も行かぬ少年のもののように思えた。
その様子をベスパは冷ややかで、そして柔らかい表情で見つめ、言った。

「母親ってのは、そういうものさ。いつでも子供のことが心配で心配で仕方がないのさ」

「いくつになっても?」

「いくつになっても」

ベスパは確信を込めてうなずいた。
無論、道具として作られたベスパに母親のあろうはずがない。
それでも直感的に、母親であればそう思うだろう、ということが理解できた。
あるいは土偶羅などは、それは種族を残すために生物が持つ本能的な欲求にすぎない、と断ずるかもしれない。
しかし、今のベスパにとっては細かな理屈などどうでもよく、感じたことが真実であった。

男は黙ったまま見返していたが、やがて軽く息を吐いて言った。

「君の言うとおりかも知れないな」

「早く済ませてマンマを安心させてあげな。あたしも長く待たされるのはつらいんでね」

「ああ、そうするとしようか」

そう言って男は片手に持った聖書のようなものを開いた。

「僕としても、寿命が尽きかけている君を殺さなければいけないのは、なんともやりきれないんだけどね」

そう言って男は残念そうな顔をする。だが、それもほんのつかの間だった。

「でも、神に背く悪魔を許しておくわけにはいかない」

男は厳しい表情を見せて、きっぱりと言った。
悪魔に平穏な死などあろうはずがない、そう固く信じている顔だった。

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