ザ・グレート・展開予測ショー

壬生浪狼伝 四


投稿者名:赤蛇
投稿日時:(04/ 4/11)

くすみがかった丹朱色の仁王門からゆるゆると降り、来迎院の角を曲がったところが産寧坂である。
俗に三年坂とも言い、ここで転ぶと三年以内に不幸が来るというので、雪の残る石段を清水寺の参詣者は恐る恐る踏み締めて行く。
脇を子供達が、飛び跳ねるようにして駆け下りて行った。
その坂の中ほどから些と外れたところに、豆腐処「氷室」はある。
店はまだ若く、こじんまりとしていたが、なかなか好い物を出すと評判になっていた。
京仕込みの洗練さの中にも、どこか田舎らしい素朴さが隠れ、各所より上京する者の間でも贔屓にされている。
新政府切っての豆腐好きと言われた大村益次郎も、京都在住の折には足繁く通ったと言われるが、それはまた後の話である。
「ごめん」
山南は、目にも鮮やかな藍染の暖簾をくぐり、中に入った。
時分どきにはまだ早いため、細長い店内には客はいない。
「おはようございます、山南さま」
支度をしていた若女将が会釈をする。女将は東国の出のため、京言葉ではない。
「犬塚君は居られますか」
山南は犬塚を「君」と呼んだ。
敬意を表して「どの」と呼んでいたのだが、ほかならぬ犬塚が、落ち着かぬのでやめてほしい、と懇願したのだった。
ならば私の事も、と山南は言うのだが、これはもう癖のようなものでござるゆえ、と改めることはなかった。
「犬塚さまはまだ上に居られます。お呼び致しますので、しばらくお待ちくださりませ」
そう言って女将は山南に茶を薦め、静かに階段を上がっていった。
光縁寺の一件以来、とある縁で犬塚はこの家に寄宿していた。その縁は詳しくは知らぬ。
ここの女将はまだ年若いが、苦労人で口も堅く、意外なほどに肝が据わっていた。
犬塚のことも訳あり、と察してはいるが、とやかく詮索することはなかった。
それに、山南が未だ知らぬこともまた、承知していた。
「―――――犬塚さま」
女将はそっと声を掛けた。
「山南さまがお越しになられました」
急ぎ襖を開けるようなことはしない。
犬塚は体調が未だ優れず、床に伏せっていることを心得ていたからである。女なればこそ、の配慮だった。
普段と違う、気だるそうな声が襖越しに返ってくる。
「―――――すぐに参りますゆえ、しばらくお待ち願いたい、とお伝えくだされ」
「わかりました」
音を立てずに去っていく気配を聞き、犬塚はゆっくりと身体を起こし、衣服を改める。
さらしを巻く前の胸元が、やんわりとした曲線を描いていた。

しばらくの後、二人は二寧坂を下り、高台寺のほうへと歩いていった。
高台寺は北政所が太閤秀吉の菩提を弔うために建立した寺で、朧雪を纏った山々が庭園の池に映る様は、また格別の風情があった。
奇しくも、後に近藤や土方らと袂を分かった御陵衛士が居を寄せたのが、この高台寺の塔中たる月眞院であったが、そのことを山南が知ることはなかった。
山南は公務の合間を縫って、こうして犬塚と散策をするのを楽しみにしていた。近頃は、三日を開けずと来る。
人狼たる犬塚に目配りをせねばならぬ、という理由もあろう。だが、それは方便に過ぎない。
その証拠に、光縁寺での誓いを違わず、犬塚の件は誰にも報告していなかった。
ならば何故。
それは山南本人にもわからぬことであった。
「風邪でもひきましたか」
どことなく浮かぬ顔をしている犬塚を見て、山南は尋ねた。先程から犬塚がときおり、頭痛でもするかのように顔をしかめるのが気に掛かった。
「いや、少し調子が良くないのでござるが、大した事ではござらぬ」
と、嘘をつく。
「ならばよいが」
「それより、お忙しい中にこちらへ来て大丈夫なのでござるか。今はいろいろと大変なのでござろう」
「忙しいことなどありはしませんよ」
山南は苦々しく、吐き捨てるように言った。
新撰組が今、激しく動揺していることは、犬塚も聞いていた。
禁門の変以降、ますます佐幕傾向を強める局長筋と、本来の目的である尊皇を志向する山南や伊東甲子太郎の一派の対立は、最早衝突は不回避との噂が立つほどになっていた。
犬塚は人の世の争いとは関わりを持たぬよう努めてはいるが、それでも山南のありようが気が気ではなかった。
出来うることならそのような御役目など捨て、もっと自由に生きて欲しいと願うのであるが、犬塚の信念と同様、覆るはずもなかった。
「犬塚君」
今にも雪が舞い落ちてきそうな空を見上げたまま、山南は呟いた。
「私も、もう長くないような気がします」
「何を言うのでござる」
「幕府に事態を収拾する力がないことは明白なのに、近藤さんたちは耳を傾けようとはしません。このまま無為に志士達を斬っていくことに、私は耐えられそうもないのです。しかしながら―――――」
組を辞す事も適わぬ、そう言いかけて止めた。
名目上の肩書きとはいえ、総長の座にあるものが組を見捨てて辞すれば、その影響は計り知れない。そのような事が許されるはずがなかった。
さりとて、勝手に脱すれば局中法度により切腹は必定である。山南は抜き差しならぬ立場に追い込まれつつあった。
己を騙して生きていくか、それとも腹を切る覚悟で出るか、あるいは―――――
漠然とした思いが浮かんでは消えていった。

いつになく浮かぬ散策を続けていたが、とうとう白いものがちらほらと落ちてきた。
これを潮に今日は切り上げよう、そう思って山門を出た時のことである。
編笠を目深にかぶった武士が、大刀を抜いて小走りに駆け寄ってきた。
「山南どの、あぶない」
気配を察した犬塚が、山南の腕をぐい、と引き寄せる。
ちょうど山南の前に犬塚が立つ格好になったが、顔の見えぬ刺客の狙いは山南ではなかった。
それを知った犬塚は竹光を抜こうとするが、いつになく重い体が災いし、斬撃を防ぐことができなかった。
「うっ―――――」
辛うじて身をよじり急所は外したものの、脇腹を抑えて崩れ落ちる。
それを見た刺客が袈裟懸けに斬り付けようと構えたところを、ようやくに体勢を立て直した山南が、下から払うように剣で弾く。
「何者だ」
無論、男は答えない。
「何故、この私ではなく、犬塚君を狙う」
暫し、剣を抜いたまま睨み合っていたが、このままでは容態が危ない。
このまま踏み込んで一気に片をつけようと山南は思ったが、不意に相手の男が剣を引いた。
「今日のところはこれで引き下がりましょう」
男は不敵に笑いながら言った。
「後日、改めてお会いしましょう―――――総長どの」
そう言い残し、雪の中を去っていった。
その正体を確かめたかったが、今は犬塚の事が先であった。
降り積もる雪が、じんわりと赤く染まっていた。
「犬塚君」
山南は傍に駆け寄り、犬塚を抱き起こした。
「大丈夫、かすり傷でござる―――――」
苦痛に顔を歪めつつ、気丈にも立ち上がろうとする。
「無理をするな。とりあえず止血をせねば」
抱きかかえたまま山門へにじり寄り、前の合わせをほどく。白いさらしに夥しい血がにじんでいた。
「本当に大事ありませぬゆえ」
息も絶え絶えに、なおも嫌がる犬塚を置いて、小刀でさらしの端を切った。
小ぶりだが、白く柔らかなふくらみが姿を見せた。
「犬塚君、君は―――――」
まぎれもなく、女の乳房であった。

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