ザ・グレート・展開予測ショー

#挿絵企画SS 『Ring! Ring! Ring!』


投稿者名:ロックハウンド
投稿日時:(04/ 2/29)


 日曜の午前はいつもと変わらず、穏やかな時の中にあった。
 まだ日も顔を見せず、空の端を薄明るい赤銅色に染めているだけだ。
 空気はひんやりと冷たく、けど、幸いと言うか肌を冷やす風はない。
 視界はいまだ薄い鈍色に包まれ、濃い目の影が世界の大部分を覆っている。
 目につくのは新聞配達員や、早朝出勤途中のまばらなサラリーマンの面々。

 犬塚シロはひた走っていた。
 持ち主に抗議をするかのように精霊石のペンダントが胸元で飛び跳ね、長い直毛の銀髪は生み出された風に後ろへと流されている。
 目的地はただ一つ。築数十年のオンボロ・アパート。
 そこの一室で、未だ夢の世界にいるはずの少年の元へ。

 小鳥の囀りが唯一の活気であるような世界の中、彼女は異端分子だった。
 道端で餌を探していた雀たちも、突然の足音と彼方から立ち上る土煙に、慌てて電線へと飛び移っていく。
 ゴミ捨て場を漁っていた鴉たちも、突然の足音と突風に生ゴミもろとも吹き飛ばされてしまう。
 その俊足は風と地面に愛されているかのようで、重力も抵抗も感じさせずに軽やかさを保ったままであった。

 人間のオリンピック世界記録など軽々と打ち破っている。
 彼女にとって記録などに興味は無い。大切なのは、この疾走の先にあるゴール。
 この世で一番の敬愛する師匠に会えるか会えないか、である。力の入り様も違うと言うものだ。
 その証拠に、見慣れたアパートの姿が目に入った途端、浮かぶ満面の笑みから八重歯が煌いた。
 大好きなものを。とっても大好きなものを目にした時だけに見せる笑顔だ。

 目的地が間近になったらしく、シロはスピードを上げ、ラスト・スパートをかけた。
 残りの数十メートルを一気に駆け抜ける。
 階段を5段飛ばしで飛び越えていき、目標のドアの前へと立つ。
 ドアに鍵が掛かっていないのは承知している。
 シロは深呼吸をすると、一気にドアを開け広げた。無論、挨拶を忘れたりはしない。


 「おはようでござる、横島先生! さんぽに行くでござるよっ!」


 今日の日課の始まりだ。



 ――――――――――――――――――――――――――

            Ring! Ring! Ring!

 ――――――――――――――――――――――――――



 「ホント、オレも付き合いがいいっつーか、アホっつーか・・・・・・」


 墨痕淋漓の一文字。『邪』と書かれたTシャツにジーンズ、スニーカーという、いつもとかわりばえしない出で立ちの横島。
 ぶつくさと不平を唱えつつ、丈夫なことで定評のあるメーカー製のマウンテン・バイクを押していた。
 シロとの散歩の時には、いつもこの自転車が相棒である。
 車体のあちこちに傷がついているところは、相当にハードな行程をこなしていることを連想させた。

 とある山の頂上付近に、散歩の折り返し地点とも言うべきパーキング・エリアが広がりを見せていた。
 景色は絶景と言って差し支えなく、時間もまだ午前7時を過ぎていない。
 数週間前の散歩の際に見つけた場所であり、シロのお気に入りである散歩コースのひとつであった。
 早朝ということもあり、人ごみや自動車の排気ガスが空気を重くすることも無く、清涼そのものだ。

 横島も散歩のたびに知らない場所に行くことにはもう慣れていた。体力的には毎回限界ギリギリではあるが。
 今では達観したというべきか、もはや散歩を拒むことを半ば諦めている。
 缶入りのホット・コーヒーなど飲みながらぼんやりとしていると、背後で聞き慣れた声が上がった。


 「やーっほー!!」


 背後の山並みへと向かって、声を上げているシロである。
 狼の遠吠えなどという風情ではない。どう見ても子供が自然と戯れている光景だ。
 横島は駐車場の敷石に腰を下ろし、苦笑とともにシロの後姿を見やっていた。
 まだ眠気の残滓がたゆたう脳を目覚めさせようと、缶コーヒーを一口含む。なんだか毎朝同じことをやっているような気もするが。
 ふと視線を戻すと、シロがこちらに駆けて来る途中であった。


 「せんせー、いっしょに叫ぼうでござるよぉ」

 「バカいえ。もう、やまびこ聞いて喜ぶ年齢じゃないの、オレは」


 腰をかがめ、見下ろしてくる彼女の眼差しに、訳も無く横島は少々腰が引けるような気分を味わった。
 明けの空の中に在っても陽光を跳ね返し、輝きを見せる星々を宿したような両の瞳。
 なだらかな肩を滑り落ち、ふわふわと緩やかに波打つ直毛の銀髪。
 八重歯を煌かせ、小首を傾げる仕草の愛らしさは、天から与えられた才能といえるかもしれない。


 「年は関係ないでござる。何歳だろうと、叫べばちゃーんと返って来てくれるのでござるよ、先生」

 「そ、そういう問題じゃ・・・・・・って、わーったよ、もう。叫べばえーんやろ、叫べば」

 「くぅ〜ん♪」


 横島の承諾を得た途端、シロの尻尾が左右に勢い良く振られていた。
 自動車のワイパーなど及びもつかぬ勢いと稼動角度であり、心なしかリズミカルな跳ね上がりをも見せている。
 横島と一緒に何か出来る事が、シロには相当に嬉しいことらしい。
 絡めた腕に力を込め、彼を引っ張っていく姿には、ささやかな遊びにも全力を投じるだろうと思わせる闊達さに満ちていたからである。

 シロに勢い良く手を引かれ、つんのめるように前へと歩を進める横島は、眼前に広がる景色の雄大さに軽く瞠目した。
 幾度も来ている筈の場所だが、日によって違った見方が出来るのはやはり天候のせいだろうか、と柄にも無くそう考えてしまう。
 薄い雲で化粧した山並みを眺める横島。その横顔を見上げたシロは嬉しさの表れだろうか。鼻をひくひくと蠢かせた。
 鼻腔に届く、冷たく澄み切った山の空気と、滋味溢れる草木の香りがたまらなく心地良い。
 胸中に沸き起こる衝動に身を委ね、シロと横島は山の中腹へと向かって声を放った。


 「やーっほー!!」

 「美人のねーちゃーん!!」


 澄み切った早朝の爽やかさは、滾る煩悩が溢れんばかりに満ちた叫びによって打ち破られた。
 妙に吹っ切れたような、むしろ爽やかな表情を浮かべていた横島であったが、ふと、傍らのシロがずっこけていることに気付く。
 地面にうつ伏せに倒れ、時折痙攣するかのように蠢く様は、美少女にそぐわぬ在りかただと言えた。


 「ん? どーした、シロ?」

 「せ、せんせぇぇ・・・・・・」


 ひくひく、と身体を震わせながら、うめくシロである。
 力の無い声音は情けなさそうでもあり、
 突然起き上がり、きっ、と鋭い眼差しを横島に投げかけたのも一瞬の事だった。


 「何をコケてんだ、お前? 腹でも減ったか?」

 「せ、拙者がいる前で、ほ、ほかの女子の事を口にするとはあんまりではござらんかぁぁ!」

 「わわっ!? こ、こら、シロ、おすわりっ! か、顔を舐めるのやめー!」


 次の瞬間には、きゃいんきゃいん、と、悲鳴に近い声を上げ、横島へと縋り付くシロである。
 その様はかつておキヌが評したように、どう見ても野性の欠片も残っていない。
 傍目には、他家の犬に構う飼い主にやきもちを焼く犬、と、いう表現が相応しいようだ。
 タマモがもしこの光景を目にすれば、より一層、シロを犬呼ばわりするのはむしろ当然の帰結と言えた。


 「な、なんか知らんが、わりぃわりぃ。そんな顔しなくても、ちゃんと最後まで散歩に付き合うからさ、な?」

 「うー・・・・・・先生ってば、いじわるでござるよぉ」


 大量の涎でべとついた顔をシャツの袖で拭いつつ、横島は汗混じりのふやけた笑いでシロに詫びた。
 とはいえ彼女をコケさせ、自分にしがみつかせた原因が何なのかは全く理解できていない彼である。
 第三者から見れば、驚くべき無神経さと、恐るべき鈍感振りであると言わざるを得ない。

 一方、そんな横島を、指をくわえて上目遣いに拗ねてみせるシロ。
 いつ頃から身についたものやら、最近はこのように甘え、拗ねる仕草を積極的に見せるようになった。
 横島はそんな彼女の頭上へと手をやり、その柔らかな髪を梳った。重ねて詫びを入れるかのように。


 「うー・・・・・・」

 「だ、だから、悪かったって。な? 何が悪いのかはよーわからんけど・・・・・・。とにかく、よしよし」


 雪のような白銀色と熟れたほおずきのような紅色に彩られた頭髪は、何度見ても奇異に映る。
 でも不快だとかそんなことは決してない。むしろそうでないシロの方に違和感があるかもしれない。
 まだちょっとむくれたままのシロを、横島は軽く見下ろしながら、軽い苦笑交じりの微笑みを浮かべていた。

 ふと、彼女の腰のあたりで蠢くものに目をやれば、頭髪と同じく白銀色の柔らかい毛に包まれた尻尾が、上下にゆっくりと動いている。
 すがるような視線と相俟って、自分だけにかまってほしいのに、と言わんばかりの仕草である。
 まさしく子犬のような眼差しに思わず、ぷっ、と噴き出してしまった横島であったが、こればかりは何人も責められまい。


 「もう! 先生!」


 そんな横島の態度に再び頬を染める色を濃くし、むくれてしまうシロ。
 だが、今や頭部に宿った優しさに心のどこかが身を委ね、どこかうっとりとした表情を完璧には隠し通せていない。
 むくれているはずの口元が、微かに上向きとなり、ちらりちらりと八重歯を垣間見せていたから。


 「むー・・・・・・やっぱり、先生ってば、いじわるでござる」

 「な、なんだよ、いきなり」


 こういう視線はどうも苦手だ。じっと見つめられたままでいると、心にまで汗をかいてしまいそうになる。
 加えてその可愛さに、心臓がタップ・ダンスを始めてしまいそうになるから、こればっかりは横島としても秘密中の秘密である。
 ただでさえ女の敵だの何だのと、著しく悪い評判に事欠かないのだから、横島としてはロリコン疑惑だけは何としても避けたい所だ。
 だからこんな風に間近に居られると、心音が聞かれないかと気にかかってしまう。人狼の聴覚は並大抵ではないのだから。


 「でも・・・・・・やっぱり、拙者は先生が好きでござるよ」


 タップ・ダンスどころか和太鼓が鳴った。
 俯いての上目使いが相変わらずのシロだが、目の奥には思わず息を呑んでしまいそうになるほど、煌びやかな感情の結晶が輝いている。
 また、視線の強さとは裏腹に、ほんのりと目元と頬を染める桜色と口元に薄く浮かんだ微笑が、横島を大いに怯ませた。
 シロが見せたはにかむ様は、幾人もの美女を見慣れたはずの横島をして、心臓を直撃し貫いていった。

 いかんいかん。不意打ちに屈するな、勘違いするな、横島忠夫。
 これは恋心じゃない。オレはロリコンじゃない。シロはそんなつもりで言ってるんじゃない。弟子として言ってるんだからな。
 妙な期待はするんじゃないぞ。想いを寄せてくれる後輩、とでもいうのか。
 そんな美味しい話やシチュエーションなんて、まずオレには縁が無いんだからな。

 どうにも自分のもてなさ加減を、コンプレックスと絡めて考えれば考えるほど、情けなさがいや増してきたらしい。
 横島は頭髪を弄りながら、内心、滂沱の雨をひた隠しにしつつ、外面上は苦笑してシロに感謝の言葉を述べた。
 えぇヤツや、ホンマに。そんな気持ちを付け加える事は忘れずに。
 でも、表には出さない。というか出せない。なんとも臆病なのかもしれないが。


 「へーへー、ありがとな。ううう、オレも良い弟子を持ったもんだ」

 「あー、先生、信じてないでござるな?」

 「ええい、そういう問題じゃねーだろ。そろそろ帰ろうか。朝飯に遅れちまう」


 腹の虫の声と照れ隠しが半々で、横島はマウンテン・バイクへとまたがった。
 時々とはいえ、日曜の三食は事務所で取ることができる。
 この好機を逃す横島ではない。シロも思い出したかのように目を見開き、少し慌てていた。

 おキヌが作ってくれた出来立ての食事は、決して逃がしてはならない。
 が、次の瞬間彼女の表情には、ふわっと花が咲くように笑みが広がっていく。
 それは彼女にとって、何か良いコトを思いついたときの表情だった。


 「先生、帰りは後ろに乗っていいでござるか?」

 「後ろって・・・・・・荷台か? いいけど珍しいな、お前が走らないなんて」

 「えへへ・・・・・・たまには、そうしてみたいんでござるよ♪」

 「・・・・・・?」


 後輪には、足を乗せるための金属製の棒が両側についている。
 シロは棒に両足を乗せると、横島の両肩に手を乗せた。


 「さぁ、先生、出発でござるよっ」

 「わーったわーった。落ちるんじゃねーぞ」


 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 自転車は軽快な速度でカーブを切っていく。
 来る時と異なり、帰りの坂道はその行程のほとんどが下り坂だ。
 太陽もその姿を見せ、力強い緑色に染まり始めた葉の間から煌きを見せている。
 舗装されたアスファルトを照らし、二人の身体は木々の影と光が投影されるスクリーンとなって流れ去っていった。


 「せんせー!」

 「あんだよー?」

 「すっごく気持ちいいでござるよー!」

 「あー、よかったなー」


 長い銀髪が後ろに持っていかれる感覚。
 前頭部の赤い髪も風に撫で付けられ、額は風を直に受けている。
 木々の匂い、風の軽やかな冷たさ、穏やかな日光、きらきらと頭上から降り注ぐ木漏れ日。
 そして、手のひらに伝わってくる温もり。
 最高だ。素敵すぎる。
 シロは我知らず微笑み、衝動のままに身体を動かした。


 「わっ、シ、シロっ! なにすんだいきなり、危ねぇだろ!?」

 「く〜ん♪ 振り落とされると危ないから、つかまってるんでござるよっ」

 「こらっ、うそつけっ」


 シロは横島の背後からしっかりと抱きついていた。
 暖かくて気持ちいいことこの上ないのは、薄手のTシャツ越しに伝わってくる体温のせいだろう。
 人の温もりを直に感じるなど、幼い頃に父親や長老におんぶされて以来のことだ。

 風が唸るように音を立てて、耳元を通り過ぎていく。
 時折、木々の間から、軽やかな声で歌う鳥たちの合唱が耳朶を打ってくる。
 自然界が身を包み込んでくれるような感覚が、抱き着いた人物の温もりと交じり合い、見も心も溶かし切ってしまいそうだ。

 シロは横島の背中に顔を押し当て、そっと目を閉じた。
 広がる世界の、悠久にして無限の色彩を見せてくれた瞳を閉じ、シロは呼吸を一つした。
 深く、大きく。身体の隅々まで染み渡るよう、胸いっぱいに吸い込んだ。

 横島の背中に耳を押し当てれば、一定の鼓動が自分にも伝わってくる。
 後部車輪の荷台に腰を下ろし、ぎゅっ、と両腕に力を込めた。
 自分の鼓動と彼の鼓動とが、一つになるように。一つになれるように。
 心地よい体温に意識を奪われそうなシロは、自分の声をどこか遠くに聞いていた。


 ―――せんせぇ・・・・・・。

 ―――んー? 今度はなんだぁ?


 大地を駆けるときの、足に伝わってくる感触が好きだった。
 地面に腰を下ろした時の、陽光を一杯に浴びた大地の温もりが好きだった。
 遮るものの無い、大地と山並みと碧空の交わるところ。
 それを唯眺めるだけの、そんな卑小な自分の存在をも許してくれる、雄大な眺めが好きだった。


 ―――先生の背中ってぇ・・・・・・。

 ―――はぁ!?


 そしてなによりも、たった今、腕を回している背中が好きだった。
 いつの頃からかはシロ自身もわからないが、胸の奥底に宿った山吹色の輝きを放つ温もりが、なぜかたまらなく好きになっていた。
 その宿った物をなんと呼称すれば良いのか、シロには未だわからない。

 けど、これだけははっきりしている。多分断言できるとシロは思っている。
 自分が発した言葉に、汗交じりで慌てふためいている眼前の少年。
 彼がいるから、彼の背中があるから、自分の身体の奥底で輝いてくれるのだ、と。

 彼がいなくてはダメだ。彼に触れられなければダメだ。
 彼が傍にいてくれなきゃ。彼と散歩に行かなきゃ。
 そして彼が微笑んでくれなきゃダメだし。むしろイヤなのだ。

 不意に目を見開き、両手に再び力を込めて、強く抱きしめる。
 発した声まで、知らず知らずの内に弾ませてしまった。


 「とぉっても、大きくて! 暖かいでござるなっ♪」

 「ば、ばかっ! なんなんだ、いきなりっ!?」


 笑い声まで快活さと爽快さに満ちている。誰にも手垢をつけられない、荘重にして清涼なる青空のように。
 彼女の笑いは空気を小波のように震わせ、振動をもろに受けた横島の首筋と心臓は落ち着きの境地を忘れていた。
 半分は運動のため、半分はシロの温もりのため。
 正直バランスをとりにくいのだが、嬉しそうに首筋に鼻を擦りつけて来るシロを感じていると無碍にもできない。

 とは言えシロは女の子だし、横島も年頃の男の子だ。
 煩悩真っ盛りの青少年に女の子の肌が直に触れてくるのは、ちょっと心臓が良くも悪くも落ち着かない。
 肩越しに互いの視線が、僅かの間でも絡み合うことすら、横島にはやばいものだった。

 あーゆう目ってば、反則だよなぁ。しみじみと横島は考える。
 絶対にロリコンじゃないが、今の自分の胸に脈打つ鼓動はまともじゃない。
 男の心を急旋回させずにはおかない眼差しの持ち主。なんだかんだ言っても、シロも女の子ということだろうか。


 (いかんいかんいかん! 寝惚けた頭で考える事じゃない。オレは絶対にロリコンじゃない、ロリコンじゃない。違うんだってば!)


 電柱があれば、間違いなく頭をぶつけていた事だろう。
 精神内で葛藤を繰り返す横島は、百メートルほど先に崖が見えるのに気づいた。
 見ればガードレールもなく、ちょうどカーブと重なっている地点だ。
 その先は数百メートルにわたって続く直線の緩やかな下り坂である。
 遠くに海を望み、ひと気の無い街路沿いには、人の手が付けられていない自然の風景が顔を覗かせる。


 「スピード上げるぞ、シロ! しっかりつかまってろ!」


 ええい、もう、ダッシュで行っちまおう。
 おキヌちゃんのご飯が待ってる。美神さんたちとの仕事が待ってる。
 えーと、あとは・・・・・・まぁ、いい。とにかく何かが待ってる。と、思う。

 いつもは嫌いなはずの、肌を撫で退っていくちょっと冷たい風が、今日ばっかりはやけにありがたい。
 背中に伝わってくる温もりと、柔らかすぎるほど柔らかい肌の感触が、横島の脳を経由し、足を動かす動力源となっている。
 まだまだスピードは上げられる。日々の散歩の効果と言うべきか、自分の脚が未だに余力を残している事に彼自身驚いていた。


 「はいでござるっ、横島先生っ!」


 無論、彼女に否やが在ろう筈も無い。
 シロはより力を込めて、横島の背中にしがみついていた。

 散歩に出かけて、見つけて。
 眺めた世界の美しさは自分1人だけの宝物のつもりだった。これまでは。
 今はもう違う。胸を張ってそう断言できる。


 ―――父上、母上。お元気ですか?


 今は。
 今だけは自分と、この人とだけの世界だ。
 自分達とともに、世界がそばにいてくれている。

 海面が陽光を反射し煌いている。
 早朝の涼風が、山から駆け下りてきて、顔を撫でてくれる。
 自転車を後押ししてくれている。
 そよそよ、と揺らぐ草木が、鳥たちと合唱してくれている。


 ―――拙者は・・・・・・。


 今は自分の足で走らなくてもいい。
 彼の肩越しに眺めていたいから。
 この、素晴らしき世界を。

 シロは横島のTシャツに、再び顔を埋めた。
 気が付けば目尻に浮かんだ、ほんの僅かな水滴を拭ってほしかったから。
 閉じた目を彼の背中へと擦りながら、シロは微笑み、そして呟いていた。
 限り無く遠くて、限り無く近い場所に居るはずの、愛している人達へと向けて。


 ―――・・・・・・犬塚シロは、今日も元気です。


 ちりん、と心地良く澄んだ音色で。
 自転車のベルが鳴った。









                       おしまい

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