ザ・グレート・展開予測ショー

#挿絵企画SS『ハードボイルド・ドッグ』


投稿者名:777
投稿日時:(04/ 2/28)

 凍てついた風の吹く寒い冬の朝だった。私のような野良犬に暖かい寝床などありえるはずもないから、私はいつもどおり路地裏の暗がりで目覚めた。人間の庇護下にいる飼い犬達は、私のような野良犬に対して憐憫や同情の視線を向けるが、しかし私は人間に飼われるつもりなど毛頭なかった。食うに困らず寝る場所に困らず、我々の天敵たる保健所の人間に追いまわされることもない、それはまさに人間でいう極楽のような生活だとかつて私の友犬である飼い犬は言ったが、対価として自由を奪われるのは私には我慢がならなかった。だから、私は今日も空き腹を抱えて、朝飯を調達するために路地裏から出た。
 人間たちに見つからないよう、私は路地裏から路地裏へ、怯えた兎のように隠れながら移動した。私のように薄汚れた野良犬は、人間たちに見つかればまず間違いなく害を受ける。棒を持って追ってくる子供もいれば水をぶっかけてくる主婦もいるし、もちろん野良犬の天敵のような保健所の人間もいる。表通りを我が物顔で闊歩するのは飼い犬達だけの特権なのだ。
 幸運なことに、今日は人間たちのゴミの中に食べ物が混じる日だ。飼い犬は待っているだけで人間に食事を与えられるし、あるいは山などに生息すると言う野犬ならば狩猟をするだろう。私のような野良犬は人間の食べ残しを漁って生きていく。惨めだ、などと思ったことはない。
 私は縄張りのゴミ捨て場で食事を終わらせた。焼いた肉の脂身と炊かれたライスの残り、そして私の大好物である焼いた卵と、なかなか贅沢なモーニングだった。飼い犬ならば食後のミルクといくところなのだろうが私は野良犬だ。食後は水で十分。公園の噴水で水を飲もう。
 公園に行くためには、一度だけ危険を冒さねばならない。人間の多い表通りを通らねば公園に辿り着けないのだ。私はもう何年もここを縄張りとして生きているが、そこを通るときはいつだって緊張する。人間が多い事もそうなのだが、何より車が多い。人間たちには信号と言った便利な物があるそうだが、私たち犬は色彩感覚が発達していないため赤も青も同じ灰色にしか見えない。車に轢かれないよう、人間に見つからないよう、そこを通るときはいつも細心の注意が必要だ。
 路地の影から表通りを覗く。いつもながら人間が多く、車も多い。排気ガスやら何やらで酷い匂いだ。私はタイミングを伺って路地に身を潜めていた。
 大通りを渡るタイミングは一つ。車が止まり、人間たちが歩き出す直前である。道路に車も人間もいない一瞬の隙間に、私は横断歩道を走らねばならない。
 私が覗いたとき、どうやら信号は青のようだった。人間が大勢横断歩道を渡っている。私が渡るにはもう暫らく待たねばならないようだ。私はぺたんと耳を伏せて待った。
 私には同じ色にしか見えないが、どうやら信号が赤に変わったようだ。歩道から人間たちの姿が消える。おそらく次のタイミングには車が走り出すのだろう。人間たちも馬鹿ではないから、これから歩道に飛び出す物はいない。けれど今日は馬鹿がいたのだ。
 そいつは太った人間のメスにリードを引かれた小さな飼い犬だった。人間のメスが誤ってリードから手を離したのだろう。飼い犬は散歩中にリードを話されるとどこでも駆け出す癖がある。件の小さな飼い犬もまた、リードを離された途端に駆け出した。横断歩道では今まさに車が走り出そうとしている。
 気づけば私の体は横断歩道に飛び出していた。何も知らずに駆けている子犬のもとに全速力で辿り着き、口に銜えて飛んだ。走り出した自動車が私の体を跳ね飛ばしたが、直撃しなかったのだから幸運だったと言えよう。私は子犬とともに跳ね飛ばされたが、わたしの体が下になるようにして着地することに成功した。前足から肩にかけてを擦り剥いたようだった。
『坊主、危ないから飛び出すな』
 子犬は目を丸くして尻餅をついていた。私の擦り傷から流れた血が、子犬の体に付着したようだった。舐めてやろうと舌を伸ばしたが、その舌が子犬の体に届く前に私は強かに杖で殴られた。
「ペスちゃんに何てことするの、この野良犬め! 血が出ちゃってるじゃない! この野良犬が、あたしの可愛いペスちゃんを食い殺そうとしたわ!」
 子犬の飼い主たる人間が、何かわめきながら私を杖で殴りつけているのだった。きぃきぃと耳障りな声で喚きながら、何度も何度も杖を振り下ろしてくる。妙な同族意識でもあるのか、他の人間たちまで私を取り囲み始めた。擦り剥いたせいで満足な動きができず、私は何度も杖で打ち据えられながら、ぼろ雑巾のようになって逃げ出した。
 全く酷い目にあった。これだから飼い犬に関わるとろくなことはない。私はどうにか公園に辿り着いていた。朝食後の水を飲みに来ただけなのに傷だらけになってしまうなんて――しかも身内ですらない飼い犬のためだ――お犬よしにも程がある。
 噴水で喉を潤したあと、茂みに隠れて痛む体を休める。今もしも人間に見つかれば、私の命はなくなるだろう。今までの犬生においてこれほどの修羅場がないわけではなかったが、慣れる物ではなかった。野良犬に祈られたところできっと神は祈りを聞いてくれないのだろうが、それでも祈ってしまうのが犬の性という物か。
 だが、神はやはり私の祈りを聞き届けてはくれなかったようだった。茂みに伏せた私の耳に、人間の足音が聞こえたのだ。足音の主は何かを探しているようにいろいろなところを見て回っている。私を追ってきた人間だろう。すぐに見つかるとは思えないが――けれどいつかは見つかってしまうだろう。私は覚悟を決めた。無論、戦う覚悟を、だ。
 足音が近づいてくる。伏せたまま、全身の筋肉を強張らせて、私はその瞬間を待った。せめて一噛みしてやろう。野良犬の意地として。
「こんなところにいたでござるか」
 足音の主が私を見つけたようだった。茂みを覗き込んだその人間に、私は夢中で飛びかかった。好き勝手な理由で野良犬を殺す傲慢な人間め、私たちに誇りなどないと思っている愚かな人間め、野良犬の誇りと意地の一噛み、その身に食らうがいい。
 だが、その人間はあっさりと私の牙を受け止めてしまったのだった。私の意地と誇りは、人間には全く通用しないのだった。私はあまりの無念に、ただ頭を垂れて死を待った。せめて一思いに棒なり何なりで殺してもらいたい。
『驚かしてすまんでござる。拙者は、そなたを追ってきた人間ではござらんよ』
 人間は私をその腕に抱きながら、驚いたことにメスの声で言った。私たちと同じ言葉を喋る人間なんて、ついぞ聞いた事もない。私は驚いて顔をあげた。私を抱き上げながら人間は優しげに笑っていた。
『拙者は人狼の犬塚シロと申す。子犬を助けるために道路に飛び込んだ立派なそなたを、守ろうと思って探していたんでござるよ』
 人間――恐らくはメスだろう――は確かに私に理解できる言葉で喋っていたが、その内容は不可解だった。人狼なんて単語は聞いた事もない。
『私は、ただの野良犬だ。野良犬の間ではエッグと呼ばれている。卵が好きなんだ。君は、人間ではないのか? 人狼とはなんなんだ?』
『人狼とは人間と狼の特性を備えた生き物でござる。狼にもなれるし人間にも化けられる、妖怪の類でござるよ。拙者、エッグの立派な行動に感服したのでござる。そして人間たちのあまりにも酷い仕打ちに憤ったのでござるよ』
 動物は長く生きることによって化けると、噂だけは聞いたことがある。このシロと名乗るメスも、きっとその類なのだろう。
『君は、一体私をどうするつもりなんだ? 見てのとおり、私は傷だらけだ。それにどうやら君は強いらしい。生殺与奪の権利を握られていると言うのは、いささか気分がよろしくないよ』
 シロは私を抱えたままにっこりと笑った。そして私の傷をその舌で舐め始めたのだった。薄汚れた野良犬であるこの私を、どう見ても人間にしか見えないメスが、舐めている! 私は驚きにびしりと固まってしまった。
 そんな私に頓着せず、シロはぺろぺろと私を舐めている。何か不思議な力でもあるのか、痛みがどんどん引いていくようだった。そう言えば――誰かにこうして舐められなくなって久しい。
『ありがとう。他犬に舐めてもらうのは、ずいぶんと久しぶりだ』
 私は素直に感謝を述べたのだが、シロはどことなく不服そうだった。顔をあげて『狼でござるよ…』と小さく呟いて、シロはまた私の傷に顔をうずめた。狼も犬も同族なのだから、別に気にするほどのことでもないと思うのだが。
 やがてシロは私の傷を舐め終えたようだ。やはり不思議な力でもあるのだろう、私の体から痛みが消えていた。まだ少しだるいが、動けないと言うほどでもない。
 もう一度礼を言って立ち去ろうとしたのだが、シロは私を抱きかかえたままどこかへ向かって歩き出した。私もすでにいい年をした成犬なのだから、いくら人間形態とは言えメスの細腕には重いと思うのだが、シロはそんなそぶりも見せずニコニコと笑いながら私を抱きかかえている。
『どこに連れて行くつもりだ? 傷は治ったようだから、もう下ろしてもらいたいのだが』
『何か美味しい物をご馳走するでござるよ。傷は治っても体力が回復するわけではござらんからな。腕によりをかけて馳走するでござる。エッグの好きな卵料理と、拙者自慢の肉料理を振舞うでござるよ』
 ずいぶんと魅力的な提案だったし、ひさしぶりに私の体を舐めたメスの言うことでもあったので、私はその誘いに乗ることにした。
 シロの飼われている――といったら怒った。シロの暮らしぶりを聞くに飼われていると言う言葉がぴったり来ると思うのだが――家は暫らく歩かなければならないらしい。シロはどうやら散歩中だったようだ。
 その帰り道だった。人間が銀行と呼んでいる場所で、何か騒ぎがあった。シロの目が鋭くなり、私の体を地面に下ろした。
『どうやら銀行強盗のようでござる。拙者、行かなければ』
 何の迷いもなく、シロはそう言った。私にはそれが不思議だった。シロは人間を助けようとでも言うのか。
『何故行かねばならない? 人間同士の争いだろう? 君も打ち据えられる私を見ただろう。あんな奴ら、助けるに値しない』
 私の言葉に、シロは首を振った。人間にも優しい者がたくさんいると、私を打ち据えるような者だけが人間でないと、シロは寂しそうに言った。
『――そうか。君は、そう言えば半分人間なのだったな。私とは、根本的に違うのだったな。私は、人間に優しい者がいるなどとは思えない。ここでお別れだ。卵料理を食べられないのは残念だけれど、それはきっとしょうがないことなのだろう』
 私はシロに背を向けた。シロは一瞬躊躇ったようだが、すぐに足音が去っていったから、本当に人を助けに行ったのだろう。お犬よし――いや、お人よしにも程があるといったところか。
 ふ、と私は苦笑を浮かべた。それでは私と同じではないか。今日はもう顔をあわせられないけれど、また会う事があれば挨拶くらいはしよう。
 そう思っていつものねぐらに帰りかけた私は、シロの向かった方角から響いてきた大きな音に体を強張らせた。あれは、あの音は、まさか噂に聞く銃と言う物ではないのか。凄まじい速さで鉄の弾を撃ち出す鉄の棒、当たればただではすまないらしい。誰だ、一体誰が撃たれたんだ。まさか。
 私の脳裏にシロの笑顔が浮かんだ。私の傷を舐める優しい舌使いを思い出した。シロの胸のいい匂いを思い出した。
 気づけば私はシロの向かった方向に駆け出していた。あまりにもお犬よし過ぎる行動だと、私の理性は言うのだが、私にはシロを見捨てることはできなかった。シロはお人よしだから同じ人である人間を助ける。だがシロは半分は犬ではないか。お犬よしである私はシロを助けるために、走る。
 大勢の人間がシロのいる銀行とやらを取り巻いていた。私はまだだるい体に鞭打ち、銃に対する怯えを必死にかみ殺し、人間たちの頭上を飛んだ。無理をして飛んだせいで無様な着地になったが、痛みを無視して私は駆けた。後ろから人間たちの驚いている声が聞こえたが、構っていられない。私はシロのいる銀行に飛び込んだ。
 焼けた火薬の匂いと、そして生臭い血の匂いがした。シロは後ろに人間をかばって、座り込んでいた。シロに向かって鉄の棒を構える人間がいた。私は喉が裂けるほどの唸り声を上げながら、その人間に飛び掛った。
 人間は驚いたように振り返り、私に対して銃を向けた。ぱん、と耳の痛い音が聞こえて、私の腹部に灼熱感が襲った。私はそのまま人間の右手に、銃を構えた右手に噛みついた。人間は悲鳴を上げて銃を落とした。私は床に叩きつけられ、蹴り飛ばされた。私は視界の端にシロが人間を殴りつける景色を納めて、安心して目を閉じた。シロが私を呼ぶ声が聞こえた。

 誰かと寄り添って眠っているような、不思議な安心感が私を包んでいた。耳元で誰かの寝息が聞こえる。私は目をあけた。
 私は子犬と狐に挟まれて眠っていた。どちらもメスだ。しかもまだまだ子供のメスだったから、私は焦った。一体何があったのだろう。何で私の寝床にメスが二匹もいるんだ。
 しかし、そこは私の寝床ではないようだった。私の寝床ならこんなにい匂いはしないし、何よりもっと汚れている。どうやらここは、この二匹の寝床のようだった。
 私は何か布のような物で全身を包まれていた。この布は包帯、と呼ばれる人間の治療だと言うことを私は昔、噂に聞いて知っていた。しかし、一体何故、一体誰が…。
 私はシロを助けるために人間に撃たれたのだった。そして何故気づけば手当てがされて、メス二匹と一緒に寝ているのだろう。
 ふと思い立って、メスの匂いをかいで見た。狐の方は私の知らない匂いだったが、犬のほうは私の知っている匂いだった。何だ、ではこれが狼形態のシロだったのか。犬にそっくりだ。
 私はシロを揺り起こした。シロはくーんと鳴いて起きた。私に気づいたか、嬉しげに私の顔を舐めた。
『私は、助かったのか? ここは一体どこなんだ?』
『ここは拙者が居候してる家でござるよ。エッグの傷はとても深くて、獣医さんじゃ治せなかったんでござるよ? だから、拙者たちが霊力を分け与えて治療してたんでござる。犬の傷を治すなら、やはり狼の姿の方が霊力はなじむでござるから』
 シロはそう言って笑った。無邪気な笑みだった。人間の見掛けをしているときにはわからなかったが、かなり可愛らしい狼だった。但し、まだまだ子供だと言うのは否めない。もう暫らく経てばオスどもが放っておかないだろう。
『また、シロに助けられたのか。ありがとう。君は命の恩犬だ』
『狼でござるよ。それに、お互い様でござる。エッグが来てくれなかったら、拙者あそこで撃たれて死んでいたでござるから』
 シロがまた笑った。その笑い声のせいか、もう一匹の狐が目を覚ました。狐もまた勝気そうな美少狐だった。やはりまだまだ子供だったが。
『あれ、あんた目がさめたの? 絶対駄目だと思ってたのに』
 狐は私の顔を見てそう言った。言い難いことをきっぱり言う子の様だった。私が苦笑すると、シロが狐をたしなめた。
『こら、タマモ! エッグは拙者の恩犬でござる! 滅多なことを言うでない!』
 タマモはふふん、と肩をすくめただけだった。シロがそれを見てまた激昂しそうになったから、私は慌てて止めた。
『喧嘩しないでくれ。君たちのおかげで私は命を助けられたんだ。もう一度礼を言わせて貰う。シロ、タマモ、ありがとう。世話になった』
 シロはまた嬉しそうに笑い、タマモは興味なさそうに視線をそらした。私は長い野良犬生活でひさしぶりに――ひさしぶりに、あたたかい気分を味わっていた。その途端、私の腹がぐぅと鳴った。なんだか無性に腹が減っている。
『シロ、美神にエッグが気づいたって言ってきたら? 傷は治っても体力は回復してないわよ』
『む、そうでござるな。エッグ、少し待つでござるよ。美味しいご飯を用意してるでござるから。もちろん、卵もあるでござる』
 シロは言うなり、どこかへと飛び出していった。二匹っきりになった私に、タマモはふと視線を向けた。
『あの馬鹿犬の前じゃ絶対言わないから、今のうちに言っとくけど。シロを助けてくれてありがとう』
 その礼の言葉はあまりにも早口すぎたが、私には確り届いていた。私が笑って頷くと、タマモはまた視線をそらした。だが、どうやら照れ隠しのようだった。
『あの馬鹿犬には、私がそんなこと言ったなんて、言わないでね』
 私は頷いた。どこかから卵と肉の焼けるいい匂いがする。私の腹がまたぐぅ、と鳴った。タマモはそんな私を見て、少しだけ微笑んだ。
 

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