ザ・グレート・展開予測ショー

愛情のカタチ


投稿者名:tea
投稿日時:(04/ 1/21)


 薄闇に包まれた、ひっそりとした室内。牢獄の様な肌寒さの中、氷室キヌは蠢くようにゆっくりと体を起こした。
 シーツを纏っただけの白い肢体は、熟れた果実のような妖艶な魅力に溢れている。それは、すぐ隣で眠っている青年にだけ、貪る事を許されていた。
 青年―――横島忠夫のあどけない寝顔を見て、おキヌは紅い唇を少し持ち上げた。





 「あの事件」から、三年が経過していた。神人魔にとっては存亡を賭けた、一人の少年にとっては愛する者を失ったアシュタロスの謀反。それは既に過去の出来事となり、人々の懐古の念にすら上らない程風化していた。
 だが、横島にとっては、それは瞼の裏に焼きついたかのような鮮烈な記憶だった。目を閉じれば、ありありと浮かぶルシオラの死。その残酷な事実だけが、横島が先の大戦で得た唯一のものだった。
 心の傷は、時の流れにしか癒せない。それが、美神を始めとする関係者達の結論だった。つまるところ、彼が吹っ切れるまでいたずらに触れるのはやめよう、という、何とも事なかれ主義的な理屈だった。
 おキヌも、その中の一人だった。






 ひんやりとした外気に、思わず身を竦めた。隣を見ると、横島の健康的な胸板が生物の様に起伏している。おキヌは、シーツを纏ったままそこに顔を埋めた。

(ふふ・・・横島さんの胸、暖かいな・・・)

 蟲惑的な笑みを浮かべ、悪戯っ子のようにぺろりと舐め挙げる。ぴくん、と反応が返ってきて、おキヌは面白そうにくすくすと笑った。同時に、得も言えぬ快感が麻薬のようにおキヌの全身を駆け巡った。






 一つだけ誤算があったとすれば、横島とルシオラの絆の深さ―――翻って、横島の負った傷の深さを甘く見ていた事だろう。横島の心に深く根を張っていたそれは、徐々に横島の精神を蝕み始めたのである。
 少々の傷ならば克己心のみで克服できる。深い傷ならば、周りの愛情に支えられて乗り越える事ができる。横島は、そのどちらでもなかった。独りでは到底割り切れないものを抱え込んでいたのに、美神達は日和見的な傍観を決め込んでいた。当然の帰結として、傷口は化膿し、爛れていった。
 
 夢の中に、よくルシオラが現れるようになった。
 
 東京タワーの屋上に座り、二人で夕日を眺めている。最も大切な蛍の化身を、二度と手放さないがために横島は腕を伸ばす。
 肩に触れた瞬間、ルシオラの輪郭がぼやけた。
 悲しげな、寂しげな瞳で、ルシオラは静かに微笑んだ。同時に、夕日の中に溶けていくかのように、陽炎のようにその存在が淡くなっていく。
 後に残されたのは、焼けるかのように紅い夕日と、遺品の様なバイザーだけだった。
 悪夢のように幸せな夢から、解放される様に目覚めるのが日課となっていた。樹海を彷徨っているような出口のない懊悩を抱え、横島の心は追い込まれていった。

 何故、別れなければならなかったのか。
 何故、助ける事が出来なかったのか。
 何故―――自分が代わりに死ななかったのか。

 おキヌが異変に気付いた時、全ては遅きに失した。守りたかった日常。救いたかった大切な人。自分が壊さなければ、ずっと大丈夫と思っていたものは、硫酸を浴び続けた粘土細工の様にあっけなく瓦解していた。






 横島が、目を開けた。
 疲れた様に気だるげに虚空を彷徨っていたそれは、体を摺り寄せているおキヌに注がれた。そこには、戸惑いの色がありありと見える。

「あの・・・おキヌちゃん?」
「あ、横島さん。起こしちゃいました?」

 愛しい人の声に、おキヌが嬉しそうに顔を上げる。その顔は子供のように可愛らしく、横島は思わず顔を赤らめてしまう。何度見ても、この顔は慣れそうに無い。横島は常々そう思う。
 枕下にある電気スタンドを灯し時計を見る。時刻は午前二時を示しており、横島は溜息を付いた。

「どうしたんです?何か、疲れてる様に見えますけど」

 おキヌは、横島の事については野生の獣並の嗅覚を発揮する。然るに、目の縁に隈を作った今の横島からは、普段のバイタリティが抜けている感じがした。
 不安げに眉を寄せるおキヌに優しく微笑みかけ、横島は彼女を抱き寄せた。
 シャンプーの芳香が鼻先に漂ってくる。同棲の準備にかかった時、おキヌは頑としてこのシャンプーを譲らなかった。その時の事を思い出し、横島が微かに苦笑する。

「いや・・・なんでもないよ。ただ、ちょっと変な夢を見てさ」
「夢・・・ですか?」
「うん・・・気が付くとさ、俺は東京タワーにいるんだ。って言っても、別に御土産屋でひよこを買ってたりとかじゃなくて。もっとずっと上の、屋根みたいな所にいるんだよ。それで・・・夕日を眺めてた」
「・・・・・・」

 そのことを思い出そうとしているかの様に、横島はゆっくりと言葉を紡いでいく。おキヌは、それを静かに聞いていた。愛しいものを撫でるかのような、ひどく落ち着いて優しい口調だった。







 横島が、手首を切った。
 その事を知った時、おキヌの中で何かが音を立てて崩れていった。
 病院のベッドで死んだように眠る横島からは、一切の生気が感じられない。申し訳程度に伸びた無精髭が、彼が生きている唯一の証にすら見えた。
 白亜の館が夜闇に沈む頃、幽体離脱をして忍び込んだおキヌは横島の枕元に佇んでいた。その顔は能面の様に無表情で、一部の感情が麻痺してしまったかの様だ。

「横島さん・・・」

 ぽつりと、その名を呟く。横島からの反応はない。
 いや、仮に起きていたとしても、恐らく何の反応も示さないだろう。私が―――私達が愛した横島忠夫は、最早その命を絶ったのだから。今目の前に眠っているのは、ただの抜け殻に過ぎないのだから。
 完敗。今のおキヌの心情を示すのに、これ程相応しい言葉もないと思う。ルシオラは、横島の全てを―――心も体も、魂すらも虜にし奪っていった。横島は、現世の全てを捨ててでもルシオラの元へ行く事を望んだのだから。例えそれが美神やおキヌを捨てる結果になるとしても、だ。
 シーツに包まれた肉の塊がルシオラからの「お恵み」にすら見えてきて、おキヌはぎり、と唇を噛んだ。もし彼女が生身だったら、間違いなく血が流れ出ていただろう。その瞳には、憎悪の色が色濃く映っていた。

「でも―――」

 にやりと黒い笑みを浮かべ、おキヌは懐をまさぐった。暫しの後に取り出されたのは、朧げな光を放つ小さな珠だった。

「身体だけでも返したって事は、これは拾っちゃってもいいって事ですよね?」

 本当に連れて行くつもりなら、今頃横島は火葬場にいる筈だ。おキヌは勝手にそう解釈し、右手の珠に霊力を込め始めた。
 横島に死んで欲しくなかった、という本来のおキヌらしい思考は既に泥の底に沈んでいる。殺意にすら昇華された嫉妬の情念と、ネクロフィリアの様な歪んだ愛着だけが今のおキヌを満たしていた。
 徐々に強くなっていく珠の波動に、病室全体が仄かに明るくなる。一瞬、横島の穏やかな横顔が照らされ、それがおキヌの良心に最後の一石を投じた。
 本当に、これでいいのだろうか。今更彼を手に入れたところで、それは独りよがりな自慰行為に過ぎない。彼を壊してまで手に入れるものに、一体何の価値があるというのか。
 理性の色が瞳に浮かび始め、ハイエナのような自分に吐き気を覚える。だが、彼女は見てしまった。横島の右手首に残された、生々しい傷跡を。ルシオラがつけた所有の刻印を。
 おキヌの内にある最後の良心は、その瞬間消滅した。

「・・・やっぱり、拾っちゃいます。ルシオラさんは、そちらで仲良くやって下さいね」

 お幸せに、と付け加え、おキヌが霊力の満たされた珠―――文殊を口に含み、ゆっくりと横島に近づく。痩せこけた頬を愛しげに撫で、乾いた唇にそっと口付けた。
 文殊が横島の内を掻き回し変質させていく。蝋人形の様に様変わりしていく横島を見ながら、おキヌは満面の笑みを浮かべた。見るものの背中を凍らせる、実にいい笑顔だった。

「横島さんがいけないんですよ。私を置いて、向こうにいっちゃうんだから」

「忘」の文殊が、ゆっくりと横島の記憶を壊していった。









「・・・でさ、俺の隣には誰かがいるんだ。けど、夕日が逆光になってその子が誰なのか全然分からない。・・・で、気が付いたら」
「その子じゃなく私が被さっていた、と。そういう事ですね?」

 じろりと横島を睨むおキヌ。棘のあるその口調は、「夢の中でまで浮気しないで下さい」と言外に言っているかのようだ。冷え冷えとした眼差しに、横島が慌てて弁明する。

「いや、大丈夫だって。俺の中じゃ一番はずっとおキヌちゃんなんだから」

 論点が微妙にずれている感じがするが、どうやらおキヌは機嫌を直したようだ。少し頬を染めたおキヌが、上目遣いで横島に尋ねた。

























「じゃあ・・・その人と私だと、どちらを選びますか?」













 横島は答えない。代わりに、おキヌの艶やかな黒髪を優しく撫でた。
 おキヌが気持ち良さそうに目を閉じる。眠りが浅かった横島も、もう一度眠ろうと枕下の明かりを消した。


 闇が、二人を包んでいった。

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