#まりあん一周年記念『Ave Maria』/第三幕
投稿者名:ロックハウンド
投稿日時:(03/ 7/12)
晩年のカオスは、昼食後に杖を片手に、森林を最小限切り開くように造られた並木道を散歩することを特に愛した。
傍らにマリアが付き添い、時の刻みが遠ざかった世界を二人はゆっくりと歩んだ。
土を踏みしめ、前を見据え、海の深遠を彷彿とさせる老人の眼差しは、まさしく賢者の名に相応しいものであった。
柔らかな日差し、草花の匂い、木々の香り、鳥達の営みに包まれ、重なり合った緑の間からもれ落ちる木漏れ日を浴びる。
種子が風に運ばれ、開けた場所に広がる湖面が、碧空と綿菓子にも似た雲を映し出している。
湖畔に申し訳程度に置かれたベンチに二人は腰を下ろした。近くにいたウサギの親子が森へと駆け込んで行く。
涼風が二人の間をすり抜け、老人の鼻腔と少女の嗅覚センサーに、自然界の滋味溢れる香りを届けてくれる。
目を細める老人の口元から、軽い含み笑いがこぼれていくその時、確かに世界は優しかった。
【ふふふ・・・・・・『時間よ止まれ、お前は美しい』・・・・・・か】
湖面に跳ねた魚が、波紋を残してすぐに水の中へと戻る。
波紋もまた広がりながら次第に湖面に吸い込まれるように消えていく。
【皮肉なものよ。世の理に背いたはずのわしが、齢を重ねた今となって世の理に受け入れられるとは】
皮肉といいつつも、その声音には自らを嘲る調子は無い。
碧空を見上げて語るカオスの目には、つがいと共に天を翔ける鳶の姿が映っていた。
マリアはカオスの横顔を見やったまま、視線を動かさない。
【・・・・・・今まで、ご苦労じゃったな、マリア】
カオスの言葉に、マリアが返答できなかったのは、この時が最初で最後だった。
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『Ave Maria』/第三幕
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目の前に広がる光景は、一体何のデータなのだろう。
雲一つ無い空は、西に傾きつつある太陽のせいで、僅かばかりの碧空と広がった夕焼けが微妙な色使いで溶け合っている。
地面に目をやれば、地平線の向こうまで果てしなく青々とした草原が広がっている。近くの盆地には湖まで見える。
後ろを振り向けば青い山並みが緩やかな曲線を描いている。
こんなデータが自分に存在しただろうか。
ここが見知らぬ場所であるかどうかもよくわからない。
始めて見るような気もするし、また、何故かはわからないが、懐かしいような心持ちもする。
懐かしい、という感情回路の反応が存在するのかどうかは、マリア本人も不明確なところだが、少なくとも不快な印象は無い。
「ここは・どこ・ですか・・・・・・?」
口に出して、はたと気付いた。
周りを見回しても人の姿など存在しないのに、問いかけを発してしまった。非論理的な行為だ。
マリアは自分の心情、というより回路の処理能力に、微々たる違和感を抱いた。
両足は先程から湖畔へと歩み寄っているし、澄み切った空気を香しく感じる。
今までの論理的行動が嘘のように感じられる。違和感の正体を考察しようとして、すぐにマリアは思索を打ち切った。
視界に飛び込んできた、紅く染まった空に気付いたからであった。
自分でも気付かぬ間に、暫くの間思考に沈んでいたようだ。
ふと辺りを見回すと、世界はすっかり夕焼けの色に染まっていた。
雲に遮られることの無い輝きは、山を、草原を、木々を、空を、鳥達を、湖面を、そしてマリアを染め上げる。
美しい。何度見ても、場所が変わってもそう思う。
「ドクター・カオス・・・・・・」
マリアは空を見上げたまま、呟いた。
あの空へは、遠すぎる。そんな表現が浮かんだ。
「ドクター・カオスも・マリアと・・・・・・」
回路の駆動音が聞こえない。視界のサーチ機能も作動しない。
なのに、世界が手にとるようにわかる。この身に感じられる。
「マリアと・・・・・・・・・同じ・夕陽を・見ていますか?」
色も、匂いも、形も、サーチ機能を通さずに、直に自分の心に触れてくる。
これが『心地良い』ということなのだろうか。
「同じ・世界に・いるの・ですか・・・・・・?」
ならば、なぜ、今、自分の心はこんなにも重く感じられるのだろう。
なぜ、こんなにも、何か足りないものを感じてしまうのだろう。
「・・・・・・解答を・希望・します」
マリアは俯いた。不快でない風が前髪を揺らしていく。
両の眼は前髪に隠れ、彼女は風に煽られるかのように、ゆっくりとその場に膝から座り込んだ。
「・・・・・・解答を・希望・します」
俯いたまま、マリアは呟きをこぼす。答えが返ってくることなどないと知っていながら。
黒い衣服を握り締め、体が小刻みに震えている。
「解答を・・・・・・切実に・・・・・・希望・・・・・・します・・・・・・。ドクター・カオス・・・・・・」
また風が吹いた。吹き上がった葉がマリアの視界を一瞬覆い隠す。
世界は美しい。でも、優しくない。
あの時のようには、カオスと共に森の中を歩んでいた時のようには優しくなかった。
カオスがいないからだろうか。そんなことは無い。自然は常に変化せず其処に在るのみだ。人の思惑など無意味である。
マリアの手は衣服を握り締めたまま放さない。震えも止まらない。
自分が怖かった。このまま永遠に一人なのか、という仮想を抱いた時、世界への視野が変化していた。
彼女にとって、余りにも恐怖の存在と成り果てていた。
全身が縮こまり、寒さに震えているようになっていく。マリアは我知らず呟きをもらしていた。
「解答を・・・・・・解答を・・・・・・」
声は突然に、マリアの頭上から降って来た。
『解答はお前自身が見つけるんじゃよ、マリア』
マリアは瞬時に頭上を見上げた。逆光でおぼろげなシルエットだが、それだけで充分すぎる情報であった。
やや長めにあつらえた黒のマント。その下に着込まれたツイードの紳士服。
髪は後ろへと撫で付けられ、その下の表情には知性の輝きに満ちた双眸。
マリアが見誤るはずも、見忘れるはずも無い。
「・・・・・・・・・ドクター・・・・・・カオス・・・・・・?」
言葉が続かない。理解不能、彼は死んだはずだ。
名前を呼ぶのが精一杯だ。先程とは異なる震えが、小刻みに彼女の前身を駆け抜ける。
恐怖から来る震えではなかった。それ以前に彼に恐怖することなどありえない。
マリアは目を大きく見開き、その場に座り込んだままである。
固まったまま動かないマリアを見て微笑むカオスは、ゆっくりと腰を屈めた。
手袋に包まれた手をマリアに向けて差し伸べる。
『なんじゃ、そんなに呆けおって。わしを忘れたか、ん?』
そんなことなどありえない。忘れることなど絶対に拒否、且つ不可能だ。
マリアは言葉の代わりに首を急いで振る。目の前にいるのは確かにカオスだ。
ただ外見は晩年のカオスよりも皺が取れている。身体も矍鑠としており、老年期に入る手前の頃のようだ。
ふと、慌ててマリアは立ち上がった。差し伸べられた手をとることも忘れて。
立ち上がった後も呆然と自分を眺めやるマリアに、カオスは柔らかく微笑むと、次の瞬間、舞台俳優のようにマントを広げた。
翻ったマントは風に逆らい、マリアの視界を一瞬遮った。風を切る音が彼女の耳朶を打つ。
大きく翻ったマントはカオスの身体を再び覆い隠す。
マントが通り過ぎた後に、夕焼けを前に、マリアは見いだした。
カオスがマントの間から手を出し、マリアの視線の先へと向けて、奇術を披露した魔術師さながらに手のひらを広げる。
もはや言葉を発することすら忘れていた。
これは魔法だろうか。私でも気が狂うことがあるのだろうか。視界不良。認識困難。
様々な言葉が、マリアの脳裏を埋めていく。
先程以上にマリアの目は見開かれていた。理解できないままに、彼女の目に情報が投げかけられてくる。
懐かしい面々からの挨拶、という名の情報が。
『マリア!』
『マリア』
腕を組み不敵に微笑む、美神令子。
陽光にも似た笑顔を浮かべ手を振る、おキヌ。
『よっ、マリア』
『こんにちは、マリア』
ひらひらと手を振る、横島。
彼に寄り添って、笑顔を浮かべる魔族の少女、ルシオラ。
相変わらずどこか頼りなげな印象の横島だが、浮かんだ笑顔はなぜかまばゆい。
『マリア殿っ!』
『マリアっ!』
同じく横島に寄り添い、飛び跳ねんばかりに挨拶を投げかけてくる、シロ。
小生意気な様子が相変わらずの、タマモ。
『やぁ、マリア君』
慈愛に満ちた笑顔で手を振る、唐巣神父。
『ハイ、マリア!』
『マリア〜ちゃ〜ん〜♪』
不敵な笑みと共に、斜め目線で見下ろしてくる、エミ。
春風駘蕩の風情で、無邪気な笑顔を見せる、冥子。
『マリアサン!』
『よぉ、マリア!』
口をあけ、豪快な笑い顔を見せつける、タイガー。
睨みつけているようで、信頼感溢れる笑顔の、雪之丞。
皆が挨拶を投げかけてくる。
彼らだけではない。美神たちの後ろにも大勢の人々が、あの懐かしい面々がいる。
美神美智恵が、ひのめが、西条が、厄珍が、魔鈴が。
かつて『極楽愚連隊』という異名を誇った、GS界最強の面々が。
黄金時代を共に過ごした、大事な、本当に大事な『友だち』が。
マリアの全身を新たな震えが襲っていた。
不快などではない。では何だ。何故こんなにも胸部に激痛が走るのだ。激しい痛みなのにこんなにも心地良いとは。
胸の奥底が蕩ける。冷え切った氷に熱湯を注いだように、自分の心を突き刺していた冷たく鋭い刃が溶け落ちていく。
「これは・・・・・・夢・ですか・・・・・・?」
震える声音のマリアに、カオスは深く澄んだ慈父の如き笑みを見せた。
「そう、夢じゃよ・・・・・・何者であろうと、夢を見られる場所なのじゃよ、ここは」
マリアの視界は、次第に広がるまばゆい白色の光に包まれていった。
続く
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