ザ・グレート・展開予測ショー

これはまあ、それだけの話


投稿者名:我乱堂
投稿日時:(02/11/17)

 その日、ドクター・カオスがマリアを共につけずに家を出たのには、たいした理由はない。
 家の掃除に手間取っていたマリアを置いて出た――それだけのことだ。いつもなら待つくらいのことはしたのだが、その日のその時はそうしなかった。どうして? と問われても答えは用意できそうにない。ただの気まぐれという他はない。まあ、あえて言うなら窓から見上げた冬の空が雲一つなかったから……とでも答えたかも知れない。

 カオスは公園のベンチに座り、ずっと空を眺めている。

 カオスにとっての「冬」は、欧州のそれが基準だ。特にここ数百年の本拠はロンドンが中心だった。海流の影響やらで緯度の割りに暖かい街であったが、それでもこの東京よりは寒い。冷たい風に身を震わせながら、そう思う。
「……しかし、適応しちまうもんじゃな……」
 なんとなく、ぼやく。
 風の流れに精霊の囁きを感じなくなったのはいつからだろうか。春の風は女神の吐息であったかのように魂を暖め、冬の木枯らしは冷たくも情熱の炎に吹き付けてより大きくさせるようであった。それなのに今のそれは違う。春に吹く風はただ生暖かいだけだ。木枯らしの冷たさは、熱い魂をも凍らせるようであった。あの頃の自分なら、こんな場所で息をするだけで腐っていく……そう叫んだに違いない。
 あの頃――

 
 こんな淀んだ大気などとは比ぶるべくもない、精霊と神の力が満ち溢れていた古代の息吹を微かにでも残していた時代。後の世において「暗黒時代」とも称された、信仰の名において野蛮が席巻し、叡智が貶められた、あの時代。
 愛する者が隣にいて、この幸せがいつまでも続くのだと信じていられた。
 そんなはずはないのに。
 自分は知っていたはずなのに。
 いつのまにか彼女は外を出歩かなくなった。執務が増えたから、という言葉に疑いを持たなかった自分は愚か者だった。年経るごとに容色衰えていくことを、彼女は密かに恥じていたのだと、自分は何故気づかなかったのか。
 ……五年が過ぎていた。
 危篤の報を受けて急ぎ駆けつけて初めて、カオスはそれだけの時間が過ぎていたことに気づいた。
 ベッドの上で、彼女は横たわっていた。
 仮面をつけていた。
「外さないでください」
 若き日の己を模した仮面の下から、彼女のかすれるような声が聞こえた。
「私は……醜くく老いてしまいました」
 そんなことはない、と言ったような気がする。多分。あのときに自分が何を口走っていたのか、その詳細をカオスは覚えていなかった。ただ彼女の、姫の言葉は一言一句漏らさずに記憶している。
「もしも時が戻せるなら」
 喘ぐように……喘ぐ中で、彼女は言った。
「一度で言いから、あなたと腕を組んで、青い空の下を外を歩いてみたかったです……」

 肺炎だった。
 
 あの頃の自分がそばについていたなら、苦もなく治せていたと思う。それどころか不死はともかくとして、数百年レベルならば延命をも可能だったのかも知れない。
 しかし全てはifの世界の話だ。
 カオスは彼女に何もできず、彼女はカオスに何も求めなかった。
 ただ、一緒に歩きたいとだけ……。


「……慣れてしまうものだな」
 カオスは、またぼやいた。


 彼女の仮面だけを持ち帰り、製作した人造人間の顔に嵌め込んだのには、感傷以上の理由はない。そうすれば彼女が蘇ったかのような気がするなどと、一瞬たりとも考えなかった。そうやって彼女ではない彼女の声を聞いたなら、自分は悲しさのあまりに死んでしまえるのではないかと、そう期待しないでもなかったが。
 初めてマリアの声を聞いたとき、辛くて辛くて。
 そして、自らが新たな生命の創造主になれたという喜びが、そんな思いが何処からか湧いてでたことも感じた。
 
 自分はもう、人間ではなくなったのだと――初めて理解した。


「――ん?」
 空を横切るジェットの雲……通常の飛行機などより低空を飛ぶあれは……。
「――探しました・ドクター・カオス」
「マリアか」
 降り立った自らの創造物を見て、カオスはふっと口元を緩めた。
「ドクター・カオス?」
「そうか、探させたか」
 それはすまんかったな、そういいながらよっこらしょと年よりくさい掛け声をあげて立ち上がる。
「――では、帰るとするか」
「…………?」
「何を驚いておる?」
「いえ」
 マリアは自分の右手に回されたカオスの腕をしばし眺めていたが、いつもどおりの無表情でカオスを見て、前を見た。
 そして、歩き出す。
 カオスは空を眺めていた。
 
 埃の払い落とされた、真っ青な空。

 これだけはあの時代と変わらない。
 だからといって、自分がこうしていることで彼女が喜ぶなどとはカオスは思っていない。これは単なる感傷だ。代償行為とも言えぬ。なんでこんなことをしているのかと問われても、そうとしか答えられないだろう。
 しかし、カオスの顔には微笑が浮かび、うつむき加減なマリアも、どこか嬉しそうだった。

 こんな時に笑えれば、どんなによかっただろう。

 マリアは百年前に己の笑顔を封じ込めたことを、深く……それは深く後悔した。


 ……これはまあ、それだけの話だ。

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