ザ・グレート・展開予測ショー

夢幻の如く〜五月雨〜


投稿者名:ロックンロール
投稿日時:(02/10/ 4)

 夏の訪れにはやや早い。
 旧暦の天正十年、皐月二十六日の昼前。十兵衛は愛馬の背に揺られていた。
 今は近江から丹波へと走る街道。粛々と行軍するのは、水色桔梗の旗印――明智日向守光秀の軍勢であった。ここでは、旧名の十兵衛を以って彼の名とする。
 行軍は進まなかった。既に丹波国に入り、丹波領の亀山城は指呼の間である。折からの朔風に兵があおられているという理由もあろうが、その真の理由は、今のところ十兵衛ひとりの胸の内にのみある。
(……俺は何をしようとしているのだろうか)
 その理由は、十兵衛自信にも解らぬ。
「殿、どうかなさいましたか?」
 十兵衛の不審を見て取ったのだろう。十兵衛の馬に、家老の溝尾庄兵衛が近づいてきた。――彼は馬に乗ってはいない。明智家中でも高い威を持つ彼は、本来ならば騎乗して然るべきなのだが、彼自身がそれを断っていた。
 常に主の側らに。
 その時庄兵衛は言ったものだった。
 故に、彼が騎乗するのは、よほどの大事か、もしくは戦の場合のみである。こればかりは、娘婿の弥平次秀満や、筆頭家老の斎藤内蔵助利三にも真似は出来ないであろう。
「いや、少し……行軍が遅いのではないか?」
 十兵衛は当り障りのない応えを返し、馬上で再び沈黙した。自分は、本当に何をしているのだろう――自問すれども、答えは出ない。
(俺は……脅えているのか?)
 腹心の庄兵衛や斎藤内蔵助利三にも明かせぬほどに。
 答えは……出ない。
 決意も……出来ない。
「向風が強いので……これ以上の速度の行軍は出来かねますが。それ程急がんこともないでしょう。筑前の山猿めの援軍など……ゆるゆると行軍して、兵を損ねないように――」
「いや、良いのだ庄兵衛。……すまなかったな」
「は? いえ、何を仰られますか、殿。私は、殿の主命に従うのみです」
 十兵衛は黙然として応えず、再び思索に没頭した。
 近江の国、安土に、既に信長はいない。
 今は二条の館に移っているだろうか。――おそらく近いうちに、京の定宿である本能寺に移宿するとは思われるが……今の信長の供回りは多くない。精々千名――下手をすれば、五百名以下かも知れぬ。
(それに対し……現在我が軍が動員できる兵力はおよそ二万弱)
 好機といえば、またとない好機ではある。
 ――後は、決断。
(俺に……出来るだろうか)
 信長を――
(上様……いや、信長を――)
 …………
(――討つことが!)
 十兵衛とて戦国の武将である。当然、天下人になるという夢は持っていた。――その第一段階として、信長と前将軍・足利義昭を引き合わせたのは、他ならぬ十兵衛である。
(だが……)
 信長の天下取りは、余りにも苛烈に過ぎた。
 地盤を固める暇も惜しみ、次々と京や近江の諸大名を従属……または屈服させ、それを成功させることによって、急速に範図を拡大した。信長が安土に城を築いてからは、既に十兵衛は織田家を抜けることは出来なくなってしまっていた。
 丹波、亀山城下に差し掛かったとき、十兵衛は、側らの庄兵衛に問うた。
「庄兵衛……お前たちにとって――いや、お前にとって上様とは……なんだ?」
 庄兵衛は、突然の問いに少々驚いたようだった。――しばしの逡巡をはさんで、彼が言葉を発する。
「上様は……私にとって殿以上の存在ではありません。私は常に、殿の決定に従うのみです」
 その答えは意外なものではあったが、反面、予想できた答えでもあった。
「そうか……」
 十兵衛は再び黙し、庄兵衛もそれ以上は語ろうとせぬ。この主従は淡白に見えても、お互いの心が伝え合っているとでもいうのか。
 実際、十兵衛には、庄兵衛の考えていることが――
 恐らく庄兵衛にも、明智日向守光秀が何を以って問いを発したのかが判り切っているのだろう。ただ、二人とも、それを安易に言葉に出したりはせぬ。
 それに、その必要もない。
 十兵衛は庄兵衛を見据えながらも――遠くに、織田信長の姿を見ていた。
 当代の、天下人。
『人間 五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり ひとたびこの世に生を受け 滅せぬ者のあるべきか……』
 そして……『敦盛』。
 皮肉にも、それが十兵衛に最後の一押しをしてくれた。
 明智日向守、このとき五十五歳。
 既に『五十年』を過ぎ、いつ自分にも『下天』が訪れるかは判らない……
 されば……
 されば…………!
「人間…………五十年……」
「――殿?」
 庄兵衛がいぶかしむような声を発するが、最早十兵衛はそれを気に掛けたりはせぬ。……また、その余裕もない。十兵衛の眼の前にいるのは――
 織田信長。
「下天のぉ…………うちをぉ…………くぅらぶればぁ……」
 そう、どうせいつかは死ぬ身。既に五十を過ぎ、自分の『下天』は――近い。
「……夢、幻の如くなり……」
 されば、この好機を生かさずしてなんとするか……!
「……庄兵衛」
「は」
「明後日だ。連歌を催すので、家臣を亀山城の西館に集めよ……」
「ははっ!」
 亀山の城は、既に近い。



 天正十年、皐月二十八日。
 この日は、朝から五月雨が降りそそいでいた。……二日前の晴天が、そして、昨日の快晴がまるで嘘の事であったかのように、天はその涙を地に落としつづける。
 十兵衛は既に亀山城西館の畳に座し、いつもの如く黙然と抹茶を啜っていた。
 茶の湯が、利休により茶道として大成されるのは、秀吉の時代になってからではあるが、それ故、それ以前の武将は、純粋なる嗜好として茶を喫する。大成されたが故に、秀吉により権力の道具として使われる……皮肉な事に、この時代の茶の方が、純然たるものであっただけに美しい。
 自ら点てた茶を、自ら飲む。
 十兵衛は、そうしながらひたすら待っていた。
(……そろそろ、か)
 時を見て、十兵衛は茶具を片付け、さらに、一束の丁寧に折られた和紙と、硯に墨を取り出した。
 そろそろ、連歌の宴が始まる時刻だ。――家臣らも、出頭するだろう。すぐに。
 ――と、障子の向こうに人の気配がした。
「溝尾庄兵衛茂朝……参りました」
「……入れ」
「失礼します」
 初めに出頭したのは、やはりと言おうか、庄兵衛であった。元々庄兵衛が詰めている家臣屋敷は、この西館からさほどは遠くない。彼が初めであることは、ある意味当然と言えなくもない。
 続いて、
「斎藤利三、参上仕りました」
「義父上、弥平秀満、参りました」
「殿、藤田行政です。参上いたしました」
「光忠、参りました。お目通りをば」
 十兵衛がこの場に呼んだのは、この五人のみであった。後は、読み手として、近くの寺の住職を招いているが――彼は後に必勝を期した斎藤利三の手によって殺害されている。
 その住職も、合羽を被って到着し、連歌が催された。
「では、まずは主催の明智日向守殿から……」
 住職は障子の向こうをちらりと見、
「題目は、『雨』と致しましょう。それでは、日向殿、発句をば……」
 十兵衛は頷き、そして、実に静かに、和紙に筆を滑らせた。
 明智光秀は風流人としても有名である。彼は、茶、歌、舞いなどの各種の風流ごとに長けてい、それが故公家の信頼も厚かった。
 その十兵衛がこの時読んだ歌が……
『ときは今 雨が下しる 五月かな』
 であった。
「! ひゅ、日向殿……それは――」
「殿ッ!?」
 真っ先に叫んだのは住職、続いて、斎藤利三が絶叫した。
 他の家臣たちも、思い思いに驚愕をありのままに表し、ただただ十兵衛を見据えている。
 唯一、平静を保っていたのが、溝尾庄兵衛であった。
「……やはり、ですか。殿」
「…………うむ」
 十兵衛は首肯した。
 既に語ってしまった以上、これ以上何をしようとも何も出来ぬ。ただ、十兵衛の腹心とも言うべき五人の家老――彼らには伝えておこうと思った、十兵衛のこころひとつの問題に過ぎぬのだ。
 それが故、信ずる。
 いつの間にか、家臣たちは平静を取り戻していた。
「溝尾、斎藤、秀満、藤田、光忠。俺はお前達を信じることにした。……だから、今伝えたのだ。最早覚悟は決まった。俺は、上様――いや、織田信長の首を討つ!!」
「殿……」
 庄兵衛は眼を閉じている。利三は微笑を浮かべていた。……秀満に至っては、満面の笑みを浮かべている。
「嬉しゅうございます……」
 藤田が声を発した。
「我らに……殿のご決断をはじめに語って頂いて……」
 茶室は、既に涙声で満ちていた。……十兵衛の眼からも、なにやら熱いものがこみ上げてくるのがはっきりと感じられた。――十兵衛は、うめいた。
「お前達、俺に……付いて来てくれるか?」
 五人は顔を見合わせ、そろって満面の笑みを浮かべ……そして、静かに頷いた。
「殿……」
 十兵衛の眼を見据え、庄兵衛が言う。
「我々は、殿のご決断に従うまでの事です。……我々は、織田の家臣ではない。殿の、家臣なのですから……」
「……かたじけない……ッ」
 ――その夜、亀山城内では、夜を徹して酒宴が行われた……

〜続〜

今までの コメント:
[ 戻る ]
管理運営:GTY+管理人
Original GTY System Copyright(c)T.Fukazawa