ザ・グレート・展開予測ショー

夜、唄う 後編(Y)・完結


投稿者名:馬酔木
投稿日時:(02/ 8/ 4)

 恋はこれまで、沢山した。
 「良い」と思った男は沢山いるし、退屈だと電話をすればプレゼント付で馳せ参じてくる遊び相手は沢山いる。

 でも、この子はそんなのとは違う。
 「良い」ではなく、「好きだ」と思ってしまったから。
 恋ではなく、愛したいと心の底から思ったから。

 ―――思ったから、覚悟を決めて、エミは呼んだ。



「……ピート」

 名前を呼ばれ、足を止めて振り向き、はあいと返事をする声も今はどこかあどけなく見える。
 美智恵にもらったマフラーが飛ばないよう、しっかり押さえて駆け寄って来た子どもの頬を撫でて、エミは笑った。
 優しく微笑みながら立ち上がり、ピートを優しく抱き締める。
 いつも唐突に抱きついたりしてくるのはエミのスキンシップの特徴として、ピートの方もすでに「逃げ」から「慣れ」の領域へと達している。
 それでも、今日の抱きつき方はどこかいつもと違う気がしたのだろう。
 「あれ?」という感じで顔を覗き込もうとしてくるピートの頭に手をやって撫でると、エミは優しく言った。

「ねえ、ピート。今年のクリスマス、ミサをやらないなら、空いてるワケよね?」
「え?……ああ、はい」
「じゃあ、一緒にクリスマスパーティーしない?」

 渡そうと思っていた―――あれほど渡そうと思っていたブローチと、ディナーのチケットを入れたバッグはベンチの上に置いたまま、エミはピートを抱き締めて言った。

「うちに来て、パーティーしましょう。クリスマスツリーを飾って、クラッカー鳴らしましょう。ケーキと、鳥の丸焼きなんかも作りましょうか」
「エミさんが……?」
「そうよ。これでも料理は得意なワケ。それとも、ピートも一緒に手伝ってくれる?」
「あ、はい!勿論です」
 楽しそうに―――これまで、ディナーやそういう類のパーティーに誘った時とは違う笑顔で頷くピートに、エミも笑い返す。
 ただ優しげにこちらを気遣って笑いながら頷いてくれていた時とは違い、ピートもその日が来るのを本当に楽しみにしているような―――。
 まるで遠足前の子どもだとエミは笑い、そして、欠落を抱えたピートを優しく優しく抱き締めた。

 与えられなかったものは、与えてやれば良い。
 空いたままの欠落なら、埋めてやれば良い。

 失ったものは戻らない。
 与えられないままぽっかりと空いた欠落は、今更もうどうしようもない。
 もう二度と、どうすることも出来ないものなど、あるのだろうか。
 そんなもの、あってたまるかと、エミは心の中で口唇を噛み、ピートの頭を自分の肩口に埋めるように強く引き寄せた。
 自分もピートの肩口に顔を寄せ、マフラーと髪の合間に覗く白いうなじを見つめる。
 夜の中を一人きりで歩いてきた、白いうなじの子ども。
 そのいたいけなうなじをそっと撫でて、そのまま頭を抱え込むように抱き締めると、ピートは少し驚いたようだが何も言わなかった。
 ―――この、大人になったふりをした少年の中に、七百年の欠落がある。
 与えられるべき時に与えられなかった彼の欠落。
 放っておかれた七百年という時間の間に子供は大人の鎧を身に着ける事を覚えてしまっていて、おそらく自分でももう自分がまだ子供のままだと言うことに気づいていない。与えられなかったから知らなくて、知らないから自分の欠落に気づかないのだ。
 その底深い空白を果たして自分だけで埋めることが出来るのか、それはわからない。
 それでもエミは、もう覚悟を決めたのだ。

 この子の欠落を、孤独を、埋めてやるのだと。
 暗闇の中で蹲っている子どもを引きずり出して、もう一度、育て直す。
 暗闇の中で唄っていた、いたいけなうなじの子ども。
 あの子どもの手を取って、明るいところに連れ出して。
 大人になったと必死で思い込んでいる子供に子供のものを与えようとしても拒まれるだけだから、聖夜の浮かれた空気でごまかして、エミは与えようと思った。
 何十万円もする高価な時計や洋服よりも、ふかふかのぬいぐるみや、騒がしいクラッカーの音や活気のある歓声を。
 凝った内装のレストランで夜景を眺めながら食べるディナーではなく、さして広くもないけれど生活の気配が染みついた台所で食べる温かな手作りの夕食を。
 与えられなかった全てのものを、欠落を、幸せな思い出で満たしてやりたい。そして、出来ればそれを自分の手で成したいと、エミは思った。
 男相手に百戦錬磨で鳴らした自分がピートだけは落としきれなかった理由をエミはようやく理解した。
 彼自身が、男である以前に子供のままだったのだ。
 女よりもまず母親を知らなかった相手に恋人として近づこうとしても上手くいくわけがない。そんな相手を好いたのだと気づいた時にはもう離れる事が出来ないほど惚れきっていたから。
 だからエミは決めたのだ。
 与えられなかったのなら、与えてやれば良い。
 彼の欠落を埋めて、子供から大人へと、もう一度育て直せば良い。
 恋愛なんていつでも出来る。けれど、彼の中にぽっかりと空いた暗い穴は早く埋めてやらなければそれだけ深く大きく広がっていくような気がした。
 頭を撫でる手を知らずに育った子供。
 途中までしか憶えていない子守唄。
 家族のそれと言うにはあまりに朧げな記憶。
 自分の顔から母の面影を探そうにも彼の顔はあまりにも男親に似過ぎていて、それでなくてもほんの僅かしかない記憶の中の残像は年と共に磨り減り消えていく。消えていくからしがみつこうと少年は儚い記憶に縋り付き、流砂に呑まれるように過去のしがらみに引きずり込まれて前には進めず子供のまま立ち尽くしている。
 だから、もう一度育て直せば良い。
 今度はちゃんと与えられるべきものを与えて、子供から大人へと育てれば良いのだ。
 失われたものは戻らない。与えられなかったものはどうしようもない。
 そんなことはない。
 そんなことはないとエミは思いたかった。



 失ったものは、埋めてあげる。
 与えられなかったものを、全部与えて。
 そしてもう一度、育て直すのだ。
 今度こそ、本当の大人になれるように。

 恋人よりも、母親になって。
 息苦しいほど愛するのだと、エミは決めた。

 自分では大人になれたと思い込んでいる目の前の少年の欠落を、幸せな思い出で満たして。
 今度こそ、本当に大人になれるように慈しんで。
 この子が大人になれた時、まだ自分を「女」として見てくれたなら、その時にまた恋をすれば良い。

 愛するために、恋を捨てる覚悟を、エミは決めた。

 愛のために、恋を捨てた。



 覚悟を決め、抱き締めたまま離さない自分の沈黙をどう受け取ったのか、ピートがまた再び、小さな声で子守唄を唄い始める。
 不自然に途切れるぎこちない回転を続ける子守唄を聞きながら、エミは、その途切れた空白を埋める覚悟を決めて目を閉じた。
 目を閉じて、小さく唄うピートの頭を抱き締め、エミは思った。

 これから数十年ばかりの自分の人生で、この子が数百年間抱え続けてきた空白の内の、どれだけを埋められるだろうか―――

 考えようとして、エミはやめた。
 それはあまりに虚しい計算であり、考える意味の無いものだった。

 もしかすると、ピートがこれまで歩んできた数百年の道程の中、自分と同じように彼の欠落に気づき、埋めてやろうと足掻き、命の長さの違いを前に死に別れるしかなかった人間はこれまでにもいたのかも知れない。
 自分を含めたそんな人間達が命の違いという大きな壁を前に、彼にしてやれる事など微々たるものなのかも知れないが、それでも、全てが無駄だとはエミは思わなかった。
 もし自分が彼の欠落を満たしてやれずに終わっても、また別の誰かが彼の欠落に気づいてそれを癒そうとしてくれるかも知れない。
 そして、そういった事を繰り返して、いつか彼の欠落が満たされる時が来たなら、それで良い。
 自分に出来る事が彼の長い人生の中で見たらほんの小さな事であっても、ただ今は、自分が出来る全てでもってこの目の前の寂しい子どもをひたすら愛してやるだけだ。

 覚悟を決めて、エミは、ピートの頭を自分の頬に押しつけるように抱き締め、抱き寄せた。

 暗い天から再び降り出した薄い細雪のさやさやという微かな音に紛れるように、ぎこちない子守唄が夜の中に溶け込んでいく。



 女が一人、愛するために恋を捨てた夜。

 途切れ途切れに回転する寂しい子守唄の柔らかな旋律が、誰かの切ない祈りのように夜の空気を揺らし、響き、消えて行った。





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