ザ・グレート・展開予測ショー

夜、唄う 後編(W)


投稿者名:馬酔木
投稿日時:(02/ 8/ 4)

 うなじ。白いうなじ。彼のいたいけな部分が集まって露出したような頼りなく白いうなじ。
 あの胸を締め付けられるほど無垢な肌が一体何に似ているのか、エミは気づいた。
 あれは子どもの肌だ。赤子の肌だ。
 親に抱かれ、その腕に守られているべき子どもと同じ、無垢であどけない白い肌。
 あのうなじは、彼に残されたいたいけな部分が集まって露出していたのではない。
 大人になったように見えて、本当の彼はどこもかしこも幼いのだ。心も体も上手に大人の顔で覆われた中で、髪に隠されたあの白く頼りないうなじにだけ子どものままの顔が剥き出しになっていたのだ。
 あのうなじを見るたびに、一体何を連想しかけて考え胸を痛めていたのかエミはわかった。
 子どもだ。一人きりの子どもだ。
 自分を抱く親を知らない、自分を守ってくれる腕を持てなかった、優しく頭を撫でられることの無かった子どもだ。
 美智恵が戯れに頭を撫でたその時、ピートの目にほんの一瞬浮かんだ感情。
 恐らく本人も気づいていないであろうそれは、エミの胸に焼きついてたまらなかった。
 生まれ故郷の海と空の色をそのまま映し込んだような青い瞳に、ほんの一瞬だけ浮かんだ心底からの歓喜。自分のしたことを褒められたり感謝されたりして全く喜ばない人間などまずいないだろうが、ピートの目に浮かんだ歓喜はあまりにも素直過ぎた。
 あれは子どもの喜び方だ。
 打算や複雑な考えなど欠片も無い、本当に単純に喜ぶ子どもの目だ。
 七百年も生きていて、上手に大人になったような顔をして、あの子はまだそんなにも子どもだったのだ。
 ふわりとそよぐように頭を撫でた美智恵の手が離れていく時、子どもじゃないのにと照れを装っていたピートの瞳はその瞬間名残を惜しむような寂しい光で覆われていた。
 戯れに頭を撫でた手に、ピートは本気で喜んでいた。そしてその手が離れていくのを嫌がっていた。
 全て本人に自覚など無いだろうが、戯れに触れた手にピートはそこまで反応したのだ。
 それほどまでに飢え、与えられなかった孤独な子どもがピートの奥底に潜んでいるのを知ってエミは肺を引き絞られるような胸の痛みを感じた。
 大きなデパートを抱え持つ繁華街は夜になっても賑やかで、さやさやと穏やかに降り続く雪を髪や肩に乗せながら歩き笑いさざめく人込みの中をただ一人悲壮な顔で駆け抜けながら、ピートの背中を探す。
 ちょうど帰宅ラッシュともかち合う時刻の歩道はひどく込んでいて、エミは泳ぐようにして人をかき分け、追い抜き、すり抜けて走った。視界の端を黄金色の頭が掠めると、それが車道を挟んだ反対側の歩道であっても立ち止まって確認し、違う顔であることを見て肩を落とす。ピートと別れてから追いかけるまでそれ程長い時間差があったわけではないのにピートの姿がなかなか見つからないことにエミは焦り始め、そして何時の間にか人込みを抜け繁華街を抜けかけた時、まばらになった人波の向こうに捜し求めた後ろ姿を見つけ、エミはすぐに呼びかけようとして喉もとまで出かけた声を飲み込んだ。

 ―――ああ、この子の背中はこんなに小さかっただろうか

 歩道沿いに据え付けられた街灯が放つ人工の真っ白な強い光に脳天から照らされたピートの後ろ姿を見てエミは、突つけばそこから崩れて消えてしまいそうな頼りなげな雰囲気に伸ばしかけた手をふらりとさ迷わせた。
 緩く首に巻かれたマフラーと、歩く動きに合わせて揺れる後ろ髪の合間から、ちらちらと見え隠れする白いうなじ。
 無節操なほど強く輝く街灯の目映い白い光に照らされたそこはいつも以上に白々と寒く照っているように思えて、エミはずきりと痛んだ胸をコートの上からギュウと押さえた。
 ピートのあの白く頼りないうなじを見るたびに連想しかけては消えていたものが、今夜初めてぼんやりと像を結ぶ。
 子どもの背中だ。寂しい夜の中をひとりきりで歩いている子どもの背中だ。
 あの幼い背中を抱き締めてくれる者は誰かいなかったのだろうかと考えて、エミはピートを敬う島民達の事を思い出した。
 彼らは、ピートを大事にしている。
 いずれは自分達の上に立ち、導いてくれる存在として敬愛し大切にしているのはピートに対する島民の期待とそれに応えようとしているピートを見ればわかる。
 しかし、彼らの中に、ピートをただの子どもとして愛してくれた者がいるだろうか。
 上に立つ者に向けるような敬愛や畏れといったものから発生する類いの愛情は、本来幼い子どもに与えられるべきものとは異なるものである筈だ。
 ピートはあの島の皆に愛されている。
 しかし、幼いピートをただの子どもとして慈しんでくれた者がいるだろうか。
 きれいな絹の服を着せ革の靴を履かせてやるのではなく、ただ彼の頭を撫で抱き締めるということをした者が果たしているだろうか。
 ブラドーに対する恐怖の裏返しのように、ピート様ピート様といっそ盲目的なほど彼を敬愛していた島民達を思い出して、エミは哀しくなった。
 いっそピートが重い期待に潰れてしまうような弱い少年だったら良かったろうに、あいにくピートには島民達の期待に応えるには十分過ぎる才能と、期待に応えようとするだけの生真面目さが備わっていた。
 だから、本人も誰も気がつかなかったのだ。
 今、エミの目の前を歩いている儚いほど白いうなじの少年が、その身に大きながらんどうを抱えていることに。
 すっかり大人になったつもりでいるその空虚な背中に、エミは泣きたくなった。
 好きだ惚れたと騒いでおいて、一体自分はこの子の何を見ていたのだろう。
 騒ぎまくって迫っている内にほだされてくれたのか、最近ではピートも前ほど逃げなくなってプレゼントを素直に受け取ってくれたりピートからも何かくれたりするようになったのが嬉しくて、浮かれていた。
 欲しがればどんな玩具でも出してくれる魔法の箱を手に入れた子どものようにただただ嬉しくて浮かれていた自分に、ピートは合わせてくれていたのだろう。
 その間に、自分は一体何を見ていたのか。
 初めてプレゼントを受け取ってもらえた時、贈った帽子を律儀に被って見せに来てくれたのが嬉しくて、それからも次々靴やアクセサリ―を押し付けた。ディナーにしてもごり押しすれば最後にはチケットを受け取って来てくれるから、それで受け入れられていると思っていた。勝手にはしゃいで高価なプレゼントやレストランのディナーチケットを押し付けて、それでピートを喜ばせている気分になっていたけれど―――ピートは、本当に楽しかっただろうか。
 あの子に必要なのは、あの子が求めているのは、そんなものではないんじゃないか。
 高いお金を出せば誰にでも喜んでもらえるとは限らないのに、そんな簡単なことも忘れて浮かれていた自分をエミは悔いた。
 ディナーチケットを添えて渡そうと思っていたピンブローチの小箱が、バッグの中でにわかに重みを増す。
 デートにだって何度も付き合わせたくせに、一方的に浮かれるだけでピートの欠けた部分に気づかなかった自分に対する怒りと後悔を引きずって、エミはさ迷わせていた手を伸ばすとピートの上着の裾を掴んだ。

「ピート!」
「っ、わっ!?」
 思ったよりも強く引っ張ってしまったのか、それともピートがぼんやりしていたのか、ジャンパーの裾を引いて止めると、ピートははっきりそうとわかるほど大きく肩をびくつかせて立ち止まった。
「エ、エミさん?」
「ピート……」
 呼び止めた声で気づいたのだろう。後ろにいるのがエミかどうか確かめるというよりも、どうしてエミが追いかけて来たのかということを尋ねる口調で名を呼びながら振り向いたピートの顔が、一瞬幼い子どもの顔に見えて、エミは呆然とした声でもう一度ピートの名前を繰り返した。
 彼の中に潜む欠落に、気づいてしまったからだろうか。
 胸元でマフラーの端を押さえている手も、きょとんとした顔で自分の方を見ている表情も、何もかもが寂しくいたいけな雰囲気をまとっているように見えて、エミは目の奥がツンと熱くなるのを感じた。
 呼び止めたまま何も言わない自分を、どうしたんだろうと不思議がったのか、大きな青い目をぱちくりと瞬きさせて小首を傾げる。その仕草でまた露になった白い首の儚さに、満たされぬ欠落を抱えたまま大人になったつもりでいる子どもの脆さを感じ取ってエミは涙も無いままただ表情だけを歪めた。
「エミさん……?」
 声も無いまま心の中だけではらはらと流される涙に歪んだエミの顔を見て、ピートは曖昧な微笑を浮かべる。
 エミが時折、こうして自分の何かを見て泣いているような苦しそうな表情をすることに、ピートは気づいていた。しかし、自分ではすでに自覚できない欠落を抱えているピートは、エミが彼の欠落を感じ取って涙していることに気づけないでいる。
 ただエミの心を覆う蔭りを払うことが出来ればと、笑うことしかピートには出来なかった。
 その、自分の虚無さえ自覚していないただただ優しいだけのあどけない微笑みに、エミはますます心を引き絞られる。
「……あの……とりあえず、どこか、座り……」
「……ピート」
 繁華街を抜けた所で人の姿もまばらとは言え全く人気が無いわけではなく、時折、擦れ違う者が邪推の入った詮索めいた視線を投げかけてくるのを気にしてきょろきょろと辺りを見回すと、少し行ったところに児童公園があるのを見つけてそれを指差す。
 そんなピートの言葉を遮ってその名を呼び、手を握ると、エミは囁くように言った。
「……聞かせて。子守唄を、聞かせて」
「え?エミさん?」
「子守唄を唄って。唄ってほしいワケ……!」
 悔恨に押し潰された胸から出る声は、掠れてか細く。
 俯いたままただそれだけを繰り返すエミにピートはしばし困惑していたが、やがて小さく、「はい」と頷いた。

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