ザ・グレート・展開予測ショー

プロメーテウスの子守唄(45)


投稿者名:Iholi
投稿日時:(02/ 1/23)

* * * * *

 横島が起きるより遥かに早く、朝の5時過ぎにキヌは目を覚ました。

 氷室家に帰省した時の約束事として、これから姉と一緒に朝の禊(みそぎ)をしなくては成らない。しかし今朝のキヌは日の明け切らない曇り空の様に重たい心境だった。
 昨夜観た夢の中の自分はこの上無く幸せだった。はっきりと顔を憶えている訳ではないが、彼女の耳にははっきりと「両親」の暖かな温もりと共に紡ぎ出された「子守唄」が強く残っている。唄声の導くままに幸せな眠りの中に埋もれ、次に気が付いた時に……目が覚めた。
 温もりの余韻が早朝の寒気によって徐々に冷めていくにつれて、彼女の心の中で顕在化してくる「子守唄」と「両親」との思い出。そして、その裏側に澱(おり)の様に纏わり着く、氷室家の人々への裏切りの念。自分が夢の快楽に溺れれば溺れる程、どす黒い罪悪感は粘性を増して自分を飲み込もうとするのである。
 上体を起こしたまま、キヌは暫(しばら)く身体を動かす事が出来ない。
「……おキヌちゃ、もう起きてるけ?」
 全身総毛だった。声を上げるのも忘れて、不意に呼吸をする事を思い出し、気持ちが落ち着いてから漸(ようや)く襖越しの声の正体が姉・早苗であると気付く。
「うん、起きてるよ。」
「……そっけ。」
 今日の姉は随分と我慢強い。普段ならば低血圧気味の妹を奮い立たせんと大音声を揚げて叩き起こしてくるというのに、今日は返事を返す迄のそれなりに永い間の間もずっと襖の向こうで待っているのだ。
 正直今のキヌには姉に合わせる顔が無いので、まあ有り難い事だ。欠かさず続けてきた朝の日課もせめて今日だけは休ませて貰おう。
「あのね、お姉ちゃん、今朝のお努めなんだけど……。」
「どーだったっぺ? その、本当の父っちゃと母っちゃは。」
「……へっ?」
 一瞬、何を言われたのか解らなかった。
 沈黙を窮屈がるような調子の声が返ってくる。
「……あのさ、その、そのつもりは無かったっぺども、一〜寸だけ観えちゃったっぺよ。その、おめさがどんな夢さ観てたか、ね。」
「……あ。」
 早苗の霊能力はオカルトGメンの西条すらもその素質の素晴らしさを舌を巻く程の「霊媒体質」。遥々(はるばる)東京から飛んできた霊能力者のテレパスィを彼女を通して増幅し、鮮明な音声で連絡を取り合う事すら可能であったのだ。つまり期せずして強い念に因り生じた「霊夢」を受信して、それを観てしまう事も不可能な事では無い筈だ。
 つまり、今朝の早苗が異様に温和(おとな)しいのも、或る程度の事情を察しての事。
 キヌは寝巻きの胸の前で腕を交差させる。まるで胸の中の大切な物を慈しみ、抱き締める様に。
「……うん、とっても大きくてあったかくて……優しかった。夢の中の小さい私は、とっても幸せだったよ……。」
「それはほんとに良かったっぺな……あ、おキヌちゃ、今日はお努めの方は休んでさ、ど〜かゆっくりすててくんろ。ど〜せここに居られるんもあと一寸の間だけだっぺな。あ、別にわたすらの事は気にすないでい〜から、とにかく自分の時間と云うもんを一番大事、に……。」
 早苗は硬直する。
 紙と木で出来ている「天の岩戸」は開け放たれていた。負けないくらい見開いた瞳の縁に大粒の雫を滴(した)らせた愛すべき妹が今、やはり寝巻き姿の自分を細身をこの上も無く熱く抱き締めている。
 正面に在る妹の唇が、開く。
「でも私も……現実に居る「今」の私も、とおっても幸せ! だって、こんなに妹思いの素敵なお姉ちゃんが居るんだもん!」
「お、キヌちゃ……わ、わたすだって負けねえ位ぇ幸せだぁ! だって、だって、こんなに姉思いの可愛い妹が居るっぺす!」
 また姉の胸も、小さな肉親の存在感を求めて、開かれた。

 薄暗い廊下を本日最初の朝日の一欠片(ひとかけら)が照らし出す頃、既に姉妹の姿は裏山の奥社に在った。仲良く並ぶ装束姿の二人の身体から零れ落ちる水飛沫(みすしぶき)の一つ一つが生まれたばかりの朝日に浄化され、二人の心の奥底に蟠(わだかま)っていた沈殿物を綺麗さっぱり雪(そそ)ぎ落とした。

* * * * *

「おや、これはこれは……こんな時分に珍しいお客さんですね。」
 白法衣(カソック)姿の長身の神父が、入り口を潜(くぐ)る更に黒衣の長身を見止めた。ステンドグラスを透過する木漏れ日の様な朝の日光は、質素な作りの教会の中の空気に初夏らしい温もりを加えつつ、白塗りの壁を素朴な原色で塗り尽くして、何とも浮世離れした空間を演出している。
 黒衣の老人は逆光の中に浮かんで見える祭壇の威容に溜め息を漏らしながらも、中央の通路を真っ直ぐに進んでくる。他の信者の姿は特に認められない。
「まあ、早起き老人の、ほんの気紛(きまぐ)れじゃ。」
 光の加減か、くすんだ老人の肌の色も気持ち艶々しく見える。
「しかも、マリアを同伴せずお一人とは、これはまた一段と珍しい。」
 唐巣神父は微笑みつつ、聖書を持っていない右手で丸眼鏡のフレイムの角度を直す。
 老人、ドクターカオスは眼鏡からの反射光に眩しげに眼を細めて答える。
「それもまあ、ほんの気紛れじゃよ。」

「……それにしても、残念じゃったのう。」
「……それにしても、残念でしたねえ。」
 直射日光が顔面に当たらない、右の最前列の席に並んで腰掛けた二人は、同時に嘆息する。
 唐巣としても、己の良心の許す最大限の譲歩の末にカオスの提案に乗ったのだ。
 この長引く不況の折り、主に信者からの寄進と不動産の収益で成り立つ教会の経営は益々悪化するばかり。オカルトショップ店主である知り合い・厄珍の入れ知恵による今回の計画、即ち「完全なる合成霊魂による人造人間の量産」が、延(ひ)いては景気回復の良い起爆剤になるかもしれないから……と自分に言い聞かせつつ、成功時の利益を必要最低限だけ受け取るとの条件で自分の有能な弟子を貸したのだった。
 そしてドクターカオス全盛期の約700年前に美神を派遣して失われた合成霊魂の作成法を記した資料を取って戻らせる予定が、結局横島たちを交えた大人数で300年そこら前に遡(さかのぼ)っただけ。当然、件の資料なぞ跡形も在ろう筈が無い。
 結果、再度の作戦の実行は今回の一件に懲りた美神ににべも無く拒絶され、ここに壮大かつ無謀なかの計画は完璧に頓挫する事と成った。

 机の上に両肘を立てて、その上に組んだ両手の甲の上に顎を乗せた唐巣の目線が、宙を漂っていた右隣のカオスのそれと合わさる。彼らの傍らには折り目正しく畳まれた白い法衣と、ぞんざいに丸められた黒い外套が置いてある。
「……しかし、意外でしたね。貴方も欧州に帰るものとばかり思っていましたが。」
 神父の発言は現在、彼の愛弟子・ピートがブラドー島に郷帰りしているのを踏まえている。今回の件の経緯からすればそれは当然の事と謂えるだろう。
「これも気紛れ、ですか?」
 神父は常に万人に接するが如くに優しく微笑む。
「いや。あの小僧にはまだまだ遣らねばならぬ事が有ろう……母親の事は勿論、父親の事も、な。それに引き換えワシはもう、遣るべき事は全て遣った。あの小僧に対しても、また嘗(かつ)ての師匠として、テレサに対しても。後は、それこそお前さんの主(あるじ)にでも任せた方が良かろうて?」
 カオスもまた皺を浮かせて微笑む。反対側の白壁からの乱反射のお蔭で、正確な顔色は良く判らない。
 唐巣は笑みを絶やさず、言葉を繋げる。
「いえ……貴方、はどうなんです? 貴方自身は、果たしてそれで良いのですか?」
 表情は普段と然程(さほど)変わらないのに、神父の声には日常感じられない不思議な威厳が漂っていた。これこそが彷徨(さまよ)える子羊たちを導く、神の代理人としての聖職者の姿なのだろう。背後の壁からの反射光が、一瞬後光の様にカオスの瞳には映った。
 唐突に、カオスが鼻を鳴らす。訝(いぶか)しさにすっかり笑顔を崩した唐巣の目の前で、カオスは身体を曲げ、愉快げにくつくつと笑い続けている。
 戸惑う神父の前で、老人は漸(ようや)く面(おもて)を上げた。目尻の涙を首筋のスカーフで軽く拭うその顔には、強い知的な意志の輝きが宿っている。
「……くふぅ、ふぅ、済まん済まん。ああ、ワシはもう構わん。喩(たと)い違う時を生きても、異なる所に居っても……一度心を通わせた者同士、心は常に共に在る。今の瞬間にこの身が朽ち果てたとしても、その時こそその思いは永遠の物と成る。……って、どうしたんじゃ神父、急に?!」
 カオスは何とも素っ頓狂な声を上げる。今度は急にふくふくと笑い出した唐巣を見て、逆に驚かされる番だった。
 慌てるカオスの前で、神父は漸く面を上げた。眼鏡をずらして白いハンカチで目頭(めがしら)を拭うその顔には、穏やかな憧憬(しょうけい)の灯火(ともしび)が点っている。
「……ふふぅ、ふぅ、ああ、済みません。いえね、私の旧(ふる)くからの知り合いが昔、貴方のさっきの言葉と殆んど同じ事を言っていたのを急に思い出してしまいまして。」
 神父はしみじみとそう言うと、大きく正面を仰ぐ。何時の間にかステンドグラスに当たる日光の角度が変化しており、かの幻想的な空間は徐々に色を失うのと引き換えに平凡な日常を取り戻していく。あの光景は一日が明けてから間も無い限られた時間にのみ与えられる、神聖なる朝のご馳走なのだ。
「……そう云えば美神くん、今日彼女を訪れるとか言っていたかな。」
 そんな呟きにカオスの顔面には疑問符が浮かぶ。神父は慌てて取り繕う様に、この年長の客人を奥の居住区画へと案内する。まあいざと成ったら虎の子の羊羹でも奮発するつもりだ。
 そして今日も、街中の小さな聖堂に日常が訪れた。

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