最終話:未来を選ぶ横島(コミックス派ネタバレ注意)
投稿者名:くろす
投稿日時:(98/ 7/27)
本当は、物語風まで仕上げて投稿したかったのですが、時間がないのでプロットだけ。
こうやって書いてみると、結構どうしようもなく、ある意味安直でありがちな結末かも。
決して私はこの結末を望んでいるわけでもないです。
しかし、ルシオラ&椎名先生ファンの私としては、今の展開をこの結末以上悪いことにはならないでほしい、と願って考えました。今の展開を保ち、ルシオラを復活させずに、死ななかったことにする、ある意味これは、「夢オチ」なのかもしれません。
また、神族・魔族の存在理由についての自分なりの解釈も含まれていますので、皆様のご意見を頂けたら幸いです。コミックを読み直さず書きなぐったので、いろいろ矛盾点があると思いますが・・・
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意識が朦朧としている横島に、神の最高責任者であるキーやんことキ○○トが話し掛けるところから始まる。
横島は記憶がはっきりしていないので、キーやんは事の顛末を聞かせるが、それによるとアシュタロスは横島達の活躍で無事退治できたが、その代償として自分以外GS達は全員死んでしまっており、横島もルシオラの霊的エネルギーによりかろうじて存在を保っているが時間の問題であるとのこと。
しかし、残されたコスモプロセッサ、残存する魂の結晶、横島の文殊の力により、希望が残されていた。それは、キーやんの力を使い、過去を大幅に改変するものであった。
本来ならば、神の最高責任者が過去に手を加えることは許されないのだが、今回の横島の働きにより、横島の判断でという制限付で特例が認められたのだ。
しかし、最低限、かつ実行可能な選択肢は2つしかない。
一つ目は、アシュタロスはおろか、地球近辺における霊能力存在そのものを抹消すること。もともと、宇宙には神族、魔族の最高責任者しか存在せず、生命体が発生した惑星に、二人の判断により、神族と魔族の部下を創造し、霊能力を生じせしめていた。そして、神族と魔族、及び霊能力を持つにいたった知的生命体との関係から、霊能力自体を進化させ、宇宙を次なるステップに推し進めることが、彼ら二人の役目だったのである。
しかし、地球以外の(他の恒星系の)惑星においても、この試みは今だ成功しておらず、それらは全て(今回の地球のように)失敗した場合には過去にさかのぼって霊能力の存在を消し、もともと霊能力などなかった状態にしてきた。これを地球にも適用する、ということだ。
この場合、現在は霊能力の存在が消えるだけでほとんど変わらない状態になる。
当然、神族、魔族もいないから、アシュタロスももともと存在しなかったことになる。
(すなわち人類も救われる。)
しかし、その存在を神族、魔族に依存してきた人間は、当然影響を受ける。
美神令子は存在しなくなるし、おキヌも死ななかったことになる。
横島は、ごく普通の人間として、もちろん今までの記憶もまったく新しい過去に沿ったものになる。
そして二つ目、これこそ横島の働きにより許された可能性であるが、横島だけ一部の記憶を保ったまま、過去に送り返し、ある時点から(アシュタロスとの決戦を含む)やり直すということであった。キーやんによれば、おそらくアシュタロスによる神界・魔界との接続が切れる前に送り返すことができるから、かなり有望であるという。しかし、問題は二つあり、一つ目はもしこの場合に失敗してもすでにやり直しは効かず、アシュタロスが勝てば地球近辺は魔族に支配されること(注1)、そして横島が過去に送り返されるとき、どの記憶が失われてどの記憶が残されるか、まったく予想できないことであった。
この二つのうち、どちらを選択するかを横島が決断しなければならない。
これは神族・魔族の最高責任者、そして横島にとって賭けであった。
しばらく考えた後、横島はキーやんに自分の決断を告げる。
そして再び薄れ行く意識の中で、自分に言い聞かせるのだった。
「今度こそ、俺が守って見せる!!!」
FIN
(注1)神族・魔族の最高責任者は、アシュタロスの存在を超えているので、全宇宙の支配はありえない。アシュタロスの能力の範囲はあくまで地球近辺だけで、逆に最高責任者も基本的にはその領域に不可侵、という設定。
「私を月まで連れてって!」でも報告を聞いていただけなので矛盾ではない、と思いますが・・・・
今までの 賛成:0 反対:5
コメント:
- コミックスでは「ハルマゲドン(全面戦争)」を避けるために介入しなかったわけで、「アシュタロスの勢力を削減したらあとで小突き回そう」とのセリフがありました。よって「介入」は事情によっては「出来る」のです。(第一、神の最高責任者の判断にたいして、だれが許可のOK・NOをだすのですか?)それと、全人類が死んだ訳でもないのに、(しかも横島は生きているのでしょう?)全地球・(月も含めて)のリセットを一個人に判断をせまるのは神というより悪魔の所業といわれるぞ(笑)そんなんだったら横島を回復させればすむんでないかい?アシュタロスは退治したんだから...(撤退ではないのでしょう?)まあ...過去に戻るのほかは、わたしもかんがえました「生者と死者の垣根をしっかりとした物にする」よって悪霊が現世を荒らす事も減るが神様・魔物も人の世に来る事がなくなる...つまり「GS世界」が「われわれ読者の世界」と同じ程度の状況になる。しかし、それでいいのだろうか?別のコーナーで少しだけ触れたのですが「GS世界はわれわれの世界の『五分後の世界』である」すなわち、試行錯誤ののちに、すこしでも前進した世界だと...それが「進化」かどうかは解釈しだいですが... (TOMO.KIN)
- なかなか興味深い話ですが、反対させていただきます。もしこの「GS美神」が現在のアシュタロス編だけからなるような話だったなら、こういう結末もまあ許容範囲内です。ですが、アシュタロスとの戦いだけが本題ではない以上、このような結末はこれまでの連載されてきた内容をほとんど無意味なものにしてしまう気がしますね。内容というか、設定についてなんですが、時間の流れに介入することは神族、魔族の力をはるかに超えているといった設定がありましたから、例えその最高責任者でも無理だと思います。それから神族魔族のトップ以外にも、アシュタロスのセリフから類推するに、この世界の「造物主」なる存在があるようです。(本来これが「アッちゃん」に当たるはずなんですが、雰囲気的に、どっちかというと「マッちゃん」のような気がしますね。)内容に関しては、TOMO.KINさんが書かれたことに譲ります。 (ホーエンハイム)
- 「ヤっちゃん」だったら、コワイな...(笑) (TOMO.KIN)
- ああっ!ユダヤ教だったら「ヤッちゃん」になっちゃいます。キリスト教でも一応名前は一緒みたいですよね。てことは、「造物主」氏は「ヤッちゃん」ということに? (ホーエンハイム)
- 「過去をやり直す」ですか?それはないと思いますよ。まあ過去にも「ある日どこかで!!」で美神が過去をやり直すような行動をとった事は有りましたが、それに神族・魔族の最高責任者が関わってきたら話がメチャクチャになってしまいます。それにホーエンハイムさんの言う通りGS美神はあくまでオカルトコメディーだと思ってますからこんな展開は断固反対! ところで、神族・魔族の最高責任者以外のこの世界の「造物主」ですが、新訳聖書(漢字合ってる?)から引用すると「エッちゃん」では。 ・・・って、いくらなんでもこれはマズイかも・・・・・・。 (CSU)
- 「エっちゃん」は違います、あちらの言語というか文字には母音にあたる物が無い(だったと思う)ので、神を示す四文字にあとから勝手に母音をあてはめたので、間違って伝わったとされています。ちなみに「みだりに神の名を唱えてはいけない」としたために本当の名が忘れ去られる所だったのではないか?というハナシも耳にしました(笑)...契約の書なので「新約・旧約」が正しい漢字です...それから両方とも同じ名の神様なのですが「旧約聖書」のほうは「嫉妬深い神様」で、「わたしの外に神様と崇めてはいけない」としていますし、「新約聖書」の神様は無限の慈悲のこころを持っているといわれています(ただし、信者にだけ...笑) (TOMO.KIN)
- 「信者にだけ」無限の慈悲ですから、「ヤッちゃん」も「エッちゃん」も本質的に一緒と考えてよろしいでしょう。これはアッちゃんも同じですね。ちなみに読み方によっては「ジョーちゃん」という言い方もあることに気付いてしまいました。(も一つ、マッちゃんもムッちゃんとも呼べます。)…何れにしても、とってもイヤすぎ! (ホーエンハイム)
- え!?「神を示す四文字」ですか?、三文字じゃないんですか?新約・旧約聖書における神の真の名は、キリスト教とは関係無く三文字なのは間違いないと思いますが。それから「ヤッちゃん」と「エッちゃん」を一緒にせんでください(笑) (別に信者ではない・CSU)
- え?一緒でしょう。もし「造物主」なるものがいるとすれば、それは唯一のものであるはずです。「ヤッちゃん」にしろ「エッちゃん」にしろ「アッちゃん」にしろ、呼び方が違うだけで同じ存在のはずです。違うのは信じている預言者ですよ。 (ホーエンハイム)
- 造物主なんていないから「ヤっちゃん」も「エっちゃん」も「アっちゃん」も違う人ではないでしょうか。 (しまよこ)
- 最高指導者の下に、「るー坊」とか「みーちゃん」とかはいないのかな? (西久保)
- 「ありて、あるもの」を意味する「三種類の文字で四文字」といえばいいのかな?「しまよこ」さんは、中東の方と話をするときは注意してね、アラブの人は「異教徒」には比較的寛容な方だけど「無信仰な人間」には手厳しいですから(これは本当だから新宿・渋谷などで確かめないように) (TOMO.KIN)
- 3文字とか4文字の話をしているから書こうと思ったけと、TOMO.KINさんに先を越されてしまった。くうぅぅ、負けた(何にだ?)。ちなみに、クリスマスを祝ったり初詣やお盆と何でもやっている日本人に対しては、もともと「白い目」をしている人もいるので気を付けましょう(まぁそういう人は日本に来ないでしょうけど)。日本以外では通用しないんですよねぇ、色々やるのって。そうそう、忘れていました。展開予測には反対させてもらいます。 (ばーにー)
- ここらへんだけ読んでると「アっちゃん」「マっちゃん」「ヤっちゃん」「エっちゃん」「ジョーちゃん」「るー坊」「みーちゃん」…なんか、くらくらしてきた(笑)。 (Ihori)
- TOMO.KINさん、私は無信仰です。いけないことなのでしょうか? (しまよこ)
- 「しまよこ」さん、「無信仰」なのはべつにかまいません、人それぞれ思想・信条が異なりますから。ただ胸を張って言うほどの物ではない事はまちがいないでしょう「私は、ゴーマンな人間です」と公言するのと同じ事ですから (TOMO.KIN)
- 「ゴーマンな人間です」というほどのものでもないでしょう。日本でこの言葉を口にするときはせいぜい「支持政党なし」ぐらいのニュアンスでしょうから。ただ「造物主」の存在の有無と、信仰の有無とは別問題でしょう(いてもいなくても信仰は存在する)。
- 「世界の始まり」「人の生と死(生き方・倫理観を含む)」この二つについて触れてない教えは「宗教」ではなく、「哲学」の分野でしょう。「造物主の存在の有無」については立証出来ないことについては(神学論争)、とやかくいえない(生半可な知識で発言するには重たすぎる)ので、これ以上は教会の神父か牧師さんの専門分野、ということで私は逃げます(笑)...だけど「神様(創世の)」なしの信仰ってなにがあったっけ?(しつこいぞ...笑) (TOMO.KIN)
- あ、私が言いたいのは神の存在を断定できなくても現実に信仰があるということです(もっとも信仰している人たちは「断定」しますけど)。ところで、このすぐ上の奴は私です。名前書き忘れました。 (ホーエンハイム)
- 「神様(創世の)」なしの信仰ってことで、作家の井沢元彦さんは日本人に古来より伝わる「和の精神」「コトダマ信仰」「ケガレ信仰(?)」を挙げていらっしゃいます。詳細は省きますが、これらのせいで外来の宗教(仏教、キリスト教など)も日本独自のものに変質(神仏混合など)してしまい、それらの影響は現代日本にもいきづいている(縁起かつぎ等)というものです(ある意味宗教を超えた信仰)。まあ、少しニュアンスがずれている(神学というより民俗学?)かもしれませんが、あくまで参考までに。 (Ihori)
- 「和の精神」...これは「和をもって尊し」とするやつですか?これは「治世学」の方にはいるのでは?「神道」のほうも明治維新で「国家神道」となるまでは「天皇家の私的行事」の枠内で、ときの為政者の権威付けには利用されても国民的な宗教という風合いは薄いのでは(これは鎌倉以降の武士の時代)。平安時代は「仏教」がはばをきかせていたと思います。ところで...「国生み」は創世神話と言えないの? (TOMO.KIN)
- あくまでも参考ということで井沢元彦氏の説(僕Ihoriの説では無いです、念のため)を挙げたのですが、氏の著書「逆説の日本史」の平安時代の処を著作権侵害にならない程度に例としてざっと紹介しよう…かとも思いましたが、やはり止めておきます(ご興味の向きは氏の著作をお読み下さい)。ご指摘の様にカテゴリがズレているかもしれませんが、僕が言いたいのは「信仰」(といっても少しその意味を拡張しないとあてはまらないのかもしれませんが、例えば根拠抜きに信じていることとか)についてであって「宗教」についてでは無いのです。それはそうと平安時代の「宗教」といえば確かに「仏教」がありますが、明らかに中国や朝鮮のそれとは大きく変容しています(そもそも「仏教」には悪霊を退散する教えなど無い訳ですし)。「神道」に関してはこの頃にはすでに「仏教」と混淆していて境界が非常に曖昧であったと記憶しています(寺院で鏡を祭っていたり、神社で仏像を拝んでいたり。だから一言で「仏教」と言ってしまうのは難しいんです)。本格的に「仏教」が大衆のものとして研究され始めるのはやはり鎌倉時代以降でしょうか。それと「国生み」は環太平洋地域にも類似の姉妹神話をもつ、立派な創成神話でしょう(諸星大二郎作品とかいいですよね)。 (Ihori)
- 「井沢元彦」氏て「SAPIO」に連載しているあの方ですか...?あの人は「小説家」であって、「歴史研究家」でも「民俗学者」でもないでしょう。「根拠ナシの信仰」のたとえに「いわしの頭も信心」というのがありますが、それも元々のいわれがあった物が次第に忘れ去られて「かたち」だけが残った物でしょう。そういった物のもともとを調べたりする事が「民俗学・歴史学」の学者が調べて記録する、その姿勢がわたしは忘れてはいけない大事な事だと思います。...「仏教に悪霊退散の教えが無い」というのは初耳です、誰の説ですか?「密教」は仏教ではないということになりますが...大衆の物というのは「大乗」のことをさすのでしょうが、それ以前の「上座部」もそれなりに信ずる者が多かったと思います。「根拠ナシに信じろ」これでは「日本人が『論理的思考』がない」というのと一緒で、現在の坊さんは全部人に教えを説く資格が無いみたいで悲しいぞ(笑)***追伸・インドの悪霊「魔羅(マーラー)」てゲーム「女神転生」では「いやーん」な形をしていると思いませんか?(笑) (TOMO.KIN)
- あのマーラーは狙ってやっていると以前金子一馬氏何かにが書いたような気がします。ついでに言うとミンジュク様やクトゥルー(間違ってるかも)などあーゆ形をしてたり、あれがデザインに使われているのはわりとよくあります。そういうとこを含めて氏のイラストはかなり好きですね。なんか全然関係ない気がするね。
- うーん、好きな話題だったけど乗り遅れてしまった(笑) ちなみに「エっちゃん」の名前は「ヤっちゃん」の名前四文字に「アドナイ」の母音を合成した、いわばラビの学名ですな。あと神がいないことの証明は出来ないことの証明はできます。ややこしい。 (如月 狂四郎)
- IhoriさんとTOMO.KINさんの話ですが、宗教の話ですから、「歴史研究家」でないからというのは関係ないと思いますよ。なんせ日本の歴史研究家は宗教に対して「無知」と言っていいほど知識も理解力も持っていない方が主流を占めていますから。それに専門家でないから信じられない、というような発言に見受けられますが、それでは政治の事は政治家にしか、民族芸能の事は民俗学者にしか分からないのでしょうか?そうではないでしょう。「小説家」だからと言って見もせずはなから否定するのはどうかと思いますが。話は変わりますが、私なりの「悪霊退散」についての意見ですが、おそらくIhoriさんの言う「悪霊」とは怨霊の類のことを指していると思われます。そしてTOMO.KINさんは妖怪(物の怪)を含めて指していると思われます。密教の「悪霊退散」は妖怪の類をどうにかするものだったと思います。「怨霊」はこれに含まれていません(というか概念がなかったはず。もちろん日本では怨霊も含まれている)。まぁどちらの言い分も正しいわけですが、「悪霊」のニュアンスが違ったという所でしょうか。この場合「悪霊退散」と言うよりは、「怨霊鎮魂」と言った方が誤解が少なくてよいかと思います。ぜんぜん関係ありませんが、「ペOソナ」まだやっていないんです。もっと時間があれば(笑)。 (ばーにー)
- ばーにーさんへ。フォローありがとうございます。「悪霊」についてはご指摘通り「怨霊」の類の意味で、仏教説話の「鬼」の類では無いです。#TOMO.KINさんへ。平安期の「仏教」は専ら貴族の為のもので(引退後の天下り先とか、内乱や政治で敗北した後の勤め先とか…もちろんお国のために仏道にいそしむ敬賢な僧もいたでしょうが、彼らの多くは貴族連中と信仰ならぬ親交の深い荘園持ちなのですから。一般大衆にとっては「仁和寺の法師」みたいな坊さんばっかりだったのかも)「宗教」として一般の大衆に広く浸透したのは末法思想ふきすさぶ鎌倉以降だと考える事も出来ると思います(もちろんこれ以前の大衆の「仏教」を否定している訳ではありません)。# (Ihori)
- わたしが「○○は小説家だからいうことを信じない」という意味の発言をしたと受け取ったわけですね?だいじなことは「物語・フィクション」と「歴史」をごっちゃにして話されると困るのです「荒俣宏」は私の好きな作家の一人ですし、彼の博物学の知識には畏敬の念を抱いていますが「帝都物語」を「歴史小説」とはみてません(あれは伝奇ホラーに入ると思う)...つまり、他人の説をうのみにして(自分で消化せずに)紹介するのは「権威主義」です。「私はこの人の言う事は『正しい』とおもう、批判するなら私が受けてたつ」というほどでないと「○○が言ってたので、私の説ではない」なら「あなたはどう思うの?」の問いかけがすべってしまう(特に「新しい教科書をつくる会」の動きには政治的に危険な匂いを感じるもので...関係ない話でごめん)***閑話休題(それはさておき)「権力と宗教」がタッグをくんだらどういう状況を生み出すかは過去の事例がしめしていますが、あくまで「われわれの世界」と「GS世界」が同じ過去を共有しているかわからないけど「怨霊」の怖さは笑い事では済まされない切実な悩みに違いないでしょう (だから高野山や比叡山が平安時代から「力」を持ち続けたと思う...)鎌倉以降は「武士と寺社」の対立が激しくなったのは信長の頃がピークで、それ以降は権力に逆らう形の「一揆」は散発的なものになって行った。(一向一揆やキリシタン教徒の話は割愛します)***「鬼」は武士の時代の到来とともにその姿を消して行ったのは「興味深い」けど今日はここまで。 (TOMO.KIN)
- 僕は「あくまで参考までに」こういう話もある、といったことでたまたま読んだことのある氏の著作を紹介しようと(わざと「自分で消化せずに」客観的に、と努めたつもりで)したのですが(ただし「〜と思う」というのは拙見です)、どうやら僕が氏の説を「うのみ」にしている、と思わせてしまった様です。はたして僕はろくに自分の意見も表そうともせずに「虎の威」(著名人の意見)を借りて他の方々に議論をしようとした「狐」だったのでしょうか?そう(だったの)かもしれません。その点に関してはお詫びを申し上げると共に、TOMO.KINさんをはじめこの書き込みにお付きあいいただいた皆さんに感謝いたします。そもそも「批判するなら私が受けてたつ」というほど強力な武器(知識)も兵法(論法)も今の僕にはありませんし、論点があきらかにくろすさんの予測からも脱線している様なので、くろすさんにその点をお詫び申し上げると共に、こういった話題に参加する前にもう少し慎重になることを約束して、これにてこの場(コメント)からはおいとまいたします。長々と失礼いたしました。といいつつP.S.確かに「「物語・フィクション」と「歴史」をごっちゃにして話されると困」りますが、「歴史」とか例えば「宇宙の果て」とか「原子中の電子の様子」だとか実際にこの目で(今の時点では)確認できない物事を研究していくためには、あらゆる分野の頭脳を駆使していくことが必要でしょう。たとえそれが「フィクション」であったとしても真実を追及することに貢献できるのでは、というと「まだ他人の説を…」と思われても仕方ないですね(苦笑)。要は論理性を見失しなわないことだと思っています、って今の僕にはこんなこと言う資格はありませんかね(苦笑)? (Ihori)
- 本当は「議論」で理解を深めるのはいいことですが、「お気に入りの小部屋」みたいに適当なタイトルをつけて「馬鹿話&うんちく話+笑える逸話」などを話せたらいいですね (TOMO.KIN)
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