ルシオラの幸せ
投稿者名:しまよこ
投稿日時:(98/ 7/25)
掲示板に「ルシオラを幸せにして」と載せたところ、「ルシオラは幸せだった」と言うコメントが2名から寄せられました。
そこで、皆さんにお聞きしたい。今週号(7/22)のルシオラは幸せだったのでしょうか?
幸せと思う方は賛成に、幸せでないと思う方は反対に票を投じて下さい。
私は、幸せな死などあり得ないと思っています。
高校時代の友人は3人の子供を残して癌で死にました。子供のことを考えて彼女はさぞかし無念だったろうと思います。
癌で死んだ会社の先輩。生きていればスターウォーズのその後も語り合えたのに。
癌で死んだ義父は最後まで、死を恐れていました。
86歳で死んだ祖母でさえ、最後まで残された家族の心配をしていました。
死、そのものが不幸なのです。
たとえルシオラが自分の命を好きな男にあげたからといって、彼女が幸せになったりはしないと思います。
彼女はできれば、横島と一緒にアシュタロスを倒し、横島と一緒に日々を重ねたかったのではないでしょうか。
それができないと思ったからこそ、彼女はあの選択を選んだのです。どうして、これが幸せなのでしょうか。
ルシオラには心残りがたくさんあったはずです。
ちょっと感情的になりました。
できれば、どういうのがルシオラの幸せなのかもご意見をお聞かせ下さい。
今までの 賛成:4 反対:7
コメント:
- わからないので、どちらにも入れません。ただ、これだけは言えると思います。他人がそのひとの『幸』『不幸』を勝手に判断することはできないと。 (G.G.)
- うーん、私もハッキリとは答えが出せませんが、ルシオラは依然にも一晩と引き替えに命を捨てるようなマネをした事があるんで、今回も似た心境だったんじゃないでしょうか。自分で死ぬ場所を見つけられるってことは結構幸せだと思います。 (如月 狂四郎)
- う〜ん、難しいところだけど、やはりルシオラとしては本当は横島君とともに未来を歩みたかったというのが本音でしょう。確かにあの場面ではあれしか選択が無く、そしてルシオラにとってそれが唯一残された満足のいく選択だあったことは否めません。しかし、やはりルシオラの本当の望みは、戦いで傷ついた横島君を笑顔で迎えたい・そしてこれからも一緒に、というのが本当の気持ちではなかったかと思います。よって反対票に入れさせていただきます。 (ポチ)
- 「今週号のルシオラが幸せか」と言う問いかけでしたので賛成に入れさせていただきます。「死そのものが不幸」と言われることに反対するつもりは毛頭ありません。ですが、「死が不幸」=「死んだ人が不幸」という図式は必ずしも成り立たないはずです。少なくとも惚れた男が命を懸けて自分を助けてくれたという事実において、彼女が幸福だったのは間違いありません。ですが、その結果生じた不幸、「横島が死んでしまう」と言う事態を前にして彼女が選んだのが、彼女によって不幸の度合いがより小さい、「自分が死んでも横島が生き残る」ということだったんです。彼女が不幸ではなかったわけではないでしょう。ですが幸福と不幸を天秤にかけて本人がどう感じるかが一番重要なはずです。彼女のあの最後の表情は幸福感に満ちた美しいものでした。あの瞬間彼女は間違いなく幸せだったと私は信じたい。幸せな気持ちのまままま死んだ人は幸せです。それは「幸せな死」と言って良いと私は思います。(その場合不幸なのはあくまで残された人々です。)「死、そのものが不幸」だと言うとき、逆に「生、そのものが不幸」とも言えることになります。死も生も、その幸不幸を決めるのは自分自身だと私は思っています。そして彼女は自分自身で「選択した」。横島を見捨てることもできたのに、です。私はその彼女の意思を尊重したいと思います。最後に、「本当の幸せ」は彼女が決めることだと思いますが、私が考える彼女にとって一番の幸せとは、「横島から一点の曇りのない愛情をうけつつ天寿を全うすること」です。そのためには今の横島では役不足でしょうが、それをクリアするには美神を無理矢理にでも土俵の上に引きずりあげて、その上で美神に勝つ必要があるんです。それを端から「美神に勝てない」と思っていた彼女は、結局あれが精一杯だったのではないでしょうか。 (ホーエンハイム)
- 死んでしまったら残された方はつらいですよ。やっぱり。あの状態では仕方ないかもしれないけれど、横島の戦う意味をなくさせてしまったのだから、批判を承知でいいますが、横島とのこれからが無い以上幸せではないとゆーことで。 (H.I)
- テーマが「人の生と死・幸福と不幸」という重たい物なのでこういう言い方があっているか不安ですが...「GS世界において、生き返る事はべつにして、 生者と死者の垣根というか、意志の疎通の壁は低いと思います。「思い残した事があるので苦しい・悲しい」というのはあの世界では少ないでしょう、「遣り残した事」というのはどうしようもないのですが...「思い」を伝える手段がある事で「救われる」という事ってけっこうあるでしょう。「遣り残した事」というのは、言葉を変えれば「あの時、ああすればよかった」ということは死者だけでなく、生きている誰でもあることでしょう...ということは「いかに後悔の無い『生』を送れるかの問題」となります...現実と「漫画の世界」を一緒の前提での議論は難しいのですが...「もしも」の話ですいませんが、「しまよこ」さんがプライベートなかたの「死」を持ち出したので「答えて欲しい」のですが、「もしも、死者との交流が可能な手段があれば、@あなたはそれを使用しますか A代償は何が値するとあなたは思いますか(もしも「お金」というならいくらまでが妥当か) B 『不幸せ』はなくなると思いますか?」...このページの答としたら、「ルシオラは満足していたが、遺された者には衝撃が大きい」というのが私の感想ですが、わたし・個人的には「まだ死んでないに一票」としといてね、お願い (TOMO.KIN)
- 彼女が幸せだったと思うぐらいなら、今週号を読んで私は泣いたりしまん。御都合主義でもいい、こじつけでもいい、読者の大半からヒンシュクをかってもいい、彼女が横島君の元に帰ってこれることを切に願っています! (虚空蔵)
- 私も泣きました。当然、反対です。人間の考え方ってのは、十人十色、いろいろあるもんでしょうが、彼女のあの誰にも見取られずに逝った姿を見て、幸せだという人がこの世にいるなんて、私には正直、信じがたい。 (ヘルシング)
- 「幸せな死など有り得ない」という考え方自体に反対ですね。そもそも「不幸な死」と「身近な人の死」のみで判断する事自体が間違っていると思います。「死」についての本は色々出ていると思いますので、それを読んでみてはどうですか?それと、こんな事を書くと怒られる方も多いとは思いますが、「魔族は上司の為に死ぬ事にすら喜びを感じる」といった表現が「香港編」でありましたよね。ルシオラも魔族です。我々とは異なる「幸せ」の価値観を持っていると考えるべきではないでしょうか。あ、でも、最近の魔族って人間と大差ないように描かれているんですよねぇ。うーん、自信が無くなってきた(笑)。 (ばーにー)
- 愛する男の去りゆく背中を見送りながら冷えた夜風にはかない我が身を委ねる魔族の少女。この時、果たしてルシオラは「幸せ」だったのか?こればかりは僕には分かりません(よって保留)。おそらく彼女にも「幸せ」なのか「不幸せ」なのかは分からなかったのではないでしょうか。ご主人様とペットで始まった二人の関係は最初から前途多難でした。少なくともルシオラにとっての最高の「幸せ」は「愛する者と共に生きる」ことであったと思われますが、自分たちにふりかかる運命という「不幸」のさなかで彼らは可能なかぎり「幸せ」をつかもうと懸命でした。あの瞬間も彼女はそれを実践したのです。「自分の霊基とひきかえに横島の命を救う、そして横島を美神のもとへ向かわせる」行為はあのときのルシオラにとって最大公約数の「幸せ」であったと思いたいのです。たとえ「死、そのものが不幸なので」あったとしても。 (Ihori)
- 掲示板に「ルシオラは幸せだったのでは」と書いた西久保です。私がそう思ったのは、彼女が自分のやったことに後悔せず、その結果迎えることになった自分の「死」を静かに受け入れたからです。一つの考え方に過ぎませんが、「死」と向かい合った時の態度がその人の人生のありようを示すのなら、ルシオラは納得のいく生き方をしたのだ、と言えるのではないでしょうか。もう一つの考え方に「生きていればもっと幸せになれた」と言うのがあります。無論真実です。でも、これは、この場合は言ってはいけないことのような気がします。なぜだかはわかりませんが...。 (西久保)
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