ザ・グレート・展開予測ショー

永遠のあなたへ(70)


投稿者名:馬酔木
投稿日時:(00/10/19)

 ―――「……」

 聞こえたのか、聞こえなかったのか。
 呼ばれたのか、呼ばれなかったのか。
 よくわからない、不可解な何かの「声」のようなもの。
 夢現にそういったものを聞いた気がして―――穏やかにたゆたっていた静かな眠りの海の中から引き上げられる。
 ぼんやりとした、覚醒。
 朦朧としている―――と言うほどではないが、霞がかかったようにはっきりしない頭を動かし、心持ち身を起こしたピートの目に入ったのは、夜の青い空気に満たされた白い壁だった。
 それが、白い壁紙を継ぎ合わせて作られている天井だと気づくのに、しばらくかかる。
 軽く鼻を突く、オキシドールの臭いが僅かに混じった独特の空気。少し硬く感じられるぐらいよく糊の利いたシーツ、着せられているのは多分、白いお仕着せだろう。
 視覚や触覚から仕入れたそれらの情報から、どうやら、どこかの病院に運ばれたらしいと気づくまでに、さらにもうしばらくかかる。
 まだぼんやりとしている頭が状況把握のために動いている間、ゆっくりと首を回して左右を見てみると、間仕切りらしいカーテンが、頭の方にある壁の部分を除いて、自分のベッドの周囲をぐるりと囲んでいるのがわかった。カーテンを支えるリールのカーブや部屋の空気の感じのからして、恐らく、二人部屋の片方のベッド、と言ったところだろう。
「……」
 視界にかかる前髪を払おうと片手を持ち上げて、腕に包帯が巻かれていることに気づく。特に怪我をした覚えはないのだが、肘から手首にかけて真っ白な包帯が巻かれており、肌から感じる感触で探ってみると、どうやら、もう片方の腕や両足、頭にも包帯が巻かれていることがわかった。
(何か、擦り傷でもあったのかな……)
 一応目は覚めたものの、疲労のせいか、意識も体もひっくるめて、全身がだるい。
 どこかの窓が開いているのだろうか。ふとした風の流れを感じ、ゆっくりと寝返りを打って風の流れてくる方へと体を向けると、ベッドの左側にかかっているカーテンの向こうに、自分と同じようにして誰かが寝かされているらしいのがわかった。
 そちら側の窓が開けられているのだろうか。ベッドの上に横になっている人のシルエットが、白色の薄いカーテンの向こうから射し込んでいるらしい月明かりに照らされて、ぼんやりとそのカーテンに映し込まれている。
(……女の、人……?)
 自分と同じように、体を横向きにして寝ているらしいそのシルエットの肩や全体の体のラインに、女性独特の丸みがあるのを何となく感じてそう思う。しかし、疲れたピートの頭には、はっきり言って、そんなことはどうでも良いことで―――

「……ピエトロ君」

「―――!」
 間仕切りの向こうにいる相手が誰かなど、それ以上詮索せずに再び眠りに沈もうとしたピートの意識を、急速に引っ張り上げる声と、その、彼女特有の呼び方。
「加奈江……さん?」
 さては、最初に夢現に聞いたような呼び声も彼女のものだったのか、と、その名を口にしながら考える。しかし、そのピートから発された言葉に対する返事は無かった。
「……加奈江、さん?」
「だめ、そのまま!」
 二人の間にしばしの沈黙が満ちた後、ピートが思いきって、自分と彼女のベッドとの間を仕切るカーテンに手を伸ばすが、ぴしゃりとした声に制止される。
 そして、手を伸ばそうと半端に上体を起こしたその姿勢のまま黙って彼女の言葉を待っていると、囁き声のような小さな声が、カーテンを軽く揺らす程度に吹き込んでくる些細な夜風に乗って耳に届いた。
「……そのまま、黙って聞いていて。……多分、今、警察やGS協会のお偉いさんが相談をしている頃だと思うわ。……多分私は、夜明けを待たずに別の病院に移されると思う」
 ―――そうでしょう、ね。
 否定などせず、あえて頷いた心の中での返事は、普段のピートから考えればかなり冷たい対応だろう。それでも、今更もう何も聞きたくないから喋らないでくれ、と言えるほど相手を拒絶できないところが、彼らしいと言えばそうだった。
 言われた通り、黙って加奈江の言葉に耳を傾ける。
「……ごめんなさい。沢山、迷惑かけたわね」
 ありきたりな謝罪の言葉。
 しかし、それを紡ぐ加奈江の声に含まれた重みは、決してありきたりな、上滑りなものではなくて―――顔を俯かせていたピートは、ふと顔を上げて、カーテンに映る加奈江のシルエットを見つめた。
「私、貴方を―――『永遠』の存在を見て、頭に血が上ってたんだわ。……とにかく貴方が―――『永遠』が、欲しくて欲しくてたまらなかった。……でも、私が求めていたものは、本当の『永遠』じゃなかったんだわ。私、本当の『永遠』を知らずに、求めるだけ求めて―――貴方を、傷つけたのね……」
「……」
「―――本当に、ごめんなさい。……私、きっと、貴方のことを忘れさせられると思うわ。貴方に、こんなにひどいことしてしまったのにね」
 彼女が自分で言っている通り、恐らく、加奈江に対する事後処置は、最終的には記憶封印となるだろう。加奈江はピート個人について知り過ぎた。彼女の本心がどうであれ、客観的に見て、またピートを狙う可能性有りと判断された場合、それを未然に防ぐために、加奈江の中からピートに関する情報を抜く処置が行なわれるのは、まあ当然で一番手っ取り早いことと言えるだろう。しかし、この加奈江の事件の場合、加奈江の中からピートの記憶を封印すると言うことは、同時に、加奈江の中に生まれたピートへの罪悪感、謝罪の念をも封印すると言うことである。つまり、記憶を封印した時点で、当面のピートの安全は確保されるものの、加奈江からのピートに対する謝罪は、彼女が記憶を取り戻さない限り、永久に失われるのだ。
 ―――だから、加奈江はピートに謝る。
 自分だけが、この事件に関する記憶から、切り離されてしまうことを。
 この事件で最も傷つけられた彼を、置き去りにして―――
「ごめんなさい。だから、貴方も私のことを忘れて。こんな女のことなんて、全部忘れて。貴方の記憶の中に私を残さないで―――」
 静かな―――しかし、これまでの加奈江のそれとは明らかに違うものを孕んだ声で加奈江はそう言うと、口を噤んだ。
 返事を期待して言葉を切ったわけではない。むしろ加奈江は、沈黙によってぶつけられる痛みを、怒りを望んでいた。
 ゆらり、と、先ほどまでよりも少しだけ大きくカーテンが波打つ。
 そして、そのカーテンの揺れが収まった後、揺るやかに吹き込む風とは違った空気の流れが、加奈江の鼓膜に触れた。

「―――もう、良いです」

 無視を、もしくは、激しい怒りを予想していた加奈江の耳に、ふわりと飛び込んできたのは、思いもよらぬ許しの言葉だった。
「……もう、良いですよ。貴方は忘れて良いんです」
 ―――何故、そんな言葉を言えたのか、自分でもわからぬ内に、ピートは静かな許しの言葉を加奈江に与えていた。カーテンの向こうで加奈江が、ハッと目を見開くか、息を飲むかしたのを気配で感じながら、ピートは続けた。
「貴方は忘れて良いんですよ。―――忘れないから。僕が、覚えていますから―――」
 ―――覚えて、いますから。
 それは、何よりも優しい許しの言葉。
 怒りを望む反面で加奈江が望んでいた、ピートの、許しの言葉。
 そんな言葉を紡げたのは―――やはり、自分が長い時間を歩んできて、これからも、そんな時間を歩んでいかなければならない存在であるからだろうか。
 『永遠』を望んでも望めない、限りある存在への―――それは、『永遠』を持ったピートからの愛情か―――もしくは、限りない包容のようなものだったのかも知れない。
 ピートの口をついて出た、許しの言葉。
「―――いつまで?どれくらい、覚えていてくれるの?」
 その許しの言葉に甘えるように尋ねかけられる加奈江の声。
 それに対してピートは静かに―――しかし、はっきりと、答えていた。

「覚えてますよ。僕が生きてる限り―――永遠に―――」

 考えるよりも先に、唇が紡いでいた優しい言葉。
 含まれた、『永遠』の一言。
 ―――永遠に覚えている
 それだけで、加奈江は―――救われたのだ。
 永遠に、貴方の中に―――私は―――

「―――……ありがとう……」

 穏やかに、耳に触れた言葉。
 カーテンの向こうで、加奈江がふわりと―――本当に、その本心から、見ただけで心が解れ、温まるような微笑を見せてくれたような気がして、ピートは今度こそ彼女の顔を見ようと間仕切りに手を伸ばし―――そこでふと、瞼が重く感じられて、目を閉じた。
 それは一瞬の瞬きだったのか―――それとも、疲労のあまり、眠り込んでしまっていたのか。
 ピート本人の感覚ではほんの一瞬目を閉じただけだったつもりだが、ふと眼を開けてみれば、青白く冷えた夜の空気で満たされていた筈の病室には、朝焼けが作り出すほんのり暖かな空気と、ベビーピンクの柔らかく明るい光が満ちていた。
「―――加奈江さん?」
 ベッドの上に身を起こし、カーテンを開けようと伸ばした手よりも早く、穏やかだが大きな風が、ふわりと部屋の中に吹き込んで、間仕切りのカーテンを天井にまで持ち上げる。
 そうして見えたカーテンの向こうには―――加奈江の姿はおろか、ベッドさえもないただの空間があった。
「……加奈江、さん……?」
 すでに、他の場所に移されてしまったのだろうか。
 向こうに見える大きな窓から吹き込んだ風に長い金髪を揺らしながら呼びかけるピートの呼びかけに、応える声は無くて―――
 窓から見える朝焼けの、眩しい光が目に痛くて、風に散らばる髪を手で押さえながら、ふと目線を落とす。
 加奈江の姿はもちろん、ベッドも、何も無いただの空間。
 ―――その空間の、なだらかな凹凸のある、白いリノリウムの床の上。

 きれいに揃えられた一組の茶色いスリッパだけが、置き忘れられたようにちょこんとそこに残っていて、加奈江の姿を探したピートの視線を、所在無さげにそっと受け止めた。

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