ザ・グレート・展開予測ショー

永遠のあなたへ(64)


投稿者名:馬酔木
投稿日時:(00/10/14)

 月。
 空。
 森。

 全てが静寂に飲み込まれたような静けさは、しかし、重苦しいものではなかった。
 服の布地越しに伝わる、背中に敷いた地面のひんやりとした感触。
 少し深く息を吸うと、澄んだ夜の空気が肺から全身に染み渡るような気がして、ゆっくりと、静かな呼吸を繰り返している内に、加奈江は、乱れていた自分の吐息が落ち着いていくのを感じた。
 それにつれて、内に集中していく意識と、外に向けて広がっていく感覚。
 全身で、森の気配を、空気の流れを、僅かな音を感じる。
 見上げれば、夜の空は高く遠く、どこまでも澄んでいて―――
 自分の肩を掴み、夜空を背にしてこちらに覆い被さっている少年の身が、その空に落ちて行くのではないかと言う気がして、加奈江は思わず、こちらの肩を掴んだ彼の手に自分の手を添えていた。
 こちらの肩を掴み、追い詰めて捕まえたまま、苦しげにこちらを見つめるばかりで静止していたピートの体が、ひくりと小さく震える。
 夜空の底を探して天に目をやっていた視線を彼の顔へと戻すと、相変わらず、彼の瞳は相反する感情の葛藤に支配されて、ゆらゆらと揺れている。
 先ほどまでとは、まるで反対だった。
 自分が追われている間、息を乱して逃げ惑う自分に反し、彼はあくまで無表情で冷たかったのに、今は、自分の心は凪いだ海のようにシンと静まり返っている。それに対して自分を追い詰めた筈の彼は、何かを迷い、苦しんでいるような色を瞳に浮かべ、表情を硬く強張らせたまま動かない。
 じっと穏やかな目で彼の顔を見つめると、静かに添えている手を通して、彼の手が小刻みに震えているのがわかった。
 無理に無表情を保とうとしているのか、引き結んだ唇の向こうではきつく歯を噛み締めているらしく、顎から頬にかけての柔らかなラインが時折ヒクヒクと震え、軽く引き攣れているのがわかった。
 泣くのを我慢している子供のような―――無理に噛み締めているために、強張ったまま固まっている頬に、そっと手を滑らせる。
 もともと色白な上に月明かりを受けているせいで、全く血の気を失っているように見える頬はそれでも柔らかく、瑞々しい弾力を確かめるように指を押し付けていると、肌を合わせて触れている箇所から、じんわりと染み込むように暖かい熱が伝わってきた。
 ピートは、動かない。
 軽く目を見開き、唇を引き結んだまま、黙っている。
 なだめるようにその頬を撫でて、加奈江は静かな声で尋ねた。
「―――ねえ」
 胸の動揺を―――迷いを反映してか、心持ち伏せ気味になっていたピートの瞳が、穏やかな声に、弾かれたように見開かれる。
 ゆらゆらと、不安な光を宿す瞳は、涙を湛えているようにも見えた。
「どうして、貴方は永遠を拒むの……?」
 静かな声で尋ねながら、優しく撫でさするように、その白い頬の上でそっと指を往復させる。
 ピートの瞳は揺れている。
 その揺れは、加奈江の手がその頬を撫でる毎に、次第に静かに凪いでいき―――やがて、一つ瞬きをして、ピートは静かに言葉を紡いだ。

「貴方が―――貴方が、永遠を求めるのは―――貴方が、本当の永遠を知らないから……」

 冷たく青く、澄み渡る夜の空気に、滲むように解けて消えゆく少年の声。
 ほんの少しだけ顔を寄せて、神託のように厳かな声で告げられたその言葉は、加奈江の問いの答えにはなっていない。
 それは答えどころか、勝手な独白のようなものであった。
 が、しかし―――

 加奈江は、しばし、きょとんとした表情のままピートを見つめた。
 それを見つめ返すピートの瞳は、もう揺れていない。
 不安定に揺れてはいないが、しかし、それでもどこか苦しげに眉を寄せているピートの顔を、加奈江はもう一度だけ静かに撫でると、そっとその手を下ろした。
 そして、僅かに―――微笑んだのだろうか。
 微笑んだのか、それとも、ただ目を閉じただけだったのか。
 そのどちらだったのかピートにわからせない内に、加奈江は目を閉じ、その喉を軽く反らせた。
 月光に晒される、白い喉首。
 そして、まるでそれがあらかじめ約束されたことであったかのように、ピートはその細い首の喉元へと顔を寄せた。
 生身の若い女性の肌は柔らかく弾力があり、すぐにスッと牙が通るわけではない。
 ぷつり、と、牙が肌に食い入る瞬間の僅かな抵抗の後、唇の先から舌に、じわりと血の味が広がった。
 錆を舐めたような何とも言えない味と、ほの温かい熱を持った感触に、一瞬、舌が麻痺したように感じる。
 ずっと昔から血を吸うことなく生き、吸血鬼でありながら、血を吸った経験など本当に数えられるほどにしかないピートではあるが、やはり、この一瞬に何か恍惚としたものを感じてしまうのは、吸血鬼の本能か。
 ―――加奈江の身の底に解け込んでいた自分の血が、魔力が、彼女の血と入り混じって吸い出され、自分の中に戻ってくる。
 血を吸われ、魔力を吸収されながら、加奈江は静かだった。
 吸血鬼に血を吸われている間、人間は忘我の状態に入るとも聞くが、全くの無痛ではないだろうに、肌に牙が食い込んだその瞬間にも加奈江は身じろぎ一つしなかった。

 ―――ぴちゃり

 声も、音も―――これと言った気配すらなく、神聖な儀式のように行なわれた静かな吸血の最後に、ピートは自身の唇を軽く舐めた。
 血が、唇の方に伝っていっていたのだろうか。
 舌先を掠めた血の味に、もう一度唇を舐めてから顔を上げると、加奈江の顔が視界に映った。
 もともと特別な霊能力の無い加奈江には、魔力を失い、魔物の体から人間の体へと戻った時の、急速な肉体の霊的変化に意識がついていかなかったのだろう。
 軽く喉を反らせた姿勢のまま、眠り込むように意識を失ったであろう加奈江の表情は、ごく穏やかなものだった。
 そしてあれは―――彼女から抜け落ちた、牙だろうか。目を閉じている彼女の唇は僅かに開いており、頭の下にふわりと広がった黒髪の上に、淡水真珠のような、どこかいびつな感じに尖った白い粒が二つ、ころりと転がっている。
 彼女が魔物であった証とも言える、その牙を、何となく拾い上げようと伸ばしかけて―――
 ピートは、ぴくりと指先を震わせると手を引き、弾かれたように立ち上がって、加奈江の姿を見下ろした。
 加奈江に噛みついてから、ずっと無表情を保っていたその表情が、唇から歪むように強張り、眉がくしゃりと寄せられる。
 口の中を舌でまさぐると、まだ生々しく体温さえ感じられる血の味が、べっとりと舌の上にこびりついているのがわかった。
「…………」
 穏やかな―――月明かりに照らされて、どこまでも穏やかに見える加奈江の顔に視線を寄せたまま、ピートは加奈江の体から離れ―――そのまま、ゆっくりと後ずさりに歩いた。
 ざっ、ざっ、と、一歩一歩、砂利の多い土を踏み締める靴音が、いやにはっきりと際立って聞こえる。
「―――あ」
 そうして後ろ向きのまま数メートルも歩いたところで、ピートは不意に足をもつれさせ、膝から崩れるようにしてその場に座り込んだ。
 加奈江との追いかけっこで緩んでいたのか、座り込んだその弾みに、長くなった髪を結っていた紐が、するりと解ける。
 はらはらと、解けた髪が背中に広がる感触をぼんやりと感じながら、ピートは尚も加奈江の方を見つめ続け―――

「―――ッッ!!」
 不意に、ヒュッと喉を詰まらせたような、息とも声ともつかない音を喉から発すると、ピートは、自分の腹に拳を叩き込んでいた。
「……ッ、か、ぁ……っ……」
 喉を裏返した吐息に続いて、僅かな胃液と共に喉をさかのぼって来る鉄の味。
 時折咳き込み、激しく背中をしならせながら、ピートは自分の腹に拳を叩き込んで、加奈江の血を吐き出した。
 片方の手を地面につき、前のめりになったピートの顔の下の地面に、胃液と唾液の混じった赤い液体がぽたぽたと落ち、白く乾いた砂利の大地に、夜目では黒く見える染みを作る。
 何度も、何度も、何度もそれを繰り返して―――
 やがて、その唇から出てくるものが、苦しい吐息だけになった頃、血とは異なった液体が、ピートの頬からぽたりと伝い落ちて、地面に丸い染みを作った。

 ―――涙、だった。

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